イギリス篇 中章 2
そこは、予想した場所とは違う出口だった。
「いったいどうやって、こんなところまで……」
来たんだという声は、ブレンドの一仕草で止められた。
「せっかく来たんだ。少しくらいベルリン観光していこうじゃないか。
まだ、余裕はあるだろう」
全く。この2か月間一緒に過ごしてきたもの。いつも思うのは、大層人間ができている。
俺の父親だって、こんなに落ち着いているのは、1年にせいぜい数週間といったところだ。
「ああ、そうだな。それで。どこに行くって?」
そういうと、ブレンドは、顎で、道の先を指した。
「何があるか、観てみたいと思わないか?」
「はぁ、――なにがあるかね」
そう、その場所から見える道の先には、人だかりができていて、人員整理をしている兵士たちの姿も見えた。みな、忙しそうで、こちらに目を向けているものはいない。
ゆっくりと人垣に近づいていく。
その先にあったのは……白い巨大な宮殿のような建造物だった。
それ自体は、資料で見たこともある。ただ、それが目の前にある。その事実だけで、思わず、唸りそうになった。
「10kだ」
予想していた場所と違う。それも、小さな差ではない。思考するだけで、いやになるほどに息浅くなっていく。少し苦しく、酸素を求めた。
「シュレッター。ここは?」
「総統府だ。別名」
「皆さま、ようこそ、ゲルマニア神殿へ。」
不意に、女性の声が聞こえた。皆の意識がそちらに向く。当然つられるように視線をそちらに移した。少しだけ高く設けた壇上にその女性はいた。よくとおるテノールボイスが耳朶に心地よく響いた。
「こちらは、ドイツ国民党の総統。アドルフ・ヒトラー閣下の邸宅にして、外国の皆様をもてなす迎賓館の役割も持っています。」
資料で呼んだことはある。ドイツ総統府。別名。ゲルマニア神殿。オリンピアのパルテノン神殿をモチーフにして、コンクリートを主材として作成された、現在の白亜の城だ。最初に感じたあの正体がつかめたような気がした。
あまりにも神々しく、神がかっている。そして、あまりに都合がよすぎる。そんな折だった。女性は、観てくださいと言いたいように、左手をゲルマニア神殿に向けた。
その手に導かれるままに、視界を動かしていく。その途中で、ブレンドは、驚きに目を見開き。そして、目を細めた。
「……」
口元を歪め、発したその言葉は、あまりに小さく聞き取れなかった。だが、ブレンドの言葉端からは、冷たいものを感じた。
まだ説明は続いていたが、ブレンドが背を向けたのを確認して、俺もそれに倣った。
ぽつぽつ。
まるで、その瞬間にまで耐えに耐え抜いた空から、もういいだろうと。小さな涙にも似た、雨粒が地に注がれ始めた。歩き去ろうとする2人の前に、一台のフォルクスワーゲンが止まった。
ドアが開く。
中から出てきたのは、少し冷たい空気を漂わせた青年であった。首元には、金色の穂の天秤とナチスの鉤十字が並べてその身分を現しているようだった。
「ホテルまでお送りするように。と、仰せつかっています。
いかがされますか。」
ブレンドがこちらを見た。特に、反対する意見もあるはずもない。
毒を食らわば皿まで。
ここは、ご同伴にあずかるとしよう。ブレンドを見ると、かすかにうなづいた。
着いた場所は、意外といいホテルではあった。
「本来であれば、ベルリンホテルのスイートをお取りしたいところでしたが、冬前の外交シーズンであるがゆえに、抑えられませんでした。あなた方に気を使わせてしまうのも悪いですからね。
狭い部屋になりますが、ここもいいホテルですよ。」
ばつの悪さも感じるほどの待遇に、ブレンドに視線を向けた。だが、ブレンドは、静かに首を縦に振っただけだった。
「確かにいいホテルだ。ありがとう」
静かな声に、青年はうなづいた。
「あなたにそう言ってもらえたのならば。我らの父も喜ばれるでしょう。お食事などは、近くの店から取り寄せもできますので、スタッフに申し付けてください。
それでは、失礼します」
「ああ。」
青年は、爽やかに目の前を通り出口に向かっていく。
その前に少し思い出したように、足を止めて、こちらに向きなおった。
「一言、言い忘れておりました。テーブルの上」
指差す。記憶の通りであれば、確かにその指し示す先には、テーブルがあった。
「少しではありますが、チップが用意してあります。それは、あなたのものです。どうぞ、お使いになられてください。グレンターク――さん」
とげのある言い方だったが、扉が閉められた。
ふぅっと、どちらかでもなく息を吐いた。
とりあえずの緊張の時間は終わった。それを確認したのだろう。ブレンドは、ゆっくりと窓に近づくと、カーテンに懐かしそう触れていた。その視線の先には、先ほどの白亜の宮殿が雨の中、さらなる威容を誇っている。それをどのような気持ちで見ているのかは定かではない。
俺も、荷物をいったん床に置いた。そんな単純なことすら、忘れているほどに、ここまで緊張していたのだ。大きく息を吐き、思わず、心地よさそうなベッドに飛び込みたくなる。が、さっきの言葉が気になっていた。
チップが用意してあります。
あれは、どういう意味だ?
見ると、窓際に置かれたダイニングテーブルの中央。少し盛り上がった何かに布がかぶせてある。
罠か?それとも、ブラフか?
それにそっと近づき、観察する。上から見たり、横から見たり、少しだけ、布をめくってみたり。
最後には、テーブルを軽く揺らしたりもしたが、特に反応はなかった。
さすがに、最後の方には、ブレンドも、少しあきれたような視線を向けていた。
「やろうと思えば、いつでもできたのに、こんなところで。策を弄するつもりは相手もないだろう」
「それは、そうか。じゃあ、ブレンド、頼んでいいか」
全くという呆れた視線をブレンドから向けられるが、それを気せず、一歩飛びのけるように姿勢を保つ。
ブレンドが、ゆっくりと布をめくる。その中から現れたのは、きれいな青磁の小さな壺だった。
「へえ、きれいなものだな。中国の古代の奴か?だとしたら相当な値打ちものだな」
「確かに、宋代のものであれば値もつけられないだろうし、これが、もし明の初期に作られたのもであるのならば、それだけでも、国宝にあたるようなものだ。だが、おそらく、これは、清末期のものだ。上海からの流出品だろう」
ゆっくりとブレンドは近づき、指で磁器の腹をなぞり、指ではじく。ギッンと短く、濁った音が聞こえた。
「厚さ、焼きの具合も劣悪な品そのものだな。……こういう偽物は買ってはいけないと。
紳士諸君は、習わないのか?」
「あいにく、おれは、実践の男なので」
一瞬だけ、あの紅茶係の憎々し気な顔が脳裏に浮かんだ。早く忘れたいが、どうせ任務が成功に終わろうとも、失敗に終わろうとも、会いに行かないといけないのは必然だ。
「そして、中に何かあるな。」
ブレンドは躊躇なく、逆さにして降る。テーブルの上に、硬貨と紙幣が落ちた。
「チップって。そういうことか。全く。」
ゆっくりと手に取る。
ご丁寧に、ポンドで用意されている。
丁寧に数えた。
「歓迎されているな。」
いやな予感は当たっている。
「なあ、……これって任務失敗しました。として、敵情視察っていう名目で、今からでも観光にでも目的を切り替ていいか?」
「任務自体はすでに終わっているだろう。今から先の時間は、おまけだ。
だからだ。
お前がそう思うのならば、そのようにしてもいいと思うぞ。
お前が、そう――思うのならばな。」
手の中を見る。
127ポンド。
俺一人じゃ、賭けの元にすらならねえよ。




