アメリカ篇 前章8
1940年4月25日 15:54 ワシントンDC ホワイトハウス某所
国家、政治体制、民主主義、独裁主義、主権、人種。人とは、縛られるべくして縛られている呪われた種族。故に苦しむ。故に痛みを分かち合う。
だが、分かち合った先が、まともだとは限らない。
ゆえにこそだ。人が3人いれば。政治は始まるという。
苦しみと痛みの分け方を巡って。
そうであっても、秩序が、支配するならばまだいい。しかし、そこにあったのは、混沌で。それは、数を従えていた。求められていたのは、最も原初的な政治劇であった。
テーブルに冷静さはなく、机上の空論は空回りを続けている。
なぜか?
理由は簡単だ。ここに、制御する人間がいないから。
ここに。
問題が解決するのならば、命を賭けてもいいという人間がいないから。
みな、欲しいと願っている。空虚でもいい。確実で、自分の手に納まるような。自分の手で受け止められるような。経過を。結果を。結末を。
素人が、いっちょ前に色を見せたらこうなるという、結果が目の前で展開されている。
私は、一切に荷担しない。この無駄な時間をゆっくりと本を読み、コーヒーを飲みながら過ごすだけだ。目の前で、持論を展開するものを見る。反論するものを見る。媚びるものを見る。逆張りするものを見る。ため息をつく。見えないようにただため息をつく。
アルベルト。ノイマン。これが人間の本性だ。天才である、あなたたちがいないと何一つ決めることもできない。人間の本性なのだ。
カップの底にわずかに残るコーヒーを弄びながら、大きなため息をついた。そろそろかと思い、壁掛けの時計を見る。
いい時間だ。
周りを刺激しないように、ゆっくりと立ち上がる。先ほどから繰り広げられているのは、アカデミックな会話ではなく、ルールだったディベートでもない。
盲目となったものたちがただお互いを罵倒しあい、失言や失策を引き出そうとする醜い光景だった。本来ならば、止めるべきであろう。ただ、その権限を私は持たない。
最初の会合から感じていた亀裂は、会議を重ねるごとにどんどんと広がっていく。天才同士の対立。政治学上の対立。そして、そこに無制限の労働力提供と天文学的な予算が加わるのであれば、学術の場など、あっという間に政治の場へと変わる。
私は、そこから出る。
そっとドアを閉めた。
たったそれだけの行為で、静寂が立ち込める廊下に歩み出ることができた。
そこを足音を立てて歩き始める。そんな中、今日の会議を思い出す。今日、そこに現れなかった天才たちのことを想う。
アルベルト。ノイマン。
皆、まだ戦うべき相手の影すらつかんでいないのに、相手をどうやって傷つけるのかを話している。とどめを刺す話をしている。そして、倒した後の話をしている。
今日の、この場を仮に治める力があるのは貴方たちだけだ。だが、今日のこの場を作り出したのも、貴方たちの存在だ。些末なことと思った二人の天才の議論は、真っ向から割れ、その割れた議論のまま、今、この会議は、正に空中分解しようとしている。
その中で、倒すべき相手の影は、混沌とした議論の中で空ろな輪郭を得て。確かに障れるような質量を得て。それはすでに、目の前にある。手の届くところにある。空にあって、皆が見えないままに、仮定で話すたびに、考えるたびに。それは、どんどん大きくなっていく。
最後には、このアメリカすらも飲み込むんじゃないか。
皆そう感じている。わかっている。だからこそ、そこから目をそらして、机上で積み立てられる前提もあやふやな話を延々と続けている。
確かに、今は、まだその輪郭自体はあいまいだし、質量も、まるで霧を触っているように確かなものではない。
もし、この影が形をもって歩き始めたのならば。
もし、こちらに手を伸ばしてきたのならば。
もし、その手が人の熱を奪うほどの冷たさを持っていたのならば。
――私たちに打つ手などあるのだろうか。
この明確な形をもって歩き出した……巨大な恐怖。それに、人間が勝つことはできるのだろうか。
首を振って、考えを断ち切る。あまりに考えすぎだ。それに、今日はデダロたちと約束している日だ。
そんなときだけは、こんな気持ちは忘れておかないと。
私は、まだ何も見つけ出してもいないのだから。
強き光を束ねられず、分かたれたのならば、その光と光の間には、真なる暗闇が広がっていることだろう。暗がりの底にあるのは、希望とは限らない。
でも、それが、完全な終わりではないと知っている。
少なくても。私は。
それを知っている。
1940年4月25日 21:22 ワシントンDC サウスリバー地区近辺
明日、デダロの講演がある。これは、ミスをするわけになど行かない。だから、今日は、デダロの家。最終確認をする。
「調整終わったよ。今日は天の川銀河がきれいだね」
光をちりばめたよう美しい天の川と、満月の光。それが、この部屋に差し込んでくる。私は、望遠鏡をのぞき込むことを止め、デダロに語り掛けた。さっきまで、本を読みノートをとっていたデダロは、そうだろうとうなづき返した。
「良いことだとは言わないが。灯火管制のおかげともいえるな。地上の光が少なければ少ないほどに、星空は輝きを増す。今の時代に、空の星々が人の元に戻った。それを見ることができるのは奇跡ともいえるな」
「そうだね」
私は、そういうと、再び望遠鏡をのぞき込んだ。静寂が部屋を包み込んだ。
「光あれ。神がそう告げると、無に光が生まれた。そして、すべてを創り。最後に人間を作った。」
デダロが語り始めた。いきなり何の話だと訝しんだが、星空を見ながらそのまま耳だけを傾けた。
「わしは、神が創り給たもの。そのすべてが、神の現身であり、神の御心だと思っている。いや、思うようにしている。」
いつしか、ノートを掻くペンの音も止まっていた。
「故に。わしは、かつて天動説を本気で信じていたそんな時期もあった。……この生き方を選んでからは、そんなことはないが。後悔はしていない。」
その時、息を吸う音だけが、部屋に響いた。
「観測する、仮説する。そして、実証する。わしの科学に対する探究心は、その科学の果てに、神の御心に触れたい。その御姿を見たい。その一心にかかっている。傲慢と言われても、異端だと言われても止めることのできない。この20年間思い続けたことじゃ。」
いつの間に私は、望遠鏡からデダロに視線を移したのだろうか。この小さな老人は、とても小さな老いた男性は……。
とても大きく見えた。
「ようやくこっちを見たな。いい表情になった。
魔女……いや、メルル殿は、国防総省の一部門、対複合脅威戦術機関で働いている。それで間違いないかな」
「――ええ。間違いない。あくまでアドバイザーとしてだけど……」
その言葉に、デダロはうなづいた。それは、納得のうなづきだった。
「結構。前に行ったときには、門前払いされた。だが、アドバイザー殿に十分に信用を得られたな。さて、メルル殿。
わしの知る空にある脅威を伝えたいと思う。
その脅威が、神聖なる空の法則を穢していることを。
この空の果てを閉ざしていしまうほど巨大でありながら……今はまだ見えない脅威を。
メルル、アドバイザー。ご清聴いただけるかな?」
その瞬間、なんとも言えないような、暖かい気持ち。それが体の中を駆け巡り、そして、私の首を自然とうなづかせた。
これが、後にして思えば……転機だった。




