序章 ミーミル 7
「真に……自由。か。そして、我々は呪われている。そう憤っていたな。」
ルーズベルトは、崩れ落ち、己が紅き血で秩序の白鷲を染める魔女を見下ろしていた。まだ、彼女には働いてもらわなくては、困るし。そう、こんなところで死んでもらっては。非常に困る。
「医療班を呼び、蘇生術式を開始してよろしいですか」
「聞かんでもわかるだろう。始めろ。立たせろ。ここに留めさせよ。舞台から降りることを、許可したつもりはない。」
すっとルーズベルトは足を組み、少しの間重い瞼を閉じた。
善良であれ。隣人にそうであれ。同胞にそうであれ。弱りしものに、絶望せしものにこそ、その門は開く。
終末に応対していようが、敬虔に祈り続けるものにこそ、神の門は開かれる。
だが、神の門が開かれることを知られてはいけない。
「この件を、世界に……」
色目気だって語りかけてきた、NSAの構成員にルーズベルトは、目を開くことはなかった。ただ、ため息のように、零れ落ちた一息があっただけ。それだけであった。
「君は、皆から笑いものになりたいのかね?
或いは、皆に背を向けて欲しいのかね?」
ルーズベルトの一言は、構成員を黙らせるだけの根拠のあるものだった。この情報はとてつもなく弱い。幻視を通じてアドルフ・ヒトラーがこの件にかかわっているのを見た。
そんなもので世界は動くほど夢見がちではないし、暇でもない。正気を失った国家と、アメリカが思われることは問題であった。ただ、この事実を公にすることは躊躇われることだった。
このような手段を持つ国を相手にしている。それは、多くの対抗する手段を持たない国をかの国に膝まづかせるだけの根拠を与えるものであった。そのような愚を自らとるわけにはいかない。
あまりに、できすぎている。ルーズベルトをもってしても、そう思わせるだけの手腕を彼の弱者の国の王が持っているとは思うことはできなかった。
あたりには、蘇生に励む医師たちの声だけがあり。あたりは沈黙に包まれていた。
「大統領。少しよろしいか?」
そんな中で、沈黙を断ち切ったのは、アルベルトだった。ルーズベルトは、重い瞼を開き、その姿を見た。そこには、権力に屈せず、ただ世界の為に奉仕し、世界を解き明かそうとする科学者の姿を見ることができた。
そのためにならばきっと何でもするだろう。そう考えられるほどに。
「マンハッタン計画の責任者として発言します。現在マンハッタン計画は重大な選択の局面にある。そう考えています。そこの認識は、共通すると考えていますが。いかがか?」
そう。この事実が明らかになった以上は、今まで通りの研究も開発もできようはずもない。明日には、それが0に返される。その瞬間を作り出す権利は、相手が握っている。だが、この天才は、そんなことを言いたくて、手を挙げ、このような発言をしたのではない。それを察したルーズベルトは、その眼を離さずに沈黙を貫いた。
「認識を持っている。その認識を持っていただいて幸いです。さて、この計画は今日から、方向性を変えるわけですが、必要ととされる人材があります。」
その言葉を聞いたルーズベルトの頬は微かに緩んだ。自らが下した、下さざるおえなかった合理的で冷たい採決。その責。
「君らは、それが必要と思うのかね」
「当然だ。大統領。我々が相手にしているものを知っているのか?
我々が相手にしているものは、常に自然世界だ。人間の常識が通じないなど当たり前の世界だ。責任の擦り付けあいや権力闘争はよそでやってくれ。」
「フィンの言うとおりだな。だとしても、大局的な視点から言っても我々には時間がない。そして、今日それが、保管された。東からドイツが迫り、西からは日本が刀を抜く瞬間を待っている。
大統領。時間がない。彼女をこちらの計画に参加させてほしい。」
ルーズベルトは知っていた。だからこそ、口角をわずかに上げた。
「君らの気持ちはよくわかった。だが、彼女が知っていることは包み隠さずに聞いておきたい。それは、君たちも同じ気持ちだろう。彼女が知りうる情報そのすべてをわれわれ知ったのならば。我々は、それ以上彼女に用はない。
故に、彼女を君たちに授けよう。
明日まで、待ってくれ」
この国は、そういう国なのだ。他者をどれだけ踏みにじり、どれだけ痛めつけようが、自国の自由と繁栄、そして秩序が保てたのならば、それで勝利なのだ。これ以上に得るものなどなく。
これ以上のものを知らない。
そのような基本的なことを理解していないもの名でこの場にいるはずもなかった。
「彼女の献身は十分に評価している。こちらとしても、あまり手ひどい手段はとらないと約束しよう。
だが、今一度、彼女の知ることを我々も知る必要がある。
たとえ、小さな情報であろうと、疎かにはできない。
我々は、協力する必要がある。
今こそが、国家の存亡の機である。
そう考えていないものはいないだろう」
ルーズベルトは、そう答えると口を閉ざし立ち上がった。
地に臥すメルルと、医師以外は、それに倣い皆で立ち上がる。静かで重い沈黙が流れた。
その後、ルーズベルトがかすかにうなづくと、背を向ける。その背に対して、その場の全員が、それを返した。
扉が閉まる音が部屋に響いた。
それは、ルーズベルトの在任期間における、最も重大な大統領令が発令した瞬間であった。
「ところで、メルル。あるいは……」
「旧きヒュルトゲンの森」
「ああ、そうだ。彼女は助かりそうか」
答えにフィンは応じた。全くややこしいものだ。1つの個体に、2つの名前など付けるべきではない。数学において1つの数字に多数の意味など生じようもない。1は1で、1億は、1憶だ。
そう応え、違和感を感じた。
その声が記憶しているどの人物の声とも合致しなかったからである。
「ソー博士。あなたも来ていたのか」
驚きの声を上げたのは、アルベルトだった。それにソーは両手を広げて答えた。医学と人類史の研究者で、共に計画を推進するうえでの共同研究者である。まさか、共にホワイトハウスに招かれていたとは知らなかった。
「マンハッタン計画にかかわる仕事だからね。こういう事態が起きた時には備えていのだよ。連絡が早くて助かった」
そういうと、メルルの元にしゃがみ込み、手慣れたようです手首で脈を取った。
「ええ、手遅れです。大統領になんと申し開きをすればいいか」
医療班のリーダーだろう、申し訳なさそうにうつむいている。脈はなく、瞳孔も開いている。生命を感じるものがすべて抜け落ちている。呼称としては、『死体』といってもいいだろう。
部屋の空気が凍り付いた。
一人を除いて。
ソーは立ち上がると部屋で顔を青くしている面々と、悔しそうにしている同僚とおそらく、その同輩。それを概観し、少しばつが悪そうに頭を掻いた。
「落ち込んでいるところ悪いが、まだ手はある。」
その声に、全員の視線がソーに集まった。その手にあったのは、大型のブリーフケース。
「試作段階だが、心臓を動かす機械を持ってきている。実験をしたいと思っていたが、おあつらえの状況がなかなかやってこなくてね。ここで、彼女に実験をしていいだろうか」
皆が、唾をのみうなづくのが見えた。ソーはブリーフケースを床に置くと、豪快にそれを開く。中に入っていたものは、共に仕事をしているはずのアルベルトも見たこともない機械であった。
取っ手のついた平たい板が2枚。
それを取り上げると、ソーは、ゆっくりとその板同士をこすり合わせる。
バチッ……バチッ
その平たい板に給電をしているような機械は見当たらず、また、ケーブルなどもないその板は、こすり合わせるたびに、通電していることが分かる電気を見ることができた。異質なものが放つ放電音が静まり返った部屋に響き渡った。
「さて、ふて寝している場合じゃないぞ。我らの旧き朋よ。
いま、たたき起こしてやるからな。」
メルルの胸にその板が吸い込まれる。バチンッ。大きな音が、部屋に響いた。




