フランス篇 前章3
1914年某日 19:44 バッシ―通りから裏路地に入る
――ドイツ占拠時のパリ
私は嫌いじゃなかった。
暗黒時代って言われる第一次世界大戦期のドイツ占領下のパリ。その時代。――あまり言われない話だけど、わたしは、その時代が嫌いではなかった。
ドイツに占拠されていたパリには、そこかしこにチャンスが転がっていた。
こういうと、あれだっていうのは解っている。不謹慎って言いたいんだろう。
でも、私たちは、あなたたちのような天才や恵まれた人間じゃないんだ。自分のチャンスは自分で作るしかない。あなたたちみたいに、チャンスを待とうっていうことができる奴なんて、ほとんどいないんだ。
チャンスがある。だから、周りでの商売が繁盛する。
どんな方法でも、私たちは、小銭でもいいから稼がないといけなかった。
今の私にならば、わかる。わかりすぎるくらいに分かる。
でも、その当時はそうじゃなかった。
私が、それに気が付いたのは、ずいぶんと経った時だった。そう、ずいぶんと経っていた。
私たちは自由だった。
自由なその場所には、そこには、3つの派閥がいた。一つは、ドイツに降伏し、その後志願兵として戦果を挙げれば、こんな生活とはおさらばできるんじゃないかっていう派閥、一つは、イギリスが助けてくれるはずだ。として、フランスへの義勇兵への登用を目指す派閥、そしてもう一つは、フランスを守るためにレジスタンスとして戦うべきだという派閥。
日がな、この狭い酒場に来て議論をしていく。その中に入って注文を取りに行くのも、いやだと思いながらも、母様にすごまれると、怖くて、そこに行かないといけなかった。それでも、3か月もしたら、それも習慣になっていっていた。
お世辞も、下世話な話題も交わせるようになってきていた。
あの日のことをすべて覚えている。
冷たい雨の降る時だった。
いつものようなグループが、来店して、喧嘩したり、議論したり、喧嘩したり。しながら、店の中は回っていた。そして、それに加わらない女性が一人。ご新規の客。ただ、周りの喧騒に耳を傾けながら、ゆっくりと杯を傾けていた。横には、旗のようなものが置かれている。
注文は同じ。
「同じものをちょうだい」
「ええと、それでいいのですか」
微笑む。きれいな人だ。それ以上を言えなくなる。
水。
コップ一杯が、ワインのグラスに匹敵するそれを。女性は求めていた。ガラスの割れる音。女性が大きく息を吐いたのが聞こえた。誰かと誰かが喧嘩に入ったのだ。周期的なものとはいえ、こちらも我慢の限界が訪れようとしている。それを理解していた。
そろそろ注意が必要かもしれない。意を決して、喉から言葉を出そうとした。その瞬間だった。
「空いているか?」
声がした。鳥肌が立つ……声がした。そして、一番聞きたくない……声がした。
巨躯がゆっくりと扉を通る。そして、誰も視線を送らない中、ゆっくりと歩いていく。目の前を歩いていく。いつものテーブルに、いつもの椅子に歩いていく。
真っ先に反応したのは、志願兵志望の諸君だった。
「店主。これにして失礼する。代はここに置いていく」
几帳面に、いつもより多くフランを置いていくが、ツケにした分を払うっていう習慣がないのか、それでも足りない。そのあとに立ったのは、レジスタンスの面々だった。
「今日の分はツケにしていてくれ。きちんと払う。」
いつもだったら、お玉くらいは投げていたかもしれない。だが、後ろの気配がそれを止めさせる。母親と目が合った。母親がうなづく。私は、そう、従うしかなかった。
「お待たせいたしました。ウルティマ様。今日は……」
恐怖で喉が詰まった。不意に、膝に腰かけさせられる。腰から、手を添えられたわき腹から、悍ましい感触が広がる。
「今日、エジットで、少し頭にくることがあった。聴いてくれるよな」
アブサンで汚く汚れた緑色の歯が目に入る。条件反射に私の身体は強張った。周りを見る。義勇兵諸君は、言葉もなく消えていた。残ったのは、ウルティマと私とお母さんと見も知らない女性の4人だけがその店に残った。
多分、私は嫌な思いをしただろう。でも、それでも、明日の朝は変わらない。そのはずの日だった。
乱暴でありながら、よく調整された機械のようなノックの音。
気づく。ハッとして振り向く。扉が開く――。
もう、戻れない。
1939年10月22日 15:23 バッシ―通り近辺
黙とうがてら、あまりに長く思いに浸っていたらしい。客呼びの鍋をたたく音。そんなものをあの時のノックと聞き間違えるなんて。
冷たい空気を吸い、呼吸を整える。
あたりは、すでに夕方の様相を呈してきていた。どんな場所でも、どんな所でも、人間は生きていくことができる。活気を供する声が、聞こえている。
「そうか――もう、夕市の時間か」
懐かしく感じる。朝に野菜と肉を買って、昼に仕込んで。夕に酒を買う。そして、晩に開く。母は、これを、ずっと毎日、やってきたのだ。私なんて……とても、敵わない。
でも、あなたはジャンヌダルク。よ。
「だから何だ。うるさい。」
感傷が深かったのか、思わず声に出てしまう。ハッとして、あたりを見回す。
聞こえていたのだろう。驚いた顔をしている。
「聞こえたのかい?」
「ええ。宿に居なかったので、ここではないかと。そう、皆さん言っていましたよ。」
そこにいたのは、あのドイツ兵だった。人懐っこい笑みを浮かべている。
それは、危険な奴だ。
その笑みは、何も読み取れなくする。だから、流れに任せることにした。
「ポークジャーキーと塩の利いた固ゆで卵。あと、安いアイリッシュウィスキーをもらおうかね。たっぷりとピートの利いたやつをワンボトル。」
「……?」
せいぜい、このドイツ兵には、荷物持ちにでもなってもらおう。
好きなんだよ。そういうものが。私は。
上等なワインなんてものよりも。




