イギリス篇 中章 3
1940年12月14日 12:55 ドレスデン近郊『――養老院』最寄り駅。明確な場所は伏す。
ベルリンから汽車に揺られること5時間。ようやく降り立った。そこは辺鄙な田舎町だった。
だが、ホームに足を着いた瞬間に感じたのは、
監獄の空気だった。
「……やはり歓迎されていない感じか?」
気楽にその視線をかわしたあとに、ブレンドはあきれた様に口を開いた。
「今となっては、お前の豪胆さに舌を巻くよ。お前は、本当に、ランナー向けの存在だ。あの時の、あいつが見たら是が非にでも欲しいと、喜ぶだろう」
「じゃあ、そのあいつっていうのが、誰なのかも。いつか教えてくれ。
あ、そこのお嬢さん。
私、ここ不慣れ。聞きたい。私ドイツ人じゃない。困ってる。
ここ行きたい。私の両親。ここにいる。
ここどういったらいい?」
勝算はあった。その娘。いや、母親になった人か。彼女は、親切に教えてくれた。
「ああ、ありがとう、親切な人。お子さんにもよろしく」
ゆっくりと手を振って送り出した。その人は、手を振り、足早に立ち去っていく。
相手が、振り返りを観る。シャッターは切れている。
「というわけで、場所はわれた。」
「というわけででもないだろう。
……全く。石の円卓の連中はこんなのとつるんでいるのか。正気を疑う事態だ」
ブレンドは、そう言いながらも荷物を持ち上げた。こちらもそれに倣う。ミッション開始だ。なんだか、サイレント映画のスパイフィクションの導入みたいだ。
そう、大好きだった『隠密遊撃戦』シリーズ。特に、傑作として名高い、暁の騎士の冒頭みたいだ。あの映画に憧れて、MI6に入ることを決めた。
懐かしさと、大人になり切れていない頃の切なさが胸を打った。
現実は、映画のようにきれいでもないし。そして、倒さないといけない敵役などいない。いや少し違うか。
……映画のように殴ってスカっとできる敵など存在しない。
ジメジメとした空気と、いつまで続くかわからない。情報戦。それに、嫌悪すら沸く、尋問。
MI6に入ったのだから、当然だ。そういわれてもしかないことに顔を背けていた。眼を閉ざしていた。
「意外と天職なのかもな」
「何か言ったか?」
いや、から始まる言葉は、心のうちに潜めた。……君子三日会わず時には……だったか。俺は、そうなれているのか。
いや、まだだろう。
視線の先には、未だに遠く、小さく見える建物を見据えていた。
――養老院だ。
「さて、最後の任務を始めますか」
「あー。シュレッター。そういうのはいいから、少しは手伝ってくれ。
年長者は労わってしかるべきだ。
そう思わないか?」
そうだったと、少し後悔する。寄付金の半分それを、こちらに移す。皺になったもの、雨に濡れたもの、油にぬれたもの。それは、等しく存在していた。
そのすべてに名前を与えよう。そは、マルク紙幣という。
口元で、ふふっと笑いながら、手袋をはめる。汚れに触る。こういう作業をするときは、手の痛むことがある。だから、それに対する保険のようなものだ。
目の前に散らかるもの。これは、手形だ。それは、明日への自由に続く、固く閉ざされた門を通るための鍵のようなもの。
だからだ。
「ああ、そう思ってる。じゃあ、こうしよう。7;3だ」
「馬鹿野郎。3:7だ。お前が、7を持て」
だとしても、若者も労わってほしいものだ。
いいように年長者にやられるのだから。
1940年12月14日 13:31 『――修道院併設――養老院』
「まあ、まあ。よくいらっしゃいました。」
「いえ、家族ならば当然ですから。」
鐘の力で買った、家族の地位。それを振り回すのは悪い気持ちではない。
100万マルクの力は、偉大だった。
「ええ、では、案内いたしますね。こちらになります」
扉を開く。
そこには、……地獄というのもおこがましい光景が広がっていた。壁に向かい語り掛けるもの、自らの糞尿に転がるもの、若き看護婦の腰にしがみつき、意味を持たぬ妄言を叫びあげるもの。
すべてが、檻の内に行われていた。
「ああ、檻には寄らない方がいいですよ。あなたも、同じになりたくなどないですよね?」
「そうだな」
ブレンドが嫌悪感すらにじませながら応えた。視線の先ではなく、手は、視線の反対を観る。大当たり……ジャックポッドだ。
入り口のドアの先、MI6の情報網で、最後まで郁恵の知れなかった老人が見えた。
ルーデンドルフの腰巾着と呼ばれた、誰よりも憐れまれ、そして、畏れられた。
だが、今となっては、誰も知らない老人が、そこにいた。花瓶に向かいぶつぶつとつぶやくさまは。哀れとでもいうべきなのだろうか?それとも、それこそが……。口の動きは、しっかりとしている。読唇術は、まあ、得意と言えば得意だ。
「ああ。ルーデンドルフ。ルーデンドルフ。あなた様こそが、ドイツの精神の。ドイツの精神の正当たる後継者。
あのような。小姓ごときに。あのような。小姓ごときに。
ああ。ルーデンドルフ。ああ……。――ルーデンドルフ。ドイツを助けたまえ。正しきドイツを助けたまえ。総力の戦をもって。」
後ろを向き、その隣の壁に、擦り付ける額は、すでにないのではないだろうか。壁に頭をたたきつける。微かに鈍い音が響いた。そこから、紅き線が引かれる。たったそれだけの光景。ただ、その悍ましさに、つばを飲み込んだ。
つい先だってまで、ヨーロッパを席巻している、モダン・ピースシズムと思想。その極端な思想。それは、人々に選民感と誤った未来を与えた。だが、それも、決してあながち間違いではないのかもしれない。
戦争と、それの再来を望むそこは、すぐにでも立ち去るべき場所と感じる。ふぅっと息を吐く。
ここは。この場所は……人間の居るべき場所などではない。
先にあったのは、短い階段だ。
たった、13段。その階段を上ることが、こんなに意識をかき乱させる。登り切った先に、その部屋はあった。ただ、Rとのみ書かれた表札のかかった白いドア。
「では、ごゆるりと。用が済みましたらまた、お教えください。」
そういうと、修道女は下がる。背にハシバミの杖を背負いながらゆっくりと階段を下りていく。その足音が、遠くなる。遠くなり、消えていく。そして……。
ドアの閉る音。周囲は不気味で息苦しいまでの、静寂に包まれる。
「じゃあ、行こうか」
「気軽に言ってくれる。若人のほうは、気負ってくれないのか?」
それに対して、ブレンドが答えた。おぞましいほどの笑みをたたえながら。
「当然だ。こういうのは、初めてではないからな。
ああ、年長者から忠告するとすればだ。初めて何かをするという経験は、誰にでもあるぞ。」
「それはどうも。じゃあ、年長者にってわけにはいかないだろう。初物を見る権利っていうのは、若人に譲った方がいいと思うけどな」
それに対して、ブレンドは、いたずらっぽく、笑みを浮かべた。




