イギリス篇 中章 8
不意に音と人の声が戻ってくる。
「私もかつて、日本に赴きそこで、その特異性と向き合ったことがあります。楽しくて、そして、とても危険な場所でしたよ」
「そりゃいいな。それを聞いたら俺も日本に訪れたくなってきた」
室長はそういうと、ゆっくりベンチから立ち上がった。
「その日本も我らの敵なのですから。全く、大変なことです」
アメリカに対するブッシュアタック。真珠湾攻撃から始まった対日戦線は、中国情勢をも巻き込みながら太平洋をその名前から信じられないほど不安定な海へ。戦場へと変えて行っていた。
俺は、対ドイツ戦に専念する目的で、そちらの方の情報は新聞で流れている以上のことを知らない。
「あの小さな島国がね」
「言葉は慎んだ方がいいですよ。先週、フィリピンが陥落しました。現地の指揮官は、オーストラリアまで一時撤退を決めたほどです。日本の勝利。まさに快進撃ですね。
それが、期間限定の魔法だとしても」
室長は、ゆっくりと言葉を吐き出した。少し、自然な空気が流れるまで待った。
「第一次世界大戦の戦時資料を確認したいのだが、どこにあるか知らないか?できれば、詳細なものがいい」
少し沈黙が流れた。
「考えられるのは、軍の本部でしょうが、それがどこなのかは我々も知らないです。ただ、一般的な戦記ならば、図書館でもありそうですが」
「ベルリン図書館に行くのか?」
不意に、影が落ちた。目の前にいたのはブレンドだった。少しよそ行きの服装をして、用事が終わったのだろう、手に持ったバッグは膨らんでいた。
「ああ。少し確認したいことがあってな」
「奇遇だな。俺もそのつもりだった。あと、ベルリン図書館は、ここ。ベルリンの観光名所の一つだ。さすがに、中枢エリアは入れないだろうが、一般公開されているエリアならば、問題はないだろう」
「中枢エリア?」
何気なく発せられた、言葉が気にかかった。
「ああ、もともとは知識が上流階級のみのものだったころの名残だ。ベルリン図書館は、かつての施工を忠実に守っている。そこには、皇帝専用の特別閲覧室があった。第一次世界大戦の末期には、そこに臨時の中央司令本部が設置された。俺も、そのころに一度だけ、そこに行ったことがある。
はは、昔話をしてしまったな。
ただ、今もあるかはわからないがな」
ブレンドは、そういうと、褪せて固く短く切りそろえた体毛と同じ金色の髪をなでた。たわしを撫でたような音が響いた。その表情は硬く、何かを思い詰めているようにも見えた。
「特別閲覧室ですか」
「ああ、あいつと一緒に、中に入ったことがある。まあ、戦時中の記憶だからあいまいなところもある。が……」
明らかに言葉を濁す。らしくもないと感じたが、それどころではなかった。知りたいと思っていた情報があちらからやってきたのだ。
「特に、石の円卓。副代表兼代表に話すような内容ではなかったか。相変も変わらず姑息だ。イギリス人っていうのは嫌になるものだな」
「おそらく、日本人の血が流れている彼にはこの魔法は通用しない。それはわかっていましたが。あなたにも見破られるとは……少し驚きましたよ。」
どういうことだと思っていたが、泉の魔法使いは、それ以上のことを話すことはしなかった。
「俺がその魔法を見破れたのは、本当に偶然だ。
ああ、嫌になるほどの偶然だな。
全く……」
ブレンドはそういうと、少し移動して横に立った。その空気を察したのだろうか、それとも、彼なりの考えがあったのだろう。
「積もる話もあるでしょう。ここは、年長者は去ることにしましょう。
ありがとう。パンフレットに乗せる写真を探していたのですよ。これはいただいていきますね。
また、明日の夜にでもお会いしましょう」
写真の束を手にすると、泉の魔法使いは杖の音と足音を高らかに去っていく。それが、背中から聞こえ……そして、やがて消えた。
それに合わせるようにブレンドが隣に座った。
「順調のようだな」
「ああ、そうみたいだ」
何気なく出た言葉。それにブレンドは驚いたような表情を浮かべ――そして、静かに。何かに納得したように、首を微かに縦に振った。
「ならばいい。そのままつき走れ。ランナー。伝令は……伝わらなければ意味がない。
そして、――」
それだけをつぶやくように言うと、ブレンドは視線を前に戻した。その表情からは、何も感じることができない。だが、不意に悲壮感を感じた。
「ブレンド」
掛ける言葉が見つけられない。その悲壮なほどに痛い沈黙は、木漏れ日落ちる穏やかなこの日にとけることなく、澱むようにそこにある。静かに見つめる先にあるものを、俺は知る由もない。
よくよく考えれば、彼のことは、何一つ知らなかった。
「第一次世界大戦で、神の身元に旅立った戦友たちは。それを望んでいたのか?
それとも、無駄な犠牲だったのか。
塹壕に飛び込んだ時に目を見開いた敵兵は、
平原で機関銃陣地に突撃しないといけなかった敵兵は、
同じ神の元に旅立ったのか?
それとも、残っているのか?
あいつは、多くの兵の命を救った。
だが、決してそれは誉と評されるものではなかった。
だからこそ、今もあの戦場で、焼かれ続けているのだ。俺も、あいつも。」
いつになく饒舌だと感じた。だが、その口調は、昏く重い。目から見える意思も怒りというよりは、哀愁と絶望に染まっていた。それだけを誰かに聞いてもらいたかったのだろう。
そこまで言うと、少しほっとしたようにほおを緩めた。
「だからこそ、――お前は焼かれるな。
少し話過ぎたな。
良い日だったようだな。少し早いが、ホテルに戻って祝杯でも挙げるか」
問いかけるタイミングを完全に逸していた。
だからこそ、問いかけるべきだった。ベンチを一緒に立つのではなく。
問いの言葉をかけるべきだった。
「ブレンド、お前の言うあいつっていうのはーー」
だが、言葉は形にならず、そして、その問いは俺の口から出ることはなかった。




