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序章 ミーミル 3

 1940年4月4日 アメリカ ワシントンDC ホワイトハウス 時刻 3:30 


「全く、我々は、暇ではないんだぞ。研究室で数式が待っているのだ」


「その意見には同感だが。フォン。だが、パトロンが呼んでいるのならば仕方あるまい。」


 その返答に、ふんっと不機嫌そうに鼻を鳴らしたノイマンだったが、あたりに人の目がないことを確認すると、そっと声を潜めた。その口から出たのは、流ちょうなドイツ語だった。


「で、アルベルトは、この呼び出しをどう考えている。」


 静かに、アルベルトは目を閉じた逡巡しているようだった。ここに来てからやったことは、アメリカの国益を高め、ドイツを打ち破ること。そのことに納得をしているわけではないが。それでもやらなければならないことだ。


「おそらく、何かがあったのだろう。しかも私たち2人の力を必要とするような何かが。そうでなくては、ロスアラモスで始まったばかりの計画の責任者を呼び出すとは考えにくいだろう」


 その冷静な言葉にフォンはうなづいた。今、アメリカは、最終的な勝利者になるために日々歩みを進めないといけない。その信念と理念のもとに着実に一歩、また、一歩前進を続けている。その歩みを止めるような行動を、大統領が止めるわけがない。

 となると、考えられることは、唯一つだ。


 角を曲がると、再び人の目が増えた。2人とも会話を英語に切り替えようと考えた時だった。視線の先には、場違いで見覚えのない人物が、2人を待っていた。


 その人物を視界にとらえた時、思わず、2人は今日がハロウィンだったかと考えたほどであった。装いは、正に中世の魔女のような装いであった。三角の帽子に黒い服。右手に杖を持ち、左手に星辰の描かれた分厚い本を持っていた。二人の接近に気が付いたのであろう、その人物はそちらに視線を向けた。


 思った通り、女性であった。


「アルベルト・アインシュタイン博士と、フォン・ノイマン博士ですね。お会いできて光栄です」


 2人はその不意打ちに驚いた。その驚きに驚いたのか、女性は口元にあらっと手を当てた。


「政府が、魔女を飼っているとは思ってもみなかったが。」


「超人を飼っているのだ。フォン。魔女くらいで今更驚くことではあるまい。」


 アルベルトの言葉に、フォンは不承不承ながらもうなづく。「どうしてこんなわけのわからないものと」と、口の中でフォンは口にした。


「一応、私も政府関係者ではあります。自己紹介が遅れましたこと、陳謝いたします。わたくし、国防総省で神秘部門のアドバイザーをしております、メルルと申します。祖国においては、黒く深き森の魔女たちと言われておりました。その生き残りです。一応、わたくしは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。紳士殿」


 その言葉に、アルベルトは驚いた表情を浮かべた。神秘学は学べば必ず身を亡ぼすと呼ばれる死の学問である。それのアドバイザーができるほど精通した人物がいるということは聞いたこともなかった。

 そのことをがつい顔に出てしまったのか、メルルは、少し肩をすくめた。


「普段は、ハーバードで助教授と客演教授を仰せつかっています。まあ、こんななりですから、講義は閑古鳥が鳴いていますが。この度は、専門的な知識が必要ということで召喚されました。あなた方も、そうでしょう。」


 二人は、顔を見合わせた。これほどまでの知識が必要とされるものが思いつきもしなかったからだ。科学と神秘、そして政治が密接に絡み合う会談。それは何を意味しているのか。稀代の頭脳を持つ者たちであっても、それを予見することはできなかった。


 そして、事態がより深刻であることも。



 ホワイトハウス。大統領執務室は異様な空気に飲まれていた。いつもの机は、脇に寄せられて、中央に円卓が置かれ中央には波紋一つない水を張った巨大な桶が設置されていた。

 その光景に、開いたドアからのぞき込んだフォンは少しの間言葉を失ったほどだった。


「降霊術でもするのか?」


 その問いかけに、メルルは首を振ってこたえた。2人は導かれるままに席に着席する。その目の前には、イコンを紐でつなげたドリームスナッチャーのようなものが置かれている。


「これは、神秘に対する安全装置のようなものです。」


「それは少し困ったな。こんなに机の上が散らかっていると、メモが取りずらくなる」


 アルベルトが大して困っていないように言うと、張り詰めた場の空気がいささかなごんだように感じた。まさにその瞬間を待っていたかのように、部屋の主が現れた。入ってきたドアは、即座に閉ざされ厳重に封印される。そこに掲げられたのは、知りうるありとあらえる神聖なものであった。


 メルルが立ち上がったのを確認したアルベルトとフォンも立ち上がり、礼を取った。


 久方ぶりにみる。大統領の顔は頬がこけ、目の下にクマができていた。それでも、らんらんと目は輝いている。まだ、活力が残っているという証拠だ。それだけの力を注ぎ込む何かがある。


 再び場に緊張が走った。それは、先ほどの緊張ではなく、予見に満ちた緊張。これからの発言に何かがあるという緊張であった。


「かけてくれたまえ。」


 その会議の始まりは、静かだった。大統領の言葉に、3人は改めて椅子に腰を下ろす。目の前に一つの冊子が配られる。


 ミーミル


 そこには、それだけが書かれていた。


「ナチスがとんでもないものを作ってくれた。まずは、一読してもらいたい」


 冊子はそう厚くない。すぐに読み終わるだろうと、3人は最初のページを開いた。



 3人が読み終わったのは、実に1時間の後であった。


 言葉が出ない。


 これの状況こそが、正にそれを指す。

 痛いほど冷たい沈黙が大統領執務室を包み込んだ。

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