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第3話 神の約束、神の守護

「さあ。出ておいで、神の使いよ。


 素直に出てくれば、決して悪いようにはしないから」




 ワードローブの扉が開いた。


 腐敗臭を放ち、下卑た笑みを浮かべる男が、ネネを見ていた。


 その瞳は、赤く妖しく光っていた。




 ネネは、ただひたすら、神に祈ることしかできなかった。


 ネネは必死で、祈り続けた。


 胸の前に組んだネネの手に、わずかに青い光が宿り始めた。




「なんだ?


 はははっ! 


 それっぽちの力が、それが、神の力だとでも言うつもりか!


 無駄だ、無駄!


 さあ、来い! 


 こちらへ、来い!」




 ヴェルディアンの腕が、ワードローブの中へ伸びた。


 祈り続けるネネの首元に手が伸びる。


 


 ネネはかまわず、祈り続けた。




──神よ……神よ……


 契りを交わしし我が神よ


 父、母、兄を私から奪った代償を。


 契りを守り、尊びたまえ──




 ネネの首に、ヴェルディアンの手が掛かった。


 巨大な爪が、ネネの白い首筋に食い込んでいく。




──神よ! 神よ!




 ヴェルディアンの手が、ネネをワードローブの外へと引きずり出すと、そのまま高々とネネの体を吊り上げた。




「ぐっ!……うぐっ!……」


 


 苦しい。


 息が詰まる。


 さらに首には、ヴェルディアンの爪が食い込んでくる。




「こんな無力な小娘が、神の使いとは片腹痛い!


 


 こんなことなら、わざわざ俺が出張ってくることもなかっただろう?


 アザゼル様も、小心に過ぎるわ。




 さあ、神の使いよ。


 死ぬがいい!」




 ヴェルディアンが、その手にグッと力を込めた。


 首に、ザクリと爪が食い込む。


 ヴェルディアンの爪を、ネネの首から流れる血が赤く染めた。


 ヴェルディアンは笑い、すべてを観念した様子のネネを冷酷に見つめた。


 さあ……逝け……


 あの世へ、逝けっ!!




 一瞬、青い光がネネとヴェルディアンを包んだように感じた。




 そして……


 


  


  


 


 消えた。


 


 その手でしっかりと掴んでいたはずの、ネネ・グレイスの姿が、かき消えた。


 ヴェルディアンの視線の先に、ネネ・グレイスがいないのだ。


 それどころか、先ほどまで部屋の天井が見えていた場所に、今、星々が瞬く漆黒の夜空が広がっていた。





 なん……だ?




 なぜ、外にいる?




 


 何が起こったかわからないままに周囲を見回す。




 すぐそこに、さっきまでいたはずのグレイス屋敷がたたずんでいた。




 あの娘に、飛ばされたのか?


 


 あの青い光に、屋敷の外へと追いやられたと言うのか?





「くそう……小娘が、生意気な!」





 ヴェルディアンは、ふたたび屋敷へ向かった。


 ドアを蹴破って、邸内へズカズカと入っていく。


 


 小さなエントランスを通り抜け、ホールへ入る。


 息絶えた親子三人の姿。


 食堂…… 女中が二人。


 厨房。召使いが二人、女中が三人。


 武器庫では高齢の召使いが一人。


 


 いずれも、ついさきほどヴェルディアンが殺した者たちだ。




 足音も猛々しく、ヴェルディアンは奥へと進んだ。


 階段がある。


 この上に、あの小娘はいるはずだ。


 


 ヴェルディアンは恐ろしい跳躍力で踊り場まで一気に飛び上がり、そのまま壁を蹴って二階の廊下へと飛び上がった。




 開いたままの扉から、青い光が漏れていた。




 あそこだ。


 あの部屋だ。




 ヴェルディアンはずかずかと進んでいった。




 部屋の中では、ネネ・グレイスが、母の亡骸の前で必死に祈っていた。


 青い光は、そのネネからほとばしる光だった。




「おい! 小娘! 


 貴様、何をしたっ!」




 ヴェルディアンが地響きのような声でネネを怒鳴りつけた。


 だが、ネネは祈りの姿勢を保ったまま、ピクリとも動かない。


 まるで、ヴェルディアンなどいないかのように、先ほど自身の首に爪を立てた男などまるで怖くないとでも言うかのように、ただひたすらに祈り続けていた。




「生意気な…… 血祭りにしてやる。


 死ねえっ!!」




 ヴェルディアンはネネに飛びかかった。


 思い切り、ネネを建物の外まで吹き飛ばしてやるつもりだった。


 拳を固く握りしめ、祈り続けるネネの体に、全力で叩きつけた。


 


 


 


 ヴェルディアンの拳は空を切り、まるでヴェルディアンが吹き飛ばされたかのように、建物の外の地面にドゥッと思い切り体を打ちつけた。




 まただ。また、消えやがった。





 「く、くそう…… 一体、何だって言うんだ……」




 


 その繰り返しだった。


 何度も、何度も、ヴェルディアンは、繰り返しネネの部屋へ上がった。


 両の拳を振り下ろしたり、食堂から持ち出した包丁で切りつけたり、あまつさえ、武器庫から剣を持ち出して、切りつけたりもした。




 だが、そのたびにヴェルディアンは、建物の外へと飛ばされた。




 ヴェルディアンは肩で息をしながら、それでもネネを襲い続け、そして繰り返し、グレイス屋敷の外へと吹き飛ばされ続けた。




 ついに、東の空が白み始めてきてしまった。


 魔界が統べる、夜の時間は終わりを告げた。


 


 神など恐るるに足らず、と意気軒昂にグレイス屋敷にやってきたヴェルディアンだったが、さすがに空恐ろしいものを感じざるを得ない。




 昼は人界の統べるとき。


 


 ヴェルディアンは、口惜しそうにグレイス屋敷を見上げ、まるでオオカミの遠吠えのような叫び声をあげて、グレイス屋敷から立ち去った。


 


 


 


   ◆


 


 


 


 あの日ネネ・グレイスは、一夜にして父と母と二人の兄を失った。爺やも婆やも、召使いたちも女中たちも、グレイス屋敷のすべての人を失った。




 生き残ったのは、ネネと、馬屋で眠りこけていて命拾いをした、馬丁のゴドフリーだけ。




 あの夜屋敷にいなかった通いの使用人たちは、まるで魔物に惨殺されたようなグレイス夫妻たちの亡骸を見て、おそれをなして去って行った。




 あれほど賑やかだったグレイス屋敷から、あっという間に人が消えた。


 あの日以来、ネネは、グレイス屋敷に、一人きりで暮らしている。




 ときどき村の夫人たちが様子を見に行ってはいたようだが、そのたびに、ネネが必死に笑顔を見せようとするので、かえってそれが不憫だと、夫人たちの足もだんだん遠のいていった……




  


 あれから1年。


 ネネは、たったひとりで生きてきた。


 


 死にたいと思ったこともあった。


 けれど、父、母、そしてふたりの兄が守ってくれた命を捨てるわけにはいかない……




 そして、今日。




 あぜ道に倒れていたこの人を見て、ネネの脳裏に『定めの者』という言葉が浮かんだ。




 その人のことを、ずっと前から知っているような気がした。


 畑に降りて、黙々と土を起こすその姿を、ずっと昔から見てきたような気がした。


 リック・ジョージ・エイカン様……その名前を、ずっと前から知っていたような気がする。


 懐かしくて、温かい気持ち。


 本当に、この方が『定めの者』なのかもしれない……




──だとしたら私はこの方のお力を借りて、この世界の安寧を揺るがす邪悪な者に立ち向かう、ということ?




 ネネが、そんなことを考えながらエイカンを見つめていたら、ふっと顔を上げたエイカンと目が合った。


 ドキリとして目をそらす。


 エイカンは気にした様子もなく、腰をのばしてネネの後ろの遠くを見ていた。




「あれは……?


 どなたかが、こちらにいらっしゃいますね」




 振り返ると遠くから、一騎の騎兵がこちらに駆けてくるところだった。

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