序章 ミーミル 5
「ルーン文字。これがそうだというのか。」
その声を最初にあげたのは、アルベルト・アインシュタインだったと、大統領補佐官は後に語っている。おおよそ、大統領執務室では聞いたことのない、素の声。その声が、切欠であったように、すべての緊張から解き放たれたように、大統領執務室に音が戻った。彼はそう証言している。
朝の鳥が羽ばたく音を聞きながら、朝日に照らされながら、メルルは確かにうなづいた。
アルベルトは、ただ、思い出しただけだった。それは、図書館の奥にあった本だった。奇妙な図と絵で描かれた本。幼少のアルベルトは、その本が気に入り、何度も貸し出しを受けていた。
ある日、学校から帰りその本の続きを読もうとした。
その本は、どこにもなかった。
両親に聞き、司書に聞き、図書館に聞き。
子供で考えることのできる方法で、その場所を問いただそうとした。
その試みは実を結ぶことなく潰えた。
その本がもう読めないことに意気消沈して帰ってきて、家族の中でも大事な散歩の時間も食事の時間もうつむいているアルベルトに、母パウリーネは、優しくこう語りかけたのであった。
「芸術家は、神秘に触れてはならない。
だからこそ、アルベルト。あなたは、神秘ではなく、現実を解き明かす道を選びなさい」
あの時、進む道が決まったようなものだったのかもしれない。
年を取るにつれて、その本の記憶自体は薄れていった。
だからこそ、これが、蘇るきっかけだったのだ。
「アルベルト様は、これを見たことがあるのですね」
メルルの確信の声にアルベルトは、ゆっくりとうなづいた。
「神の御業といったが。この文様に何の意味があるのだ」
フィンは、しばらくその映像をまじまじと見たうえで、首をかしげながらそう問いかけた。だが、その目は、メルルから出る答えを楽しみにしているという感じが透けて見えた。メルルがうなづき、答えようとした。その言葉の続きを遮ったものがいた。
「まあ、待ちたまえ。助教授殿。講義を始めると、長くなるのだろう。
この若造が、このおいぼれに対してやったように。後で、存分に語ってくれたまえ。
今は、
時間がない。」
チャーチルの言葉に、メルルは、はっとしたようにルーズベルトを見た。静かに座するルーズベルトは、何も言わずにただ、首をゆっくりと縦に振ったのみだった。
それを、是と取ったメルルは、大きく息を吸った。ある種の覚悟、そして畏れの現れでもある。
「詳細な説明は、後ほど行います。これから、これを起動し、刻んだものを確認したいと思います」
「旧きヒュルトゲンの森。感謝する。貴殿の勇気に。」
泉の魔法使いの言葉に、メルルはただ、目を閉じて是を伝えた。
命を賭けた。魔女の命を賭けた儀式が今始まる。
ほぅ……ぅ
ゆっくりとした息が旧きヒュルトゲンの森から解き放たれる。その瞬間、ここにいるものすべてが、貴卑問わず、叡愚問わず、問わず。ただに感じた。深き森を。
フィンは、それをただ楽し気に観測ていた、唯口元には不敵な笑み。神の観測に不躾に踏み入ろとする気概があった。
アルベルトは、穏やかな笑みを微かに浮かべ、ただ、視線を鋭くした。これから起こるすべてを、これから起こりうるすべてを観測する。その覚悟があった。
ルーズベルトは、自らの時計に目をやり、その音なき秒針の動きに集中した。彼には、確立した未来があった。安寧と繁栄。それが、彼の抱いた未来。それを、得体も知れないものに踏みにじられることを許せなかった。彼にあったのは、拒絶。そして、凡人のつかみ取るべき未来がそこにあった。
静かに、旧きヒュルトゲンの森が目を開いた。その眼は、静かに淦色の黄金を携えていた。
静かに、映像の奥底で、チャーチルの目が揺れた。それをごまかす様に葉巻を咥え、ゆっくりと震える手で火を点す。震える手で点されたその光の点は揺れず、弛まず。ただ、あり続けるように、ただそこにあった。
灯のように。
泉の魔法使いは動かなかった。それは、最後の約束のため。最期の契約。誓約の為に。旧きヒュルトゲンの森が命を賭すその光景にもただただ、無関心を演じた。それは、殉ずるものの手を添えるでもなく、準するもの手を払うでもなく。ただそれを見続けているように見えた。
英雄の王のように、勇気ある放浪者たちのように、覇気にあふれる獅子王のように、そして、老いたとしてもこの地に殉じるこの老英雄のように。死にゆくものを見続けてきた。
それでも、彼は、諦めることはないだろう。八翼に導かれし北風の息が、この世界より消える。その時までは。
古き魔女。メルル。そして、旧きヒュルトゲンの森は、嘆いていた。
呪われている。この世界の全てが。すべての人が。自由を自ら選んだはずの超人が。自ら呪いを求めて進みていく。哀れな無間地獄。哀れな世界。
この世界。この世界。呪われし、この世界。
ただ、唯一。本当の意味で、自由である貴公を。
貴公を撃つ。
神の御業を御許にたたえ。神の偉業の遺行をたどる。そして、その足並みはきっととどまらない。いずれ、奇跡のもとに、過去を永遠に、永遠のものにする。
彼方を許さない。
貴公を決して赦さない。
追いつめる復讐の御手から、ルーンに注がれる淦色の黄金が、その文字を起動することに成功する。
唯、ただ、最初の言葉が記される。
『我、発つ見たり』




