第一話
朝の光は、いつも碧のほうが先に気づく。
カーテンの隙間から差し込む淡い光を見て、碧は静かに目を開けた。
隣で眠る琥珀は、まだ夢の中にいる。寝息は浅く、規則正しい。
仕事柄なのか、眠っているときでさえ、どこか几帳面だ。
碧は起き上がらず、しばらくその横顔を眺めていた。
眉の形、まつげの長さ、少し乾燥しがちな唇。
もう何年も見慣れているのに、朝だけは新鮮に思える。
――起こさないでおこう。
今日は琥珀の出勤が少し遅い日だと、昨日聞いていた。
だから碧は、音を立てないように布団を抜け出し、キッチンへ向かう。
二人暮らしの部屋は、必要なものだけが揃った静かな空間だった。
派手さはないが、棚の角や床に置かれたラグの端に、二人で暮らしてきた時間が染みついている。
湯を沸かしながら、碧はカップを二つ取り出した。
形は同じだが、色だけが違う。ひとつは琥珀色、もうひとつは淡い青。
引っ越しのとき、琥珀が「色で区別できるほうがいい」と選んだものだ。
「……覚えてるかな」
琥珀はこういう細かいことを、案外よく覚えている。
けれど、相手がそれに気づいているとは思っていない節があった。
碧はコーヒーを淹れながら、仕事の予定を頭の中で整理する。
今日は相談件数が多い日だ。
進学に悩む子、家庭環境に疲れた人、言葉にできない不安を抱えたまま来る人。
「選ばなくていい選択肢も、あるんですよ」
昨日、誰かにそう言った自分の声を思い出す。
あのとき、相手は少しだけ泣いた。
――私は、ちゃんと自分にも言えているだろうか。
そんなことを考えていると、背後で小さな音がした。
「……碧?」
まだ眠そうな声。振り返ると、琥珀が部屋着のまま立っていた。
髪は少し乱れていて、目を細めてこちらを見ている。
「起こしちゃった?」
「ううん。目が覚めただけ」
琥珀はそう言って、碧の後ろに回る。
そっと腰に腕が触れ、ほんの少しだけ距離が縮まる。
碧より少し高い位置にある琥珀の体温は、同じ女性のそれでも、不思議と落ち着いた。
「今日は早いね」
「相談が立て込んでて」
「そっか。無理しないで」
その一言に、碧は胸の奥が温かくなる。
琥珀は、相手を気遣う言葉を当たり前のように言う。
大げさでもなく、恩着せがましくもない。
「琥珀こそ。昨日、遅くまで数字見てたでしょ」
「……見てた」
苦笑まじりの返事。財務経理のデータ分析という仕事は、正確さと先読みが求められる。
琥珀はその役割を、誰よりも真面目に引き受けている。
「コーヒー、少し薄めにした」
「ありがとう。気づいてくれたんだ」
「最近、胃が疲れてるって言ってたから」
碧がそう言うと、琥珀は一瞬、驚いたような顔をしてから、ゆっくり笑った。
「……ちゃんと聞いてたんだ」
「一緒に暮らしてるからね」
二人は向かい合ってテーブルにつく。
湯気の立つカップを挟んで、短い朝の時間が流れる。
琥珀はノートパソコンを開き、今日の予定を確認しながらも、時折碧のほうを見る。
碧はそれに気づくたび、視線を合わせて軽く首を傾げる。
「なに?」
「いや。なんでもない」
本当は「こういう時間が続けばいい」と思っているくせに、琥珀はそれを言葉にしない。
碧は知っている。だから、無理に聞かない。
「帰り、遅くなる?」
「たぶん、いつも通り」
「じゃあ、夕飯は軽めでいいかな」
「うん。碧が作るなら」
その言葉に、碧は少しだけ笑う。
特別な約束も、劇的な出来事もない。
ただ、お互いの一日を気遣い、帰る場所を確認し合うだけの朝。
それでも碧は、この時間がとても大切だと思っていた。
――ここに、ちゃんとある。
玄関で靴を履く琥珀の背中を見送りながら、碧はそう思う。
ただ静かで、少し甘い生活をかみしめながら。
全9話になります。




