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イギリス篇 中章 5

 1940年12月16日 2:23 ――ホテル



 現像液の独特な匂いが鼻腔をくすぐる。

 耳に響くのは、ブレンドのいびきだけ。

 さすがに疲れ切ったのだろう。大きないびきを隠すことなく奏でている。


「もう少しだな」


 現像の状況を観ながら、大きく息を吐いた。あと、20分。それくらいはかかるだろう。ゴム手袋を脱ぎ、次つかうための、きれいに重ねて置く。簡易暗室の椅子にゆっくり、そして腰深くかけた。


「俺は……何をしているのだろう」


 これまで撮りためた写真は、フィルム10本分にものぼった。そのほとんどが、私費のものだ。正義感も、使命感も……ましてや、生きて帰ることすら諦めた。今の俺には、重すぎることだ。

 

「……今さらになって、こんなことを思い出すなんて――。」


 じっと手を観る。その手は、困惑する俺の顔をまざまざと見せつけていた。



 祖父……いや、曾祖父か。かれは、この一族の一番の栄光と呼ばれていたらしい。プロイセンに生まれ、プロイセンに育ち、プロイセンで鍛えられた。かれは、その外交手腕と物おじしない性格を買われ、遠い極東の国……日本にて、その外交の辣腕を思う存分に振るったらしい。

 そして、結ばれた。日本の女性と。

 それであれば、ただ、万々歳のハッピーエンドで終わりましたという話だろう。

 

 だが、祖父の日記には、こうあった。

 

 彼女に手を引かれ、夢のような中ただ歩み行った。それは、山の中の様であったが、一足歩むごとに、オーケストラのような整った音楽ではない、どこか、不調和音を感じる、笛の音、ドラムのような音、そして、声が霧深い山の中に響いているのを感じるようになった。そんな折であった。

 頭に陽を纏い、10握もの刀身を持った剣を携えた女性と、荒々しき海のような雰囲気を持ったどこか陰を感じる青年と出会った。

 彼女は、おびえていた。アマとか、スサと言っていた。

 とっさに、前に出て威勢を張る。2人は驚いた様子を浮かべた。


 そして、流ちょうな我が国の言葉で、祝辞を述べたのだ。


「あなた方を待っていた」と。



 それがどういうことだったのかなど知る由もなく。そして、俺は生まれてからこれまで、日本という国を訪れたことはなかった。だが、父と母、2人からそういわれ続けた言葉。

「お前のルーツは、日本とドイツにある」

 その言葉を、思い出し、また、その記憶はまたため息に変わった。


 時計を観る。

 18分と21秒。まもなく現像が終わる。


 任務は終わり、そして帰れる見込みというものは微かにも存在していない。

 なぜ、俺は、ここでこんなことをしているのだろうか?

 頭の片隅から出ることない疑問だけが、ぐるぐると昇華されない酒精のように、頭の中を巡っている。


「アーデレーナ・ヒルデガルド・シェリーフェンとは、


 現ドイツ国連大使のヒルデ外交官である。」


 フォルシュタインの言葉を整理して口に出した。そうなるだろう。間違いようはずもない。


「ヒルデ外交官は、非常に高い知能指数を持ち、男性の経験豊富な外交官ともまともに議論を行い、また、贈賄などに手を染めない、誠実清廉な人柄である」


 少し考えればわかる。


「ヒルデ外交官は、過去の履歴が不明であるが、高度な学問を治め、それを持って、総統閣下の目にかなうような活躍を治め、現在の地位についた」


 それも少し考えればわかる。


「……活躍……活躍ねぇ。女性が活躍するってなると、それが、常套ではある。でも、それじゃ、筆頭外交官として抜擢されるのには、弱いけど……。まあ、男女の関係っていうことにしたら……。」


 少し考えてもわからない。そう、少し考えればを3つ以上重ねたのならば、少し考えた程度ではわからないものが誕生する。実際の調査も、そこで行き詰っていた。


「一夜どころか、何夜も共にしたとか……はは、あのちょび髭にそんな……」


 言ってみた。ぞっとした。


「ノイバーベルク線……。アドルフ・ヒトラーが最前線陣地に配置されていた場所じゃないか。」


 最も早く地図から消えた陣地。そう呼ばれた地獄から、彼は戻ってきた。

「伍長閣下は、女兵の尻に敷かれていらっしゃる。」

 投降の際に集められた情報。その価値なしとされた情報の一つ。走り書き程度のメモ。そこに、書かれていたのは、現在の陣地内のうわさ話程度の情報。それが、脳裏によみがえった。


 「う、嘘だろう……アドルフ・ヒトラーは、アーデレーナ・ヒルデガルド・シェリーフェンと共に戦場を駆け、幾日と幾夜を共にした。そして、アドルフ・ヒトラーは、ノイバーベルク線で死亡した彼女を何らかの方法でよみがえらせた。

 そして、彼女への恩義に報いるために。彼女が最も得意とする、情報戦の舞台に彼女を送り出した……」


 自らの出した推論に、冷たい汗が背筋を伝い、無意識に生唾を飲み込んだ。

 時計を観る。

 21分10秒。


 頃合いだ。引き上げよう。

 どんなに、興奮していても。どんなに、困惑していても。この瞬間を間違えることはない。


 税関の光景、ベルリンの光景、そして、ドレスデンの光景。

 写真に写るものは、きれいなものばかりではない。

 

 時として、映るべきではないものも写真は映し出す。


「これって、なんだ?どういうことなんだ……」


 映り込んだるは、理解を超えた、あまりにも悍ましきもの。それは確かにこちらを見ていた。


 逃げられもせず、そしてその術すらも持たない哀れなものを殺す様に。

 ただ、ただ、動かない視線を向けていた。


 俺も、動けないでいた。いびきが止まり、朝日が、網膜を焼くまでただ、動けないままにいた。

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