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イギリス篇 中章 4

 ドアが開かれる。

 先にあったのは、さっきの地獄とは様相を異にした場所であった。


 南中を過ぎた日の光が優しく照らされ、午後すぎのおそらく、隣に併設されている児童院だろう。子供たちの溌溂なる声が空け広げられた窓から入ってきている。

 養老院の中庭に通じるそのバルコニーの戸は解放されており、これから寒くなることを予感させるような空気が入ってきている。その中に、ただ一人、ひざ掛けとマフラーをしながら、じっと中庭の様子を見ている老人がいた。すでに、安楽椅子に腰深く掛けていることから、階段を下りるだけの気力も、そして、体の力もないのだろう。

 窓際には、チェス盤。駒は、初期の配置となっている。


 後ろでドアの閉る音がした。老人が振り返る。


「フォルシュタイン陸軍元帥……」


 そこにいたのは、第一次世界大戦で、敗戦国ドイツのケツを拭いたと言われる元帥であった。ノイバーベルク線の大敗北により甚大な被害を超人によって負わされたドイツは、戦術の立て直しが不可欠に成った。だが、そのなかでも、超人の戦術性に疑問を持つ皇帝、ヴィルヘルム二世と実地指揮を担当している参謀本部で意見の乖離は埋まらなかった。

 参謀本部は、1916年4月に、クーデターを行い、ヴィルヘルム二世を蟹居。ドイツの実権を握った。


 そのなかで、完全に無力となったノイバーベルク線からの撤退戦。誰もやりたがらないような大失敗したシェリーフェンプランの尻拭いを、かつてシェリーフェン元帥と親交があり、また、ヴィルヘルム派とみなされていたフォルシュタインが陸軍元帥に抜擢された。彼が元帥に留まったのは、わずか、3か月ほどに過ぎなかった。

 その後、解任。彼は、参謀本部より姿を消し、一個下の作戦司令本部へその居を移した。

 1918年の2月に発生した若年将校のクーデター後の行方は不明。そうなっているはずであった。


「生きていたのか?」


「生きているのさ。郵便屋。

 イギリスからだろう?

 早くよこせ」


 有無を言わさない言葉が告げられる。荷物の底から、そっと取り出す。茶色の包装紙に包まれたそれ。そこに置けと言わんばかりに、フォルシュタインは、顎でしゃくった。

 指示には従う。


「君たちは、ワンウィークチェスというものを知っているかな?ああ、答えなくてもいい。1週間に一度だけ、駒に触れることが許される。若い君たちには至極つまらないものだというものは、理解はしている。まあ、大人のお遊びというものだ。それも、私のような……な。」


 ジャパニーズ説教というやつか、それとも、老人の妄言か?それを判断することなどできやしないのだろう。彼には、彼の生き方があり、俺たちには俺たちの生き方があった。

 ただそれだけのことだ。

 

 以前ならば、反発位はしていたかもしれないが、今となっては……。まあ、そう言いたい気持ちもわからないというわけではない。


「君たちは、戦勝国となったイギリスでゆっくりと暮らしていたわけだ。

 君たちにこういうことを言うのは何だが、世の中には3種類の人間がいる。

 賢い人間と、そうでない人間。そして、愚か……いや、違うな、奔放な人間だ。

 皆賢くあろうとする。それは解る。

 だが、皆がそうなれるわけではない。賢い人間になるということは、人間らしさを捨てることだ。多数の意志の代弁者となること。それが、賢さというパラメーターで現状に接続される。

 2つ目のそうでない人間は、それ以外の全てだ。餌でも与えていれば、勝手に増えて、主張してくれる。


 今の世の中が、そうであると思わないかね」


 ゆっくりと油紙をめくっていく。フォルシュタインの手は止まらない。


「3つ目の奔放さ。これは、あまりいないのだが、自らの自由になるためならば、自らの死をもオールインできる人間だ。彼らは、後悔などしないし、チップにこだわらない。自分の自由……知りたい、理解したい、超えたい。それに全ベットできる。それが、3つ目だ。

 残念ではあるが、そういう人間は、中世で絶滅してしまった。

 今は生き残っていないのだよ。


 私が知る限り……は。――ッ」

 

 茶色い、封は解かれた。風が止んだ。

 それよりも、顕著に。部屋の空気が変わった。


「どうしたんだ?」


「さあ、何かあったのか?ジョンブル」


「知るはずなどないだろう」


 フォルシュタインは、それを長い時間をかけて、ゆっくりと眺めていた。たしか、元海軍大将が挟み込んだ女性の写真が描かれた紙だ。フォルシュタインには、それが特別であったのであろうか。

 老人にとっては長い距離をゆっくりと時間をかけて歩く。ゆっくり、拒絶するように、否。きっと、拒否するように。その先あったのは、安楽椅子だった。


 老人は疲れ果てた様に、正に、その瞬間に、老人が老人になったかのように、力なく腰かけた。

 キシっ、キシっと床を安楽椅子の足が揺らした。

 声は、しばらくでなかった。あれだけ饒舌に語っていた口からは、声もれることなく、ただ、拒絶と確認の声が、喉を焼きながら出ていた。


 

「アーデレーナ・ヒルデガルド・シェリーフェン。

 シェリーフェン様の愛弟子。そして、血縁を継ぐはずだった者」


 フォルシュタインの喉奥より、声為る声が出たのは、本当に、長い時間がたってからだった。


「アーデレーナ・ヒルデガルド・シェリーフェン?」


「ヒルデお嬢様……ああ。シェリーフェン元帥に。ヘイムヘルで待たれているのわが師シェリーフェンにようやく……ようやくよい報告ができる。

 貴方様が望まれたように、あなた様の仔は……この混沌とした時勢に確かな存在をもって生きていると。


 ノイバーベルク山脈で亡くなられたというのは誤報であったか。


 さすが、申し子……。」


 安どの息がフォルシュタインの口から洩れる。その中には、多分に、諦観も入っていた。


「ヒルデ計画は、まだ潰えていなかったのか。それとも、あの伍長が引き継いだのか……しかし、ラインの乙女と言い、アーデレーナ・ヒルデガルド・シェリーフェンといい、最近の女性は強いな。」


「ラインの乙女?」


 ブレンドの声に、言い過ぎたと思ったのかもしれないと少し気が付いたのか、フォルシュタインは、自らの皺だらけの禿げあがった頭を撫でた。それが、安楽椅子を揺らす。


「1919年。ベルリンに帰ってきた総統閣下……か?それに、接触した人物がいるということはこちらも知っている。その人物は、自らをラインの乙女と名乗り、アドルフ・ヒトラーの今の勢力の基盤を築く、救貧組織であるドイツ国民基金の設立。そして、その顔役として立つことを提案した。

 まあ、我々の瓦解した情報網では、それ以上を得られなかったがな。

 そのあと、ドイツの民の支持を取り付けたアドルフ・ヒトラーとルーデンドルフがベルリンで闘い、アドルフ・ヒトラーが残った。

 それだけだ。

 アドルフ・ヒトラーの周りには強い女性が集まる。ものだ。


 ジョンブル。

 歴史は、勝者が創るものだが、敗者にも語るべき歴史はある。

 それを、肝に銘じることだ」


 老人はそこまで語ると、大きく息を吸った。


「だが、若すぎるな。ヒルデお嬢様の、若いころの写真を使ったのか?だが、服装は、外交官の制服か……。他人の空似であったか……」


 そこまで言うと、フォルシュタインは、その手に持っていた紙をこちらに渡した。そして、それからは興味をなくしたように、同封されていた本と便せんに目を通し始める。


「アーデレーナ・ヒルデガルド・シュリーフェンについて……」


「ああ、いいぞ。この手紙を読み終わるまでの間、教えてやろう。アーデレーナ・ヒルデガルド・シュリーフェン様……ヒルデ様は、アルフレート・フォン・シュリーフェン元帥の姪に当たられる方だ。幼少のころより、軍略――特に情報戦術に興味を持たれていた。シェリーフェン元帥と机上で戦術論をかわしながら、その戦術の全てを吸収し、ベルリン大学へ女子でありながら、首席で入学、そして繰り上げ卒業された。そして、陸軍に入隊。情報兵として、抜擢したが、実際には、将来の指揮官を約束された立場にあった。

 ドイツ軍の旗印として、まったく新しい戦術を携え戦場に現れる。

 ……その予定であった。


 その前に、ノイバーベルク線にて、お亡くなりになってしまわれた。それが、我々の誤算であり……失い難きものを失った。



 ここまでだな。

 彼も健勝そうでなによりだ。こんな時勢でなければ、まずいと有名なイギリス料理でも食べに行ってみたいものだが……」


 手に持った呼び鈴が鳴らされた。どうやら部外者は立ち去る時間の様だ。

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