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イギリス 中章 7

 1940年12月16日 10:21 ティアガルテン 構成ヴィルヘルムⅡ広場


 今は、きれいな光景も、そこに息づく人々の呼吸すらも……目にも耳にも入ってこない。痛いくらいの晴天が差す中、地面に腰を下ろし、ただ何を観ることでもなく。

 周りを見ていた。

 そこには、営みがある。

 何も知らない、幼子たちが駆け回る声が聞こえる。

 それをいさめる親御の声が聞こえる。

 ただ、散策する老人たちの声が聞こえる。

 仕事できたのであろう、手帳を開きながら何かを考える若者の姿がある。

 そして、第一次世界大戦碑……ドイツが多大な血と涙を流したその前で、うずくまり泣くものたちがいる。


 俺には、何もできやしないと。ベンチに腰掛ける俺がいる。


 

 悩んでも仕方がない。

 そう、仕方ないのだ。

 

 すでに、すべてが詰みなのだから。


 ゆっくりと懐からパイプを取り出す。たばこを刻み、ゆっくりと詰める。本当は、指先が痛むから嫌だったが、この先がないのならば。

 そのくらいの傷みは耐えるべきだ。

 パイプに、キュウキュウに詰めると、そこに火種を一つ。


「まずは、パイプの吸い方から。あなた方がいつか葉巻がすえればいいのですが、そういう機会はないでしょうから。少し裏ワザとして、パイプに一杯に詰める。それに火をつけるのです。そうすると、詰められたタバコの葉からは、しばらくの間、苦い匂いがするでしょう。ええ、そこで吸ってはいけません。全体に火が通った時……そうですね、上はすでに消し炭になっていると思いますが、そこで吸いましょう。

 

 この初めての香というものが、それを口に含めることこそが、最高の贅沢というものです。」


 あの時、言われて、わからなかったことが、今ならばわかる。確かに、これは贅沢だ。


「タバコの葉を半分犠牲にしないと……最上の味と、気持ちには行き着けない。

 あの時言いたかったことは、そういうことか」


 ゆっくりと口にくわえ……その味わいを口の中一杯にまとわせる。吐き出す紫煙は、寒空に消えた。


 気休め。そう、それは、いつ取ってもいいものだ。それが最期の時だとしても。



「戦士の休日気取りですか?」


 そのさなかだった。近くから声が聞こえた。

 驚きそちらを見て……納得した。


「あんたか。驚かせないでくれ」


「ずいぶんと偉くなりましたね。半年の間に、上官をあんた呼ばわりとは……」


 そこにいたのは、MI6神秘室室長を務める超人だった。


「偉くはなっていない。だが、自分と取り巻く状況にうんざりしただけだ。」


「それだけで結構。ところでですが、その様子を見ると、任務は順調の様ですね。」


 視線は、近くに束ね裏返した写真の束に注がれている。

 その答えを保留するように、口にパイプを加え、しばらく待った。目の前には、赤く燃える地獄がある。ここで、タバコの葉は焼かれ、煙となり、俺の中に入ってくるのだろう。

 焼かれる葉の苦しみを知る由などあるはずもない。

 故に、言葉を止めた。


「帰りたくないですか?」


 主語は言わなかった。だが、少しイントネーションを下げて言ったその言葉は、おそらく、単純なyesとnoではないのだろう。これからの立ち位置を示している。


「……」


 少しだけ、考えた。頭の中には、脱出したい。帰りたいと声を上げる自分がいる。だが、


「今は、外交月間です。あなたたちを外交官として連れ出すくらいはわけがない。私としても、ここに残りたいのならば、文句は言いません。顛末は解るでしょう。ただ、KIAとして、処理されるだけです。

 ただ、あなたの判断は正常ですか?ベルリンは、どこも鍵十字の旗だらけです。ハギスを食するときのように、息が詰まっているのではないですか?」


 雑談のように交わされた言葉……そこに、強烈な違和感を感じた。

 


「鍵十字の……旗?だらけ?」


「ええ。そうです。ここに入ってから、鍵十字の旗がいたるところに掲げられています。まあ、正直少し不快ではあります」


 パイプを口から離し、急ぎ写真をあさる。室長の訝し気なその表情。それを見ないふりをした。やがて見つかる。


「室長、このシンボルに見覚えはありませんか?」


 手にあったのは、ここ数日で見飽きるくらいに見てきたシンボル。穂の天秤。俺たちが行動する際に常に付きまとっていたそれだった。


「……。――。」


 それを室長は、いぶかしげに受け取った。そして、観ているうちにその顔色が変わって行くのを感じた。


「これを、どこで?」


「どこでって?ベルリンやドレスデンで当たり前のようにありました。それに、鍵十字と合わせて持っている将校とも会ったことがあります。」


 静かに、だが、慎重に室長はそれに再び、目を落とした。その様子は、すでに寒い気温の中、さらに凍てつくような寒さが襲い来るようだった。

 短い沈黙であった。だが、恐ろしい沈黙であった。


「この、穂の色は何色でしたか?茶色ですか?黒ですか?」


 しばらくして、室長は声を出した。回答しないことを赦さない。有無を言わさない声。

 正直に答えるしかない。そう感じた。


「金色です。」


 その声を聞いた瞬間、室長は、一瞬天を仰ぎ、そして、大きく、荒く――息を吐いた。

 それが何だったのかは俺にはわからない。


()()()()()()()。間違いないですね。」


 有無を言わさないその冷たい表情に、俺は、安堵した。

 頷く。

 少し、二人の間に沈黙が流れた。


「――あなたが正直なのは、美徳であり弱点である。

 その弱点は、決して欠点ではない。そう感じていましたが。それは間違いではなかった。

 

 貴方は、気負いすぎている。


 そう、私は踏んでいました。ですが、言わない方がいいこともある。


 そう感じていた次第です。

 

 では、この話を聞かせてくれたお礼を。私から、あなたが知らないことを……一つ小話としてお聞かせしましょう。



 八雲の話に……手の目という日本の妖怪の話があります。


 盲目となったその妖怪は、掌に目を宿しながら夜な夜な何かを求め徘徊する。

 それは異形でありながら、人間の形を保っている。

 

 これは、……あなたのおばあさまのお話ですよ」


 ゆっくりと話し始めた室長。いきなり何の話かと思ったが、その話は止まらなかった。


「私は、あなたがノッキングテストを超えられたことに正直驚きを隠せなかった人間の一人です。

 ですが、今。漸くに――納得しました。


 貴方は、自らの持つ能力をすべて使い。あの最難関のテストを超えたのだと。

 

 貴方は、資格者でした」


「そこまで、気が付いていたのですね。

 ですが、憧れをかなえるために、皆にはないものを利用した。これは、不正と言えるのでは?


 本来は、試験に紛れ込んだ一般人が幸運と……不正で試験を突破した。


 これが、ドッグレースだったら、店主(胴元)が呼ばれ糾弾されるでしょう。

 おれは、それだけのことをしました。」


 そこまで言ったとき室長は、静かに口角を上げた。


「実に自分のことをよくわかっていらっしゃる。

 そして、例えも正確だ。

 

 ――ですが、それに、恥じ入る必要はありません。

 力があれば力を、知力があれば知力を、権力があれば権力を。

 全力を尽くしたものが救われ、少しでも余力を残したものは足を掬われる。


 あれは、そういうテストです。



 その中で、あなたは自らの異形性を自覚し、生かし、発揮し。見事試験を突破した。ただそれだけです。

 やはり、貴方は、一般人ではありません。立派なMI6の構成員です。


 今、失い難い。その志を持つものです。」


 じんわりと心にその言葉が染みた。わずかな期間の調査であったが報われた。そんな気がした。

 室長はそれが収まるのを待ってくれていたのだろう。しばらくの間、沈黙が流れた。


 

「さて、貴方の……」


「アーデレーナ・ヒルデガルド・シェリーフェン。

 室長。この名前に聞き覚えはありますか?」



 だからこそ、問うた。しばらく、先ほどの暖かさとは違う、静かで張り詰めた沈黙が流れた。


「ええ、ドイツにおける数少ない女性兵士そして、優秀な者であったと資料で見たことがありますね。ですが、その資料上では、すでに、戦死した人間とされていました。謀死ならともかく、戦死した一兵士のバックボーンは追わないというのが、スパイの鉄則ですからね。

 それが何か?」


「現在のドイツの国連外交官……ヒルデと同一人物の可能性がある。」


 冷たい風が、わずかに空いている二人の隙間に入り込んだ。


「そう、フォルシュタイン元ドイツ陸軍元帥が……証言した」


 静かに、室長は視線をそらした。当然の反応だろう。

 

「……それだけでは」


「ここで、新しい茶葉が見つかった。これを、焙煎室に送りたいと思っている。きっと所長は、気に入ってくれる」


 その言葉に、室長はうなづいた。こちらの決意を組んでくれたのだろう。


「満月の夜に取れた茶葉は、きっと彼のお眼鏡にかなうでしょう。」


 満月。3日後か。


「ああ、待っていてくれ。今から気に入る茶葉を探し出す」


「ええ、ですが、今の所長は気が短く気が立っています。そこはお忘れなく」


 当然だ。最高のもの(情報)を所長に届けて見せよう。

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