フランス篇 前章8
扉が閉まった瞬間に、体は動き始めた。
全身のチェック。
左手に厚く巻いた包帯がある以外、変わったと思われるところはなし。倦怠感、熱、……なし。健康体。そう言ってもいいだろう。アッシュシュートに近づく。スコップで暖炉から灰を落とすことになる。だからだろう、肩幅と同じくらいの入り口を持つそれを確認する。
そっと開く。
中に広がるのは昏い闇。漆黒と舞い散る灰。目を閉じ、耳を澄ませる。奥から聞こえるものは何もない。ただただに痛々しいほどの沈黙がそこには広がっていた。
よし。
まって。旗に触れて。
これは、あなたのためなの。
息を吐いた。大きく拒絶の息を。だが、それは敵わないようだ。ゆっくりと旗のほうに引かれるように歩を進めている。あの時と同じか。
「今日は――逃げられそうにないか。仕方ない。」
生を紡いだからと言って、業からは逃げられない。
私は、ジャンヌダルクが嫌いだ。
私は――ジャンヌダルクが嫌いだ。
それは、たった一つの理由による。その理由がある限り、こいつらを好きになる理由などあるはずもない。
そして、こんな最悪のタイミングで、最悪の行動をしてくる。こんな奴らを好きになれるはずもあるはずがない。そう、私の身体の主導権の多くは、ジャンヌダルクに握られているのだから。
「……わかったから、すこし、大人しくしてくれないか。この旗だろう。触るよ。ちゃんと触るから、こっちに任せてくれないか」
その言葉に、手と足は自由になるが、視線は、その旗にくぎ付けになる。ああ、本当に悪辣。人が見たら、滑稽に思うかもしれないけど、それでも、私は本気だ。
多分、さっきのドイツ兵が見たら、怒るかもしれない。
「全くそんなものを……」
そんな風に怒るかもしれない。
なんだか、いつもならば、嫌悪感が全身を駆け巡り、嫌気がさすほどに顔をゆがめている場面ではあるのに、ほおが緩んでしまうし、そして、今までの迷いが吹き飛ぶような感触にもとらわれる。
ゆっくり、ゆっくりと歩が刻まれる。足元が見えないし、旗以外を視界に入れるなとでも命令しているのか、いつもよりも一歩が思い。それでも、ゆっくりと近づいていく。
指が、旗に触れる。淦色の黄金。その光が私を包み込んだ。
情報欠損。時刻欠損 23時くらいか。場所欠損。
敗北と……負けたことと、同義ではない。
そういう意味では、私は勝っていた。
そう考えるのならば、この檻の中も。
意外と悪くなんてない。
冷たい石の床にも、祈りはにじんでゆくのだから。
「……。
そして生まれえぬ、未だ観えぬ新たなる主神よ。
ただ感謝を」
彼女は知っていた。自らの意志を。結末を。
だが、これはなんだ……こんな光景を知らない。
「――っ。ジャンヌ・ダルク?」
声が聞こえたのだろうか……。彼女はゆっくりと顔を上げた。
美しい。
そこには、女の私でも見惚れるような作り込まれた美しき造形。まさに、神が創り給うた美しさがあった。
「……そこにいらっしゃるのですか?」
その瞳が私を見ていないのだとしても。
1939年10月25日 10:21 パリ某所?
大きく息を吐いた。強き意志の力に、呼吸の仕方も忘れてしまうほどだった。
あれが、ジャンヌ・ダルク。
ありえない。
何がと問う必要などないだろう。廊下には、すでに怒号が飛び交っている。多くは、ドイツ語。知りようもない。だが、一直線にアッシュシュートを目指す。頭の声も、耳から入る声も無視する。
開く。大きく息をする。
多くの声。が聞こえる。
でも、もう、行こう。
暗闇の先に……。戻れない場所に。
私は、向かう。
意を決する。
体を滑り込ませる。
すべてを、喪うのは……本当に一瞬のことだ。
1939年10月25日 10:23 パリ地下?
意外と大変だったということは、付け加えておこう。
永いシュートを滑り落ち、灰の山に堕ちた瞬間から、しばらく動くこともできなかった。
そして、自分が埋もれていると知ってから、必死に出口を探す。
周りが灰だらけで、息なんかできない。もし、坑道病にかかったら困る。
でも、苦しい。
これじゃあ……。あそこから動かなかった方がよかった……。
だれか……と出た声は、小さかった。
「大丈夫みたいだな」
反応した声は確かだった。ずるっと引き上げられる。目の前にいたのは、意外な人物だった。
「――。パリジャン」
「少し、黙っていろ。くしゃみはできるか?」
くしゅん、くしゅん。
次の瞬間ぼろ布で顔を拭かれる。驚く。しばらく待つ。
眼を開ける。
なんということだろうか、パリジャンは固まっていた。
「ジャンヌダルク。お前。――意外とかわいかったんだな」
「40後半のおばさんに……おかしなことを言うんだね。寝ぼけたのかい?それとも、頭にエスプレッソが足りていないのか?」
その言葉が聞こえていないのか、パリジャンは、私をまじまじと見ていく。
「奇跡か。
めんどくさいことになりそうだ。
まあ、そんなものは信じたいと思ったことはないが……ともあれ、ここは脱出を優先しよう。同士フォルサエ。準備はできたか?
救出ではなく……脱出を最優先とする。
異端の杭は、すぐに使用する。脱出するぞ。
ここから。今すぐに。」
「主の御心のままに」
「――」
すぐにガスマスクがかぶせられ、私の身体は、パリジャンの背中に預けられた。
「主よ。我等を赦したまえ」
誰かの声が聞こえた。
そして、私の声は――聞こえなかった。




