フランス篇 前章5
1939年10月23日 8:12 パリ北東部
崩れ落ちたエトワールが私たちを迎えてくれている。
だが、すでに、何の感傷もわくことがない。まるで、昨日ですべてを使い切っていしまったように。心が凪いでいる。とても静かだ。
ここに来るまでに、有りとあらゆるパリの象徴が、その精神を形にしたものが崩れ落ち、砕かれ地にまかれ、あるいは……。
「どうやったらこんなことができるんだ」
誰かが不意に発した言葉の通りに、思っている。
エトワールは、2つの柱を残し、門としての形状を失っていた。だが、門柱と門柱の間にあった。重厚な装いと美しさを兼ね備えた回廊。勝利者となったナポレオンを迎え、そこから、激動のパリを見てきた。それは……どこにあるのか。思わず探す。
やがて見つかった。
私たちの戦う相手は、これほどまでに驚異的なものなのか。それをうかがわせる。
凱旋門は、もう一つの凱旋門を押しつぶしていた。先に見えるのは、崩壊したルーブル。
敵意。
そういう言葉だけでは、こんなことはできない。明らかな、もっと明確なこちらに向ける悪意と……強力な意志を感じる。背筋を通った怖気は、確かにそうだったのだ。
でも、これでいい。
そんなわけはない。こんなことが、こんなことがいいなんて思ったことはない。そして、はるかな未来にも思うことはない。
今は、本当に一人でも仲間が欲しかった。かつての仲間がまだ戦っているはず。それをあの時のように束ねられれば……。
遠くても、必ず勝利は訪れる。
これは、私たちの夢。私たちの願い。
こんなものが、そうであるのならば。私は、すぐにでも――私を辞めてしまいたい。
その方法が、死しかないとしても。
心の中に響くジャンヌダルクの声が小さくなる。
周りに気づかれることなどないだろうけど、ほんのわずかに安堵の声が喉から洩れてしまう。
手に握っているのは、オリフラムではなく、バスケット。あえて何も持たず、あえて何もせずに。再会を分かち合う。そして、これからを確認しよう。
それだけが、今日という日。このパリに来た目的。
たったそれだけの目的で、たったそれだけを成すために、こんな敵地の真ん中に向かう。
私たちは、愚かなんだろうか。と自問することもできない。
ただ、垂れる黒雲が、その先行きの困難さと不穏さを示しているようだった。
日本人だ。気を付けて。
視線の先、壊れた凱旋門を見上げる、スーツ姿の背の男性がいる。近くで、ナチスの構成員だろうか、説明をしている。私の中のジャンヌダルクが明確に危険信号を出すのは珍しい。
それにしても、あれが日本人か……。
新聞の写真などで見ていたが、山高帽をかぶっているその御人は、一般的に言われる日本人像に合致しない姿だった。背は高く、がっちりとしている。そして召しているものも、サエズ・ロウで下ろしたような完璧なスーツ。その人物が、通訳もつけずに、ドイツの外交官と思しき人物と何らかの話をしている。
物珍し気に見ていたことに気が付かれたのだろうか。ふと視線が合った。顔がぎりぎり判別がつくくらいの距離であったが、眼光。その鋭さが分かる。ただ、相手は、すぐに興味をなくしたように、背を向けると車に乗り込んだ。
今の日本とドイツは同盟関係にある。それがわたしたちの今と重なることはないだろうが……それでも、思うことは多くある。エトワールに背を向ける。
ここにいると、ずっと見ていたくなる。魂まで、哀しみに染まれとでも言うように。
さらに北西。パリとそのさかい。
かつては、そこには明確な境があった。
今はない。パリの先に広がる場所とパリの中にある場所。そのいずれも塗りつぶされたように平坦に感じる。視線を移すと昨日見た倒壊したエッフェル塔が見えた。
パリは2階建て以上の建物はすべてなくなっていた。
それは、正しい報告だったのだろう。そんな中、集まってきた。今朝、方々に散った仲間たち。道すがら情報収集と現状把握をしてきてもらっていた。初めて会ったように、挨拶をかわす。
「あなたたちもここに?」
「ええ、ここに以前住んでいて、以前の隣人から手紙が来たからここに来たの。」
「そう、わたしも、第一次世界大戦のときに、ニースに疎開するまでは近くに住んでいたのよ。」
「じゃあ、どこかであっているかもしれないわね」
お互いの設定を崩さないように、自然な感じで談笑する。大げさなジェスチャー。手が触れる、紙片がある。
「セーヌ川以南においても、レジスタンスの符号は確認できず。」
「東地区。活動を確認できず。付近の住民も知らないという。」
「西地区。活動形跡なし。またかつての拠点も廃墟化していた」
次々に情報が集まる。情報は、どれも一緒。
現在のパリにおいて、レジスタンスは活動休止中。よく言えば、そうだろう。だが、悪く言うのならば……組織だった連携した活動ができないほど、パリのレジスタンスは弱体化している。
ということになる。
また、各地区のリーダーを発見できなかったのが、さらなる不安を掻き立てる。
頼む。まだ無事であってくれ。
貴方が最後の希望なのだ。我らのリーダー。
ウルティマの後継者。
第一次世界大戦で占領されたパリにパルチザンを率いて暴れまわり、ドイツの駐留部隊を震え上がらせた。あなたが立てばパリの反骨心に火をつけることができるはずだ。
ゆっくりと裏路地から裏路地へと進む。建物は残っている。明かりがついている。
誰からとでもなく、安堵の声が漏れた。
ゆっくり近づき、合図のノック。
「マリーダよ。ジョッペルおじさん。久しぶり」
中から声が聞こえた。無事だったのだ。安心する。
ノブに手をかけ、扉を開ける。鍵はかかっていない。
危ない。
声に気が付く。だがもう遅い。
出迎えたのは、銃声だった。




