第三話
碧が勤める福祉相談センターは、駅前の雑居ビルの三階にある。
派手さはないが、いつも人の出入りがある場所だ。
午後の相談は、三件続いた。
高齢者の生活支援、障害者手帳の更新、そして最後に、若い女性がひとり。
その人は椅子に腰かけるなり、少し緊張した様子で口を開いた。
「……男性化オプションって、福祉の対象になるんでしょうか」
碧は、表情を変えずにうなずいた。
驚くほど珍しい質問ではない。ここ数年で、何度か聞いている。
「条件はありますが、支援の対象になる場合はあります。医療費の一部や、カウンセリングの費用などですね」
女性は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「子どもを、諦めなくていいかもしれないって言われて……」
希望と不安が、同時に混じった声だった。
碧はペンを持つ手を止め、相手の話を遮らないように頷く。
「急いで決める必要はありません。説明会や相談だけでも、利用できますから」
それが、碧の仕事だった。
選択を勧めることも、止めることもない。ただ、道があることを、静かに示す。
相談を終えたあと、碧は窓の外を見た。
夕方の光が、ビルの隙間から差し込んでいる。
技術が進んだことで、救われる人がいる。
同時に、迷いが増えた人もいる。
碧は、自分がどちら側なのか、はっきりとは分からなかった。
帰宅すると、琥珀はキッチンに立っていた。
エプロン姿で、鍋をかき混ぜている。
「おかえり」
「ただいま」
短い言葉を交わし、いつもの距離に戻る。
食卓に並んだのは、簡単な夕食だった。
テレビはつけていない。
代わりに、窓の外から車の音が聞こえる。
「今日さ」
箸を置きかけたところで、琥珀が言った。
声は、いつもと変わらない。
「会社で、男性化オプションの資料が回ってきて」
碧は、少しだけ視線を上げた。
それだけで、話の重さが伝わる。
「そうなんだ」
それ以上、碧は聞かなかった。
琥珀も、続けなかった。
沈黙は、気まずいものではない。
ただ、今までになかった種類の間だった。
「別に、すぐどうこうじゃないよ」
琥珀が、念のためのように付け足す。
碧は、うなずいた。
「うん。分かってる」
食事を終え、二人で食器を片づける。
肩が触れ合い、どちらからともなく謝る。
寝る前、ベッドに入ってからも、話題は戻らなかった。
けれど、同じ天井を見つめながら、二人とも気づいていた。
選択肢は、もう、二人の間に置かれている。
それを手に取るかどうかは、まだ、決まっていない。
***
週末の午後、二人は近所のスーパーまで歩いた。
特別な用事はない。冷蔵庫の中身を確認して、足りないものを買うだけだ。
店内は、いつもより少し賑やかだった。
ベビーカーを押す人、小さな手を引く人、泣き声に慌てる親。
琥珀は、無意識のうちに視線を向けている自分に気づいて、少しだけ苦笑した。
羨ましい、というほど強い感情ではない。
ただ、ああいう時間がある人生も、悪くないと思うだけだ。
レジ待ちの列で、前に並んでいた家族の子どもが振り返って笑った。
意味もなく、ただ楽しそうに。
碧が、そっと手を伸ばして琥珀の袖を引いた。
「……かわいいね」
その一言が、胸の奥に残った。
肯定でも、要求でもない。ただの感想だ。
帰り道、夕方の風が少し冷たかった。
袋を持ち替えながら、碧がぽつりと言う。
「今日ね」
琥珀は、歩く速度を緩めた。
「相談に来た人がいたの。
“決めるつもりはないんですけど、話を聞くだけなら……”って」
碧は、それ以上説明しなかった。
その人が誰で、何を望んでいたのかも。
「話を聞くだけ、か」
琥珀が繰り返すと、碧はうなずいた。
「うん。
それだけでも、いいと思う」
その言い方は、仕事としての助言にも聞こえたし、
個人的な感覚にも聞こえた。
その夜、琥珀は自室で、仕事用のタブレットを開いた。
来週の会議資料に目を通しながら、関連データに軽く目を走らせる。
BMPT関連医療費――
想定より、ほんのわずかに下がっている。
劇的な変化ではない。
理由も、技術革新や制度調整など、ありふれたものだ。
それでも、琥珀は思う。
「……安定してきた、ってことだよね」
数字は、嘘をつかない。
けれど、何を意味するかは、見る人次第だ。
琥珀はタブレットを閉じ、リビングに出た。
ソファでは、碧が本を読んでいる。
少し迷ってから、琥珀は言った。
「碧。BMPTの話だけど、説明会だけ行ってみない?」
碧は、本から目を上げた。
驚きはなかった。ただ、静かに考える表情になる。
「決めるわけじゃなくて」
琥珀は、すぐに続ける。
「話を聞くだけ。
知らないままでいるより、その方がいい気がして」
碧はしばらく黙っていたが、やがて、小さく笑った。
「……うん。それなら」
まだ何も決めたわけじゃない。
それでも、琥珀は自分の思いと向き合うことにした。




