イギリス篇 中章 6
1940年12月16日 8:23 ――ホテル
簡易暗室の中で、どうやらを居眠りをしていたらしい。
ブレンドは、すでに起き出したのか、ベッドは空になっていた。
自分の罪科を否が応にも見せつけられる。近年で……最悪の目覚めだった。
こんな目覚めをしたのは、祖父が死んだ時以来か。
最低な男を信望する、残念な子。
冷たい瞳と嫌みが嵐のように周りを包み込む中。一人、彼の誇りを守り通した。
そんな気持ちになっていた。
女性は、泣きながら遺言に従い、祖父の指輪をもって、長い間過ごしたであろう邸宅を後にした。幾度となく振り返ってた。俺と目が合った。女性は、何かを口に出そうとして、止めた。
「……。」
写真を手に取り眺める。
悍ましきその写真を……。
白黒の景色の中に、明らかなそれは紛れ込んでいた。
「……淦色の黄金か」
入管の際の職員、その場に居合わせた女性士官、そして、ドレスデンの町ですれ違った女性のその瞳。その全てが、淦色の黄金に輝いていた。すべてが白黒の中に現れた異形は……まるで、俺を責めているように見えた。
一瞬で、思い出される。養老院。階段から降りてきた俺を待ち構えていたように、老人が飛び込んできた。
あの、壁に頭を叩きつけていた老人。
「ああ!ルーデンドルフ閣下!生きていらっしゃったのですか?」
駆け寄ってくる老人に、つい、手を伸ばした。そのまま、老人に抱きかかえられる。
意外な力の強さに、思わず膝をつきそうになった。
「閣下の正気を奪った。淦色の黄金に気を付けなされ」
小さく耳元でささやきかけられた。それは、確かに、正気の声だった。老人は、それだけ言うと俺の、胸板を押した。
「こ、こやつは!偽物だったか!
おのれ!アドルフ・ヒトラー!
閣下!閣下はどこにいらっしゃる!」
「あらあら。あの方は、時々。お客様を、自らの主と間違えてしまうようなのよ」
修道女は、特に気にした様子もなく、頬に手を当てて困ったような表情を浮かべた。
「あの人の主とは?」
思わず、問いが口かだ出た。ブレンドは、少しあきれたような表情を見せたものの、じっとその修道女から目を離さなかった。
「ふふ。
それを、知らなくてもよいこと。
とは言えませんわね。
ただ、よくお知りではないですか?
その顛末まで。」
修道女の喉から出たとは思えない言葉だった。冷たく、濁りそして、澱んでいた。それは、悍ましき笑みと共にでたものの。ただ、その声は、仕事上がりに、パブにでも行こうかと言いそうな感じの口調であった。
「ですが、父は、敵について、こう言っております。
我らの生存を脅かかすもの。それを持って、敵とみなす。
生存を脅かさざる者。
そして、脅かす意志あれど、力なき者。
それは、敵としてみなさず。」
浮かんでいたのは、捕食者の目をした、ぞっとした笑みだった。ゆっくりと、近づかれる。その笑みから、逃れられない。首筋に爪を這わせるようにして、肩をはたかれる。羽虫が一匹残骸になり果てた。
「ふふっ、そんなところに居ましたら、こうなっても当然の結末でありましょう。
あなたは、そうならないことを祈っておりますよ。」
ブレンドは何かを考えこんでいるように見えたが、おれは、それどころではなかった。一言も話さず、話す気すら起きずに、駅に戻った。そこから5時間。それだけの時間をかけて、ベルリンに帰ってきた。
捕食者たちのテーブルに。
贄になりに。
朝日の中、後ろ手で撮った写真をよく見てみる。
あの税関にたむろっていた群衆、それは、ほとんどがただの人形であった。後ろ手に取ったそれは、うつろな表情を浮かべて空を見上げていた。
ドレスデンのあの母親。子守車の中の赤子の肌は、木目をになっていた。
ドイツの街、いたるところには、穂の天秤のシンボルが高く掲げられ、それは、ナチスの鍵十字と並んでそびえたっていた。
そう、視線を外した後方に広がっていたそこは、一般人の存在を赦さない地獄のような場所だった。
窓の光がまぶしい。
こんな朝こそふさわしい。終わらせるのにも……終わりを考えるのにも。
ただ、どちらにしてもだ。その前に……やっておくことくらいはしていいだろう。
敵に情報を渡すこと……それは、最も避けるべきことだ。
おれは、一般人である前にMI6のエージェントだ。曲がりなりにも。
小さな鞄に写真を詰め込む。
携帯用のオイルとマッチ。あと、如何にもな、毒々しい色の小瓶。これも一緒に。詰め込む。
彼は俺のことを覚えてくれるだろうか?
そのむなしい問いがドアノブの前に立ちはだかり、霧散した。最後に彼のことを考えたのが、少し不思議な気持ちであったとしても、もう、これ以上はできなかった。
終わりにする、そして戻らない。そのつもりで、ゆっくりと部屋を後にした。




