序章 ミーミル 終
1940年2月25日 フランス リヨン(ドイツ占領下) オー・ブルー湖南岸低森林地帯
上空 高度1万5000m
「雨上がる。
洗濯物はすぐにきます。
業者への引き渡し場所は、中立区19番通り20街区」
「わかりました。
明日の8時までに引き渡しをお願いします。
急ぎの仕事で、必要なのです」
「了解しました。
よい夜を」
ふぅっと大きく息を吐く。これから、重要な荷物。いや、上官のお迎えに行かなければならない。酸素マスクを外し、深呼吸して息を整える。高度1万5千メートルの空気は凍り付いたように冷たい。そして、酸素は貴重な資源である。
「艦長。酸素マスクを外して、呼吸は禁じられているはずです」
副長の軽口に、ふっとほおが緩む。あたりを見回すと、皆同じのようだ。この数時間は緊張の連続であった。その緊張が解かれる瞬間が来たのだ。無理もない。
「ああ、知らないかもしれないが、我々に」
「呼吸の必要はないですよね。艦長。よく知っています。
ただ、この高度での呼吸は3度までと親父殿から散々に言われているではないですか。約束も守れないと親父殿に言いつけますよ。」
コックピット内が笑い声で満ちた。その声に、少しばつが悪そうに口元を歪めて頭を掻く。
「では、副長殿。留守を頼む。」
そういうと、踵を返し、ウェポンベイへ早歩きで進む。先ほど、開くように命じたウェポンベイの扉は、開いていた。ただ、そこには、まだいるはずのない人影を見つけてしまう。
「オリジン殿。なぜここに」
荷物という暗号で呼ばれている、戦乙女の原型がそこに立っていた。その視線は、静かにその開いた扉の先を見つめている。その目が、かすかに揺れているような気がした。
「ああ。少し問題が発生してな。皆揃っているな」
いつものように、感情の抑揚のない声。はい。と言う間もなく、その姿が、自分の通ってきた通路の奥に消える。開いたままのウェポンベイの扉をみて、ふぅっと大きくため息をつく。どうやら、閉めてこいということらしい。
先ほどのオリジン様は、戦乙女にしては、いつになく感情が不安定で、不機嫌だなと感じた。ただ、エインヘイアルである自分もそういうときある。と納得し、それ以上の思考と詮索を止めた。
その代わりに、ウェポンベイのエーテル回路に自らの手をかざし神性を流し込む。淦色の黄金が回路を一瞬で走り、ウェポンベイの扉が閉まり始める。
吹き込む風に感じ得ないはずの、ほんのわずかな寒さを感じた。その正体を確かめるように、閉る扉から暗闇を、そして、眼下に広がっているはずの湿った森林地帯を見ていた。
やがてその光景は見えなくなり、目の前には金属の板と閉所の暗黒のみが残された。
微か、そして確かに感じたはずの寒さは、消えていた。
「さて、戻るか」
誰に言うでもなく声を出すと、元来た道を戻る。コックピットに向かい歩き始める。いつの間にか、陽が昇り始めていたのか、眼下には闇と光の織りなす、雲の海が広がっていた。そこは、人間がたどり着き、滞在することなど不可能な世界。美しく、まぶしく。ただ寒気だけがある世界だ。
「艦長戻りました」
中央の作戦指示用のテーブルに皆が集まり、帰りを待っていた。目の前には、金髪を揺らし、不似合いな酸素マスクを付けた女性が立っている。
「さて、揃ったようだな。手短に伝えたいことがある。今日、リヨン工廠が陥落した。そこに、あった砂山はレジスタンス共の攻撃でもろくも崩れ去った。そのうえで、ミーミルの1機が連合国の手に落ちた」
本来であれば、驚愕に値する事実の開示であったが、この場に驚いたものはいなかった。
「彼らは、事の重大さに気が付きますかね」
意地悪気にあげた一人の声に、皆が、悍ましい笑みを酸素マスクの下に浮かべているのだろう。それを解ってか、オリジンも、かすかにほほ笑んだように見えた。
「当然だ。そうでないのならば、連合国の全ては、ここで散った砂山よりも価値もないということだ。私としてもそうでないことを願っているが」
オリジンの笑みが深まったのを感じる。思わず、皆が、その一挙一動に注目した。
「そうでないのならば、第三帝国の復活。そして、我らの悲願達成は、意外に早いのかもしれないな。
そう考えれば、ああ、早くあいつらの顔が見たものだ。
船長。帰還だ。進路 東。フライベルク」
声一つ変えずに、次の戦場を想う。――どこまでも、戦う人だ。あなたは。
「ヨーソロー。進路 東。目標フライベルク。高度2万メートルまで上げる。
ベント閉鎖。浮遊性エーテルガス注入。アップトリム5」
その声に、皆がはじかれたように持ち場に戻る。
「ベント閉鎖。エーテルガス 注入開始。ガス圧10%上昇」
「面舵20。後部ガスタービン主機点火。速度 停留から戦闘速度へ」
「アップトリム5。 高度2万メートルまで、上昇。」
オリジンは、その声を聞きながら窓の近くに立つ。雲の切れ間より、見えたのは、朝日の上るリヨンに到着する車列だった。それは、蟻がケーキに群がるようにも見えた。
「さて、蟻どもよ。褒美だ。貴様らに、それはやろう。
最大限の毒を添えてな。」
窓に隔壁が下ろされる。その瞬間まで、オリジンは地上を睥睨し続けた。
天秤は……一方に傾き、その流れは止まらないように見えた。




