第6話 出陣
それは、背筋が寒くなるような低い声だった。
決して張り上げるような声ではないはずなのに、ダリオン・レスタロス侯爵の声は、広場に集まったすべての騎兵の耳にはっきりと聞こえた。
「昨年の疫病の傷も癒えぬ中、このダリオンのもとへ馳せ参じた貴様らには礼を言う。
今から、バーヴェルのふざけた行いを正しに行く。
水だ。
水を取りもどせ!
バーヴェルが、アストラ川の上流に兵を送り、川をせき止め、すべての水をやつらの領地に流している。
バーヴェルに奪われた水を、レスタロス領の農民のために取り戻すのだ!
よいか貴様ら!
貴様らの力で、水を取り戻せ!
貴様らの力で、レスタロスの民を救うのだ!
貴様らひとりひとりが、レスタロスの民の英雄となり、救いの神となれ!
行くぞっ!
死んでも敵に背を向けるな!
いざ、出陣じゃあああああああ!」
「うぉおおおおおおおおおおおおおおお!」
およそ200騎と70人の雄叫びが、カーレント城の石の壁にこだました。
◆
カーレント地方の水源となっている、アストラ川の上流部。
ブランデルフォークと呼ばれる土地に、その堰は作られていた。
ジルベール・フェアヘルム伯が、ダリオン・レスタロス侯爵を、問題の、バーヴェル侯爵側が築いた取水堰へ案内している。
「今年のはじめごろまで、木杭と板で作った簡単な堰だったとのことにございますが、今はこの通り。石造りの堰に変わっております……」
「奴らは、本格的に川の流れを変えるつもりでいるのか?」
「あの石積みを見るかぎり、その可能性は高いかと……」
「このまま放置すれば、カーレント地方の畑という畑、すべて干上がってしまうではないか」
「はい。なんとしても、川を取り返しませんと」
だが、状況は厳しい。
そもそも、地力に差がありすぎるのだ。
レスタロス侯爵家とバーヴェル侯爵家では、領地の広さ、領民の数、小麦や綿花の取れ高、どれをとっても比較にならないほどの差がある。
ダリオンを「愚昧侯」と呼んで馬鹿にしてきた、先代からの古参の家臣たちは、今回の戦いにも強硬に反対したという。
「こちらは200騎。あちらは300騎。
重装騎兵の数ではたしかに劣る。
だが、こちらは士気高く、あちらは辺境の守備にふてくされている兵ばかりだ。
それに、あのグレイス村の新参者が連れてきた農民の兵。
あれが、この戦の鍵を握る、と、バルトラムは申しておった。
ジルベール。お前はどう思う?」
この戦いに、軍師バルトラムは帯同していない。
高齢でもあり、最近は体調が優れないことも多い。
その代理を務めるジルベール・フェアヘルム伯は、兵たちがカーレント城に参集したとき、エイカンと農民兵を門前で追い払おうとした人物だ。
馬にまたがっているのもやっと、というエイカンの様子を含め、とてもジルベールのめがねに適う軍勢ではなかった。
あの、「預言者」とも呼ばれ尊敬を集める老軍師バルトラムが、農民兵こそ鍵を握ると言ったのか……
ジルベールは、自信なさげにダリオン・レスタロス侯に答えた。
「わかりません。
正直に申しますと、バルトラム様に見えているものが、私には見えておらぬように思います。
歩兵が逆転の鍵を握る、と言われましても……」
「そうか。 そなたにも見えぬか。
実はな…… わしにも見えんのだ。
バルトラムが見ている、来るべき戦いの姿が。
だが、バルトラムは言うのだ。農民兵こそが、レスタロスを興し、高め、天下へと導く、と」
「そこまでおっしゃっているのですか?」
「こたびの戦、せいぜい、あの者たちに期待しようではないか。
本当に活躍するなら、我らは少し楽をさせてもらえるかもしれぬ……」
◆
アストラ川の両岸にわかれて対峙して三日目。
ダリオン・レスタロスが静かに号令を下した。
「いざ……参ろう」
「はっ!」
軍師役のジルベール・フェアヘルムが、右手をまっすぐに上げ、それをゆっくりと前に振り下ろしながら、号令をかけた。
「全軍! 前へっ!!」
重装騎兵とわずかな歩兵が、斜面を下った。
馬が足を滑らさないよう、慎重に手綱を操って、流れが干上がってあらわになっている川床へと降りていく。
敵も、呼吸を合わせて間合いを詰めてきた。
戦場の花形と言われる重装騎兵同士、真っ向からぶつかり合う戦いだ。
最後列に配置されたリック・ジョージ・エイカンも、なんとか味方についていく。
もう、農民兵のことなど気にかける余裕などなかった。
隊列が整う。
きれいな三列横隊だ。
ダリオン・レスタロス侯爵の、地響きのような低い声が響き渡った。
「貴様ら! バーヴェルの弱兵を見事に蹴散らすその様を、すべてのレスタロスの民に見せつけろ!
行くぞ! 民のために!
いざ、戦えっ!」
重装騎兵の列が、一斉に動き出す。
常歩ウォークから速歩トロット、そして駈歩キャンターへ。
敵の姿が、どんどん大きくなっていく。
やがて騎兵は襲歩ギャロップにうつり、馬たちの尻に鞭をくれて、全力疾走で敵の壁に突っ込んでいく。
エイカンはすべてを馬に任せて、必死にその背中にしがみついていた。
なるほど確かに、密集した馬列に、落馬する余地などない。
それにゴドフリーが言ったとおり、この馬は間違いなく賢い馬だった。
周りの馬たちが激しく上下に動きながら走るなか、この馬の背中だけは、まるで雲の上にいるように、穏やかに揺れるだけ。
エイカンが指示などしなくても、自ら周りの歩様に合わせて駆けていく。
あとは、ただ、騎槍を腰だめにしっかりと持って、敵との激突の瞬間に落馬しないよう、耐えるだけだ。
もう、敵は目の前だった。
この速度のままで突っ込むのか!?
そう思った瞬間、エイカンの馬だけがスッと速度を落として後ろに退いた。
周りの騎兵たちは、勢いそのまま、敵の兵列に突っ込んでいった。
最前列の重装騎兵同士が、けたたましい音を立てながら、全力でぶつかりあう。
騎兵の列が、あちらこちらで盛り上がり、そして崩れていく。
「騎槍を捨てよ!! 剣を取れ!!」
周囲で、誰かがそう叫んだ。
エイカンはあわてて騎槍を投げ捨て、腰から大剣を引き抜いた。
「引くな! 押せ! 押すのじゃ!! 一歩たりともひいてはならぬぞっ!!」
レスタロス侯の檄が聞こえた。
侯の狙いは、中央突破だ。
数では劣るレスタロス軍が、バーヴェル軍に勝つための唯一の手段。
敵の中央を完全に突破し、敵を左右に分裂させて、個別に叩くのだ。
だが、それはバーヴェル軍もよくわかっている。
中央の騎兵隊は想像以上に分厚かった。
その厚さを生かしてレスタロス勢の突撃を受け止めると、バーヴェルの重装騎兵は数の優位を生かし、左右に大きく陣を展開しようとする。
包囲陣形を取ろうというのだ。
エイカンが、馬上から後方を振り返った。
──俺の歩兵たちは、どこだ!
ついてきているのか? まだ、後方か?
早く、来い!
今、お前たちが必要なんだ!
士気と練度の高いレスタロス軍は善戦した。
それどころか、包囲しようと移動する敵兵を孤立させ、袋だたきにする場面すらあった。
だが、バーヴェル軍の数の優位は揺るがない。
戦線は膠着していたが、このまま消耗戦に突入しては、数が少ないレスタロス軍は不利になる。
エイカンは必死に叫んだ。
「カーター! ハンター! どこにいる! 答えろ!!」
だが、重装騎兵がぶつかり合う音に消され、声は届かない。
エイカン自身、もう密集に巻き込まれて身動きが取れない。
チャンスなのに!
この機会を、みすみす逃すのか?
エイカンは焦った。
そのとき、農民兵の一人、クーパー家の四男坊ヘンリーが、まるで曲芸師のように馬の尻から尻へとヒョイ、ヒョイッと飛び渡りながら、エイカンのもとへとやってきた。
重装騎兵同士が、剣やらハンマーやらを振り回す密集の中である。
そんなものをまるで気にしない様子のヘンリーだったが、頬には一筋の切り傷がついて、そこからツーっと血が流れていた。
「ヘンリー! よく来た!」
「エイカン様! お願いです! 後ろに下がって、みんなを指揮してください!」
ヘンリーの頭があった場所をハンマーが通過した。
「……っとあぶねえ!
カーターさんも、ミラーさんも、みんな、どうしていいか分からなくて、身動き取れないんです!」
「やはりそうか……
下がりたいのは山々なんだが、しかし、この密集で下がれんのだ!」
「少々お待ちをっ!」
クーパーはエイカンの後ろにいる騎兵たちに、「リック・ジョージ・エイカンが下がります! 道を開けてください!」と叫んで回り始めた。




