第二話
朝の電車は、いつも通り少しだけ混んでいた。
吊り革につかまりながら、琥珀はスマートフォンの画面を指先で流す。ニュースアプリの見出しは、経済、天気、事件――その合間に、ごく控えめな文字が混じっていた。
《BMPT、運用開始から三年》
記事を開くことはしなかった。
内容は、だいたい分かっている。
BMPTは、生物学的男性形態化技術、女性同士でも子供を作れるようになる技術だ。
欧米で始まって、幸せそうなドキュメンタリー映像をいくつか見た。
制度が整い、医療機関の数が増え、申請の手続きも簡素化された。倫理委員会の審査基準は昨年改定され、自治体によっては補助金も出る。去年は全国で三十人ほどが転換を受け、全員が問題なく経過観察を終えた――そんな数字が、どの記事にも並んでいる。
琥珀は画面を閉じ、窓に映る自分の顔をぼんやりと見た。
二十六歳。社会人としては、もう若手と呼ばれなくなる年齢だ。
彼女は財務経理部で、主にデータ分析を担当している。数字を追い、傾向を見つけ、先を読む仕事だ。
だからこの技術についても、「すごい」と思う前に、「安定したな」と感じてしまう。
革新的なものは、三年も経てば数字になる。
リスクは率に、期待はグラフに変わる。
会社の最寄り駅に着き、改札を抜ける。
医療系企業の広告が並ぶ通路を歩きながら、琥珀は無意識に足を緩めた。
子どもの写真。
ベビーカー。
穏やかな笑顔の家族。
広告に描かれたそれらは、技術そのものではなく、その先を示している。
選択の結果としての風景だ。
――選択肢は、もう、ある。
そう理解している自分に、琥珀は少しだけ驚いた。
それは欲望でも、決意でもない。
ただ、事実として、そこに置かれているだけのものだった。
エレベーターに乗り込み、鏡張りの壁の前で姿勢を正す。
今日も、いつも通りの一日が始まる。
***
午前中の作業を終えたころ、琥珀は部内の共有フォルダに追加された資料に気づいた。
医療機関向けのものではない。福利厚生の一環として、社員向けに配布された説明資料だった。
《生物学的男性形態化技術(BMPT)について》
タイトルを見ただけで、内容の温度が想像できた。
過剰に期待させない、感情を煽らない、淡々とした構成。数字と条件だけが並ぶ、いかにもこの国らしい文面だ。
BMPTは、性別を変更する医療ではない。
体細胞から生殖幹細胞を再構築し、男性型配偶子――精子を形成するために必要な遺伝子機能を人工的に補う技術である。
外見、声、社会的な性別は原則として変化しない。
ホルモン調整も、希望しない限りは行われない。
琥珀は、説明文を一行ずつ追いながら、小さく息を吐いた。
「男性になる」ではなく、「生殖の形を変える」。
その言い回しの正確さに、どこか安心してしまう自分がいる。
通称として添えられていた言葉は、少しだけ軽かった。
――男性化オプション。
選択肢の一つとして提示される以上、それは“特別な決断”である必要はない。
そう言われているようで、琥珀は視線を落とした。
去年、全国でこの技術を受けたのは三十人。
全員が所定の経過観察を終え、重大な問題は報告されていない。
数字としては、もう「例外」ではない。
それでも、誰もが選ぶわけではない。
琥珀は、ふと碧のことを思い浮かべた。
帰り道、買い物袋を提げて歩く背中。眠そうに目をこする朝の顔。ささいなことで笑い合う、いつもの時間。
二人は、今も十分に穏やかだ。
欠けているものは、何もない。
それでも、琥珀が「子ども」という言葉を頭の中で避けて通れなくなったのは、理由があった。
財務の仕事では、将来予測を立てる。
収入、支出、リスク。十年後、二十年後を想定することは、習慣のようなものだ。
その癖が、私生活にも染みついているだけなのかもしれない。
老後のこと。病気のこと。もしものときの、支え合い。
碧と生きる未来を考えたとき、そこに子どもがいる風景が、浮かぶことがある。
強く望んだわけではない。ただ、自然に、想像の中に現れる。
そして、その想像が、技術的にはもう「不可能」ではなくなっている。
琥珀は資料を閉じ、デスクの引き出しにしまった。
今すぐどうこうする話ではない。
ただ――
選択肢がある、という事実だけが、静かに残った。




