アメリカ篇 前章6
1940年4月6日 14:22 ワシントンDC サウスイースト地区近辺
「ここね……」
ワシントンDCに長く住んでいる私だが、この地域には近づかないように指示されていた。それは、単純に治安が悪い以上の混沌がこの地を支配しているからともいわれれている。腕時計や指輪は、少なくとも外してから地域には入ること。余計な詮索はしないこと。話かけられたら無視して視線を合わさないこと――。最初に、教えられたことは、まあ、ここまでというほどに、多岐に上るものだった。
それを忘れていたわけではないが、油断はしていたのだろう。リンチや私設検問それをすり抜けていこうとすると、自然と路地裏にたどり着いていた。
そこには、男が一人。上半身裸で、震える右腕にはナイフを握り締めている。よく見ると、肘窩には赤い斑点がちらほらとある。
「よう、ねえちゅあん。まいぐぉ、くぁ」
ろれつが回っていなくて、目の焦点も定まっていない。典型的なジャンキー。口臭のぷんとした特徴的なにおいがそれを肯定する。さてどうするかと、考える、あたりを観察すると、建物の影、ごみ箱の裏、寝ている浮浪者、2階の窓のカーテンの裏。それぞれから視線を感じることに気が付いた。皆、私のことを観察している。そして、事態が動くことを期待している。
ここで、こいつをぼこぼこにして終わりといかないらしい。幸いなのは、この姿。相手も油断していることは想像に難くない。
ふっと、手に握っていた紙に目を通した。
惜しい。そして、名残惜しくはある。
でも、
今日は急用ができた。それで逃げてもいいだろう。私がいなくても、問題はないだろう。そうだろう。
「そう、迷子なの。お兄さんたちに、楽しいことしてあげようか。きっと忘れられないよ」
目の前のジャンキーに、優しく語り掛ける。その言葉に一瞬きょとんとしたそいつは、意味を理解したのか、下卑た笑みを浮かべた。周りの視線もそれに伴い熱を帯びた気がする。
思わず笑みが浮かぶ。いい空気だ。闘争、そして、私も、貴方も、お前も、貴様も。皆、ここで、等しく血に沈む権利を持っている。地に臥せる権利を持っている。
ジャンキーの目が揺らいだ。私の殺気に今さらに、気が付いたらしい。ナイフを構えなおす。すでにその手に震えはない。ああ、お前は、喰餌だったのか。
なおさらに、いい。
いい呼び水になってくれ。あんな奴に未来を奪われた、私のうっ憤と憤りを。晴らさせておくれ。
乾いていたはずの空気がしっとりと絡みついていく。霧に沈むヒュルトゲンの森のように。その深奥のように。
私の渇きを癒しておくれ。
「ぇ――はぁぁぁぁぇぇ…………」
獣のような静かな咆哮が発声器官から上がると、頬が吊り上がる。空気が変わったことに対しても、ジャンキーは、それでもナイフをこちらに向けて、視線を外さずにいた。
良し。
貴様は、最初の贄となり足るものだ。手に足に力がこもる。
まずは、一つ目。そう思いとびかかった。
銃声。
思わず、自分をかばう。だが、狙われているのはこのジャンキーと気が付く。死ぬほど後悔させたいと思っていたが、死んでほしいとは思っていない。ましてや、殺されていいはずなどない。思わず、手を伸ばす。弾丸を掌に受け止める。手を握り締めて弾丸を握りつぶす。
違和感。理由。
ため息が出た。その理由に気が付くのと同時に。路地の誰かが、もしかしたら路地の奥でずっと見守っていたそいつが。まるで合図のように短く鼻歌を歌った。
「同胞を救ったんだ。あんたもこれからは仲間だ」
耳に入ると、やはりいやになる。その視線先にいたのは、ホープディスタンス・0で私にいつも世話を焼いてくれるバーテンダーだった。ただ違うのはその出で立ち。いつもの気崩したスタイルではなく、その身には、一部の隙もなく、スーツを纏っている。ただそれに、着られているという感じはない。むしろ今がまさに自然体。
思うに、今の装いが、この男の本性なのだろう。
「招いた客人が遅い。そう同胞から話が合った。それで、迎えに来てみたら。
これは、どういうことだ?」
ドスの利いた声だ。少し聞いていたくなるが、自分以外行う行為で血を流すを見るのは趣味ではない。
「あら、この人は、私に道を教えようとしていただけよ。ちょっとここら辺は込み入っているから、迷子になりかけていたの。少し困っていたのよ。ここら辺って、少し女性の一人歩きには危ないっていうじゃない。そんなとき。
お嬢さん。迷子かい。
って。
聞いてくれただけよ。それで、少し話をしていただけ。
悪気はないわ」
じっと見ていたバーテンダーが、視線を向けると、ジャンキーは、少しためらったのちに。そうだというように首を縦に振った。それを見たバーテンダーは、ジャンキーに近づく。
「すまないな。お互いの認識にずれがあったようだ。こういうことはよくあることだ。そうだよな。兄弟」
ジャンキーは、一瞬目を白黒させながらも、なんとか、「ああ、そうだな兄弟」と返すのがやっとだった。
まるで昨日のホープディスタンス・0のように、バーテンダーに連れられて歩いていく。
ただ歩いていく先は、昨日とは打って違う。まだ乾かない血の水たまりと吐しゃ物の匂い。どこからか聞こえてくる怒号と悲鳴。
だが、そんな中でも生活はある。目の前のドアが開け放たれると、子供たちが、手造りのボールをもって、私の横を駆け抜けていく。その歓声は明るい。母親が、「暗くなるまでには帰ってくるんだよ」と声をかけている。そして、こちらを見て、驚いてドアを閉める。
当たり前の生活の光景が、ここにあった。
「驚いたか?」
そう聞かれると、うなづくしかない。さっきのジャンキーは、自らを守るためにさらしていたナイフを靴底に仕舞こむと、距離を置きながらも、まるで子供たちを見守るように、そして見失わないように心掛けている。周りの大人もそうだ。彼らが連携して動くのは、きっと私のような存在が通りかかった時だけ。
ここでは、誰かが弱い誰かを守る代わりに、異物を赦さない空気が流れている。さっき握りしめた弾丸を手を開いてみる。
ゴム弾。違和感は正しかった。
「試されていたのは私だったのか?」
「ああ、すまないとは思っていた。だが、大叔父に言われてな。まあ、迎えに行ったわけだ。……間に合ってよかった。だが、自ら進んで問題は起こさないでほしいものだ。国の忠犬ならばそこらへんはわきまえていると思ったが」
「あいにく、アメリカに恩義は感じていても、忠義はないの。自分がすりつぶされるまで、働いたら終わり。バイバイって考えているわ。」
その言葉に、一瞬バーテンダーは考え込むようなしぐさを見せた。今の何が気にかかったのだろうか?
「なるほどな。
そう思っているのは、お前だけだ。これで確信がいった。」
何?どういうこと。それを聞くこともできないまま。目的の場所にたどり着く。古びた3階建てのアパートメント。だが、付近の建物が、平屋や2階建てが多い中、明らかにその存在は浮いている。
「――」
「え?いま、なんて?」
感慨深く、建物を眺めていたバーテンダーが、一言口に出した。訛りの強い言葉が聞き取ることはできなかった。
「イカレス。飛べない翼を広げて、太陽に飛び込んだ。イカれたイカロス。メキシコでは、そういうスラングもある。だが、大叔父にとっては、きっとお気に入りの言葉だろう。
さて、俺の案内はここまでだ。帰りに、カエルの看板の店に寄ってくれ。ここまでの非礼のお詫びに最高のテキーラとタコスをごちそうしてやろう。
そして、おまけだ。ここを安全に通れるおまじないをしてやろう。」
建物の3階から顔をのぞかせる老人は、大きく口を開けて、遅いじゃないかと言っているようにも感じた。
「もう二度と来る気はないけど、気が向いたら尋ねることにするわ」
そういうと、建付けの悪いドアを思いっきり押し開けた。
「じゃあ、気兼ねなく。待っておくよ」
その言葉が聞こえないように大きく音を立てて。




