フランス篇 前章7
それから後――かい?
なんてことはないよ。
そう、なんてことはないんだよ。
情けなく気絶したウルティマの後継者が引きずられていく。
おそらく、拷問。
だけど、それは、心に何の波を立てることもなく、視界の外に消える。
傷みと安堵、そして恐怖。
それがぐちゃぐちゃに混ざりながら、ドイツ兵が近づいてくるのが分かる。手には麻袋。ぼやける視界の中、その顔がはっきりと見え、声がかけられた。
うなづく。
暗闇が私の全てになる。
眼を閉じるべきだ。休息というものは、取れる時にとっておいた方がいい。それは解っている。ただ、きっとこんな感じだったら思い出してしまうんだろう。
うんざりだ。
目を覚ました後のことなど……考えたくないほどに。
1914年某日 20:03 バッシ―通りから裏路地に入る
――ドイツ占拠時のパリ
入ってきたのは、ドイツ帝国の兵隊だった。店の中の全員の目が釘付けになる。
だが、そいつは臆さなかった。
あの頃は、嫌悪感くらいは覚えたさ。でも、今は違うよ。おそらく、彼は、職務に忠実でながらも、あまり真面目ではなかった。
正直、今思い出しても、その判断は正しかった。おそらく、彼だけが、店の中の状態をきちんと把握していた。だから、そういう判断を下せた。
実際に、そうなってから思うのは、私はそれをできていないということ。きっと彼がいたら、叱咤位はされたと思う。彼、そして、彼らはえらいと思うよ。名前1つ知らないのに。
「ここにレジスタンスがいると、情報があった。店主、確認をしたい」
ああ、あれは、早く帰りたいから、そう言えという合図だったんだろうね。だから、お母さまは、安堵の声を上げたんだ。
「ここにそんな奴はいないよ。他をあたりな」
「情報感謝する。念のために、店の中を見せてもらう」
あれは、合図だったんだ。
私が、膝の上で何も知らずに震えている間も、お母さまは戦っていられた。
ほんの僅か、ただ、今日いた客のことをふっと忘れてしまっていた。いや、そいつは客でもなかった。
「お前ら、なにを探すだって?」
何気ない一言が、ウルティマの逆鱗に触れた。
「れじす……た――――」
「お前らも俺を。テキサスの田舎から帰ってきたって。
お前は、牛の頭って!!
馬鹿にするんのか!!!」
何もないはずの一言が、ウルティマの逆鱗に触れた。
兵士が叩きつけられ、人間の形を失う。隊長の怒号と共に、銃声が狭い店の中に響く。悲鳴。嘆き。それを遮る声が聞こえた。
ダイナマイト!用意!
声が聞こえた。逃げないとと思った。でも、それで終わりだった。
爆風と熱波が――。パリでの私の人生を終わらせた。一度に全部を失った不幸。その中でも最も不幸だのは、彼女に庇われた事だろう。
瀕死の重傷を負ったそれは、ジャンヌダルクと名乗った。
瀕死の彼女は、その有様でありながらも、
「私が、ジャンヌダルク。
その人だ。」
と、名乗ったのだ。
「そしてあなたが、――」
もう、これ以上は思い出したくない。
そう思ったときに都合よく夢から覚めるものだ。今回もそう。朝のひかりが、網膜を焼いた。
1939年10月25日 9:22 パリ某所?
痛みが、体を覚醒させる。全身が痛い。
それも、そのはずだ。今の私に、傷を負っていない場所など存在しない。古傷も今負った傷も等しく痛みを呼び起こしてくる。
全く。こんな年になっても、戦場に出るなんて考えもしなかった。
ひとしきりシーツの中で見悶える。
やがて、落ち着く場所を見出す。痛みを避けて、少しでも楽に過ごせる場所。そういうところが重要なところだ。見悶えるといったが、せいぜい体の位置を変えることが精いっぱいで、ほとんど最初の場所から動いてもいない。
その体制のまま、少しだけ、あの時のことを思い出す。
ウルティマの後継者は、そのまま連れ出されていく。それが視界から消えるのに時間はかからなかった。
その後袋を持っていたドイツ兵。彼が、見せた表情。
「安心してほしい。あなたの……身は、私が護る。それは約束しよう。ジョッペルのことは残念だったが、貴女に、私は彼のようなことはしない。そう、あなたの身の安全と、保障は、私が責任をもって……いやこういういい方はおかしいか。
僕に護らえてもらえないだろうか?
どうかな?信用してくれるかな?」
その真剣でありながらも、いたずらぽいまなざしに、思わずうなづきそうになる。それを肯定と判断したのか、頭から、何かをかぶせられ、視線が遮られる、担架に移される。私が覚えているのは……そこまでさ。
ただね、あれだけ、ぐちゃぐちゃな心のうちでありながらも、ここ10年の間で一番。
熟睡してしまった。
私は、一番。安心してしまった。
そう、この日まで、微睡んでしまうほどに。欲していたんだろうね。安心を、安寧を。
欲していたんだ。
自分でもわかっていた。
「さて、検診のお時間です。おっと、起きられましたか!」
ドアが開いたのか、驚いたような声が聞こえた。首だけを動かしてみると、そこには、温和な笑みを浮かべる医師がいた。ただ、わかる。こいつは、町医者ではない。
軍医だと。
どうやら、ここは、ドイツ軍の施設らしい……。
そういう、考えを巡らせている間にも、医者は、脈をとったり、心音を確認したりと大忙しだ。その襟元の金色の穂の天秤が揺れている。それを、私は、ただ瞳だけを動かしながら、静かに見ていた。
やがて、診断が終わったのだろう、医者は、道具を直すとこちらに向きなおった。
「問題ありません。呼んでまいりますので、少しお待ちください。
……まあ、その必要もなかったようですがね。」
ワゴンを押す音が聞こえてくる。音が止まる。
医者は、近くに控えている看護婦に、視線で合図を送る。
看護婦は、察したように、視界から消える。そのすこし後、ドアの開いた音が、静かな室内に響いた。
不意に香ってきたのは、甘いミルクと麦の香りだった。
ひどく懐かしさと、郷愁を感じる。その匂い。
医者が立ち上がると、敬礼をする。返例を返したのだろう、医者は手を下ろす。
「そろそろ来ると思っておりました。副作用こそありますが、健康そのものです」
「ならば良し。
気苦労を賭けたな」
ドイツ兵の声に、医者の顔が穏やかになる。
「あの地獄に比べれば大したことはないですよ。さて、私は当初の任務に戻ります。
父と仔の御名の元に」
「我ら精霊の加護のあらんことを」
そのまま、医師は足元のカバンを持ち上げると、足音が遠くなっていく。そして近づいてくるワゴンが床をこする音。
「待たせたね。」
あのドイツ兵だった。温和な笑みはそのままだった。ただ、どこかでけがをしたのか、肘のところには少し厚めに、包帯が撒いてある。
こちらのむっとしたような視線に、彼は、またあいまいな微笑みを浮かべていた。ただ、その様子は、うれしそうに見えた。
「少し、テロリストの対応で、時間を取られてしまって、ここに来るのが遅れたことはお詫びしよう。
さて、貴女のことは、なんとお呼びしようか?
マリーデ?それとも、ジャンヌ?ダルク?――。」
「マリーデでいい。」
そういう大仰な名前で呼ばれているは、本当は、あまり好かない。
認めてもらえるって大事よ。
お前の意見は聞いていないし、特にお前に言われたくはない。
背中に手が入れられるとやさしく起こされる。
いつの間に準備したのだろうか、サイドテーブルには、深皿が置かれ、その横には、小さなヨーグルトの容器が置かれて、切ったみずみずしい赤いフルーツが盛られていた。
ザクロとリンゴ。
私の好きなものだ。
「ずいぶんな重傷で、治療は大変だったよ。ドクには後で感謝の言葉をかけておくことにする。
助かってよかった。
多分、空腹じゃないかと思って、持ってきた。」
ドイツ兵が深皿を持つと、あの甘い香りがぷんっと鼻腔の奥をくすぐった。
ああ、これは、覚えがある。
私が、熱を出した時に作ってくれた麦かゆだ。贅沢にミルクに砂糖を溶かしたその麦かゆ。初めて食べた時、あまりにおいしくって、以降は体調を崩していなくても母に、作ってくれとねだったものだった。
鍋の底に残った麦の粒を、弟と奪い合ったのも、いい思い出。
「さあ、お食べ。」
ゆっくりと皿をかき混ぜていたドイツ兵は、私の口元に匙を持ってきた。
思わず口を開きたくなるのを、ぐっとこらえる。
私のその様子をみて、ドイツ兵は困ったような表情を浮かべた。
「全く。……疑うような予知なんてないと思うんだけど……ああ、そうか」
何かに気が付いたように、ドイツ兵は、そのスプーンの麦粥を自らの口にゆっくりと運んだ。ゆっくりと口を動かすと、それを嚥下する。
一息。
「毒でも入っているんじゃないかって。
そう思われたのか。まあ、仕方ない。」
その表情は少し寂しげだった。
わずかに、罪悪感で胸が痛んだ。
新しい匙に、麦かゆが救われる。
食べた方がいいと思う。賜り物だよ。
……仕方ない。
こうしていても、仕方ないんだ。
口を開ける。
次の瞬間、口内に広がったのは、あの幼い日に食べたそれと、まったくのそん色のない。
懐かしい味だった。
口が進んでいく。
途中に酸っぱい酸味が混じる。甘く酸っぱい。まるで、子供の味だ……。だが、もう、止まらない。また自然と口が開く。それを察したように、匙が差し込まれる。
よく噛み、嚥下する。
「――。――なんだから」
「――――。少し、――――。」
不意に、ジャンヌダルクにより奪われた。なんてこともない。でも、取り戻すこともできない、喪われた日常の記憶の端がほどける。
そう、そういう時代もあった。
心地よい食後感と、心地よい記憶が、その時間を最高の時間に変えて。そして、あっという間に奪っていった。
皿は空になっていた。
私は――――。
満足していた。
息をつく。ドイツ兵がよく似た表情で安心しているのが見える。
ゆっくりと視線を這わせる。
入口右手に旗、そして、そのまま右手に這わせると、暖炉の近くにアッシュシュートがあった。この大きさの暖炉だ、一日の灰の量は相当なものだろう。
自然と這わせられるのは、そこまでだ。ドイツ兵に視線を戻る。
なぜか、視線を逸らせなくなる。
言いたいことも、問い詰めたいことも。たくさんあったはずなのに、その顔から……視線が外せなくなる。
「ああ、よかった。その麦粥好きだったからね。」
ただただ、ぞっとした。
冷たい汗が背筋を堕ちる。
「……。」
「中尉。少し来てくれ。物わかりの悪い客人が来てる」
その口から、言葉が出る前に、事態が動いた。――らしい。
「ああ、わかった。
お願いだ。
そのまま、じっとしていてほしい。
すぐに戻る。
すぐに戻る。座って……ああ、もしきついようならば、シーツをかぶっても構わない。
目を閉じたら、すぐに戻る。
約束する。
客人は?ああ、ナチスか?親衛騎士で対応は。難しいと……。すこし、厄介だな。」
そのドイツ兵は、名残惜しそうに、私を見ていく。ドアが閉る。




