第2話 魔物来たる夜
一年前。
月のない、しかしよく晴れたある穏やかな夜のことだった。
ひとりの男が、グレイス屋敷の扉を叩いた。
すでに暗闇が広がる中で、泥だらけになって救いを求めてきたのだ。
──夜は魔物が統すべる刻とき。
グレイス家の人々は驚き、とにかく結界の中へ、と、この訪問者を屋敷の中へと引き入れた。
違和感はあった。
魔物に追われてやってきたという割に、男の息はまったく乱れていなかった。
”ヴェルディアン子爵”が身につけている服は古くさく、靴は左右を逆に履いていた。
長椅子にゆったりと腰掛けているこの男──ライオネル・ヴェルディアン子爵と名乗る吟遊詩人──からは、そこはかとなく腐臭が漂ってもいた。
貴族のふりをした乞食か、野盗か?
そう疑いはした。
しかしグレイス家は代々レスタロス侯に仕える騎士の家柄。
父も、兄弟も、腕には十分に覚えがある。
野盗ごとき、しかも一人にやられるはずがない。
だが、父ヒュー・グレイスは気がついた。
ヴェルディアン子爵の目が、ちらりと赤く光ったのを。
ヒューの背筋に、冷たいものが走った。
まさか、魔物か……?
ヴェルディアン子爵を名乗る男は、長椅子に悠然と腰掛けたまま、さっきからずっと爪を見ている。
「アルフォンス。ジュリアン。
父がここを守っているあいだに、甲冑を着けて、剣を持て」
「父上!
お一人では危のうございます!」
「兄上のおっしゃるとおり。
私どももお助けします!」
「たわけが。
父が、この程度の相手、支えられぬと思うてか?
行けっ!
すぐにっ!」
「ふふん……舐められたものですねえ。
『この程度の相手』とは。
この私を相手に、そんな装飾刀と火かき棒で戦おうというのですか?」
父親の手に握られているのは、先代レスタロス侯爵から褒賞として下賜された装飾刀。
暖炉の上に飾られていたものを手に取った。
次兄ジュリアンが持つのは、暖炉の脇にあった火かき棒。
長兄のアルフォンスにいたっては、素手である。
グレイス家の三人の騎士には一切目もくれず、男は爪を見たまま言った。
「娘はどこです?
ネネ・グレイスは……
いますぐ差し出せば、あなたたちの命は助けてあげましょう」
「貴様、何者だ?
なぜ娘の名を知っている?」
「私たちの長おさからのご命令でね。
『神の御使いみつかい』を排除しろ、と」
「神の……御使い?
なんの話だ?」
「父親のくせに知らぬのか?
お主の娘の、正体を」
いよいよ話がおかしくなってきた。
赤く光る目。ただよう腐臭。
ヴェルディアンは、やはり、人ではない……
ヒュー・グレイスは、そう確信した。
「アルフォンス! ジュリアン!
行けっ!
父が、ここを支えているうちに!」
「父上……」
兄弟も、尋常ならざる事態であることは気取けどっていた。
「父上! 御免っ!」
アルフォンスが、武具庫へ向かおうと背を向けた。
その瞬間、ヴェルディアン子爵が信じられないスピードで立ち上がり、そして軽く跳躍したように見えて、ヴェルディアンは高い天井をかすめて父と弟のあいだを越え、アルフォンスの後ろにすたりと降りた。
そのまま手を伸ばし、アルフォンスの首を後ろからつかむ。
そしてまるで松明でも掲げるかのように軽々と、片手でアルフォンスの体を持ち上げた。
「やめっ……」
アルフォンスが体をよじりながら言いかけた瞬間、ヴェルディアンがその腕に力を込めた。
次の瞬間すべての力を失って、アルフォンスの身体がヴェルディアンの手にだらりと下がった。
「アルフォンス!!」
「あ、兄上っ!」
ヴェルディアンは、父と弟に向かって、兄の遺骸を乱暴に投げつけた。
二人はもろとも、アルフォンスの遺体の下敷きとなって床に倒れ込んだ。
「言え。
ネネ・グレイスはどこだ?」
二度と目を覚ますことのない息子の体を抱き寄せながら、ヒューが答えた。
「娘はおらん!
娘はすでに遠くへやった!」
娘を守るために嘘をついた。
「私は、くだらぬ嘘をつく奴が嫌いでね。
時間の、無駄だ」
ヴェルディアンが冷徹な表情のまま、大股で一歩踏み出すと、そのままヒュー・グレイスをドスリと踏みつけた。
「ぐふっ!?」という短い声が聞こえただけで、ヒュー・グレイスは床に転がり、そのまま何も言わなくなった。
真っ赤な血が床に流れた。
「ひいっ!!」
ジュリアンが悲鳴を上げた。
最後のひとりとなった弟は、もう完全に腰を抜かしていた。
そのジュリアンを見下ろすヴェルディアンが、顔を寄せて猫なで声で話しかけた。
「ジュリアンといったな?
妹の居場所を、私に教えろ。
そうすれば、お前のことは助けてやる。
なに、妹に手荒なまねはしないと約束するさ。
どうだ?
お前も命は惜しいだろう?」
腐敗臭のするヴェルディアンから、ジュリアンは顔を背けた。
その隙に、父が握ったままの装飾刀を、ヴェルディアンが拾い上げた。
「お前が言わなくても、この狭い屋敷の中のこと。
妹を探し出すのは造作もないが……
わしは面倒なことが嫌いでな。
言え。妹は、どこにいる?」
ジュリアンは、ガタガタと震え、泣きながら首を左右に振った。
もう、声は出なかった。
兄と、父が命がけで守ろうとした妹のことを、自分がこの男に売り渡すわけにはいかない。
どんなに残酷な目に遭うだろう……?
それでも、それでも……
ヴェルディアンが、装飾刀を両手で持っているのが見えた。
剣先はジュリアンの胸元に向けられている。
剣が、ゆっくりと降りてきた。
胸の中央に剣先が当たり、服を切り裂いてめり込んでくるのを感じた。
不思議と痛みはない。
ヴェルディアンが、笑っているのが見えた。
装飾刀の剣先が、ゆっくりと胸に突き刺さり、そしてジュリアンの心臓を貫いていった。
◆
「ネネ! ネネ!」
階下の騒動にただならぬものを感じて、母モード・グレイスは、娘の部屋へ駆け込んだ。
「ネネ!
逃げなさい!
この屋敷にいてはダメ!
今すぐに逃げるの!」
いつも穏やかで落ちついている母の取り乱した様子に、ネネはびっくりして跳ね起きた。
「お母様……
どうなさったの?
なにがあったの?」
「説明している時間はないの。
ネネ、あなただけでも生き延びて。
さあ、逃げて!」
「だって、もう夜よ?
結界の外に出ることはできないわ」
「いえ……あなたなら。
あなただけは大丈夫。
だから、今すぐ、急いで!」
その時、ホールの階段をドス、ドスと踏みしめて、何者かが上がってくる音がした。
『ネネ・グレイス様ぁ……
どちらにいらっしゃいますかぁ?
ライオネル・ヴェルディアンがお迎えに上がりましたぞぉ?
ネネ様ぁ……
ネネさまぁ……』
男が、ネネを呼んでいる。
母モード・グレイスの顔に、絶望の色が浮かぶ。
「私を呼んでる……」
「だめよネネ!」
モードはネネをきつく抱きしめた。
「生き延びて……
ネネ、お願い。生き延びて……
ああ、私の可愛い娘。
あなたが大人になるのを見たかった……
あなたの子供を抱きたかった……
あなたの笑顔を、もっともっと見ていたかったわ。
ネネ、いい?
幸せになりなさい。
きっと、きっと、幸せになるのよ?
ほら、泣かないで。
お母様に、笑顔を見せて」
『ネネ・グレイス……
神の御使いの巫女……
怖くはありませんよぉ?
さぁ……私と一緒に、参りましょう……』
母はもう一度ネネを抱きしめ、その額にキスをすると、ワードローブの扉を開いて、ネネに手招きをした。
足音が近づいてくる。
隣の、兄の部屋の扉が開く音がした。
「さあ! 急いで!」
ネネはワードローブの中へ飛び込んだ。
母がもう一度抱きしめてくれた。
「ネネ……
母は、きっと、あなたを守りますからね。
ずっと、ずっと、あなたを見守っているからね」
ワードローブの扉が閉じられていく。
ネネは泣きながら、最後まで母の泣き顔を見つめていた。
真っ暗になったワードローブの中で、声を殺して泣くことしかできなかった。
部屋の、ドアが開く音がした。
『おや……こんなところにも人間が……
お前、ネネ・グレイスの居場所を知らないか?』
『知りません!
知っていても、お前などに教えるものですか!』
母の声は震えていた。
『まったく…… どいつもこいつも……』
一歩、誰かが踏み出す足音。
『うっ!……ううっ……!!』
母のうめき声が聞こえる。
ネネが思わずワードローブから飛び出そうとしたその時、母の声は途絶え、何かがドサリと床に落ちる音がした。
『さあ……ネネ・グレイス……
出ておいで。
もう、お前を守ってくれる人は、誰もいないよ……
観念して、出てくるのだ。
聞こえているのだろう?
ネネ・グレイス……』
ワードローブの扉が、ゆっくりと開いていった。




