アメリカ篇 前章3
その言葉は、私の歩みを止めるには十分だった。だが、それだけでは、足りなかった。
「ま……メルル、アドバイザー戻ったのか。分析依頼が山のように来ている。時間がないのは理解している。」
「――。ええ、わかっています。大尉殿。あとはお任せを」
ほんの少しの時間。ただそれだけだった。老人と目が合う。老人の奥底にあるその炎から目をそらした。そして、伏せた。今の私には……罪に向き合う時間すら惜しい。
分析依頼物の待つ部屋に向かう。
少なくとも、私には、時間が必要になるだろう。見出すのにも、そして、見つけ出すのにも。
1922年 時間と場所は伏す。
最後の守護者が倒れたのを感じて私は、唯恐れおののいた。
負けたのだ。完膚なきまでに……この人間に。
「ヒュルトゲンの森。これで理解できたか?我々を。我々自体を。」
声に、感情はこもっていなくて、ただただ平坦であった。私は、唯々脅えていた。あの時のように、あの時に何もできずに脅えていたように。そして、結局。私は……。
「ヒュルトゲンの森。交渉をしよう。私は、略奪も。破壊も。好むところではない。我々の交渉の境界はただ一つだ」
それは、人間の言う悪魔のように狡猾で、それでありながら非常に人間らしい言い分だった。
私は、結果として。相手の言うようにして勝った。すべてを失うために。
1940年4月5日 19時10分 MIDTメルルオフィス~通称 魔女小屋~
「ミス.メルル。ミス.メルル――」
揺さぶられる。ここは、MIDTだ。
寝ていた?いつの間に?
疑問もうやむやになるほど、だったのか、心配そうにのぞき込んでくる二等兵の姿があった。机の上を見る。それは、問題なかったらしい。少し、ほっとする。
「……オフィサーから、ミス.メルルは昨日、今日とお疲れだと思うと。先ほど電話がありました。大丈夫ですか?一心不乱に仕事していたので――」
おそらく本心だろう。私は、少し落ち着いてあたりを見る。何事も問題なく推移している。
だが、手は震えていた。
「私は、大丈夫だ。
……だが、その指摘は正しいな。疲れているのかもしれない。――今は」
気が付けば、いつもの静寂がオフィスに戻っていた。あの老人は去ったのだろう。嵐のような2日間がようやく終わった。
「お送りするように……」
その言葉は微笑みで遮った。
「家訓で、知らない人の車には乗らないようにって言われているのよ。
それに、私は魔女よ。
夜の暗闇は友でしかないわ」
そうであれと、心に願えば。きっと叶うのであろう。
資格などないにしても。
「72時間のバケーションだ」
「72時間のバケーションですか?」
思わず、聞き直した。対面に掛ける大尉殿の顔が、渋面になる。退出の挨拶に訪れた席で、ウィーマーク大尉は、非常に不機嫌な顔をしていた。目の前には封筒。端っこには、黒頭の鷲。おそらく、ブラックペーパー。国家予算でありながら、会計帳簿に乗らない使途不明金だ。それが置かれている。
「ミス.メルル。正式に貴女の要望していた休暇が認められた。帰還は、明日の0時より72時間。今日はこれよりかえっていい」
そんなものを要求してつもりはないが、そう考えているのは私だけなのだろう。はぁっと、あいまいに返事を返す。確かに体は大変だったが、心はまだいけると言っている。そんな中で、休暇など――と感じる。だが、それを言う前に、大尉殿が口をはさんだ。
「お前は、何度死にかけた?」
「今週だけで、3度。今日と昨日は集計中です。まあ、私たち、超人は消耗取り換え品ですから。生き死の意味など考えても」
皺が濃くなる。どうやら、ジョークは、お気に召さなかったらしい。
「ああ、今週だけだけで、右半身が1回、右上腕部以上が1回。そして、両手両足が1回か。
そして、昨日は、外出先で内臓不全により心停止。1回足りないな。メルル」
大きく、息を吐いた。この上官は嫌いだ。人の日常にくどくどと介入したがる。――支配したがる。人間の悪い癖だ。悪い癖だ。人間は、見えないものをコントロールしすぎる。意味のあるものをコントロール下に置こうというのならば理解できるが、意味のないものは……どこまで言っても路傍の石だ。石をコントロールしようととするのならば。明らかに、必要なコストを超えている。
「……失礼ですが、大尉殿。私は、死にかけることが任務であり、死にかけることで、報酬を得ています。それが一回死んだとて。何の問題があるのでしょうか」
空気が熱波を孕んだ。むっとした熱い空気。それが執務室を包む。ただ、言葉はない。大尉殿の手がゆっくりと封筒を私の目の前に滑らせる。黙って、封筒を手に取れということだ。そう感じて、手に取る。
ベンジャミン・フランクリン。20枚。
それが、私の価値。そして、今日の私の意味だろう。
「言っておくが、3日間は顔を出すなよ。出したらたたき出す様に言われている。もちろん、手段は問わずだ」
言葉に、無言で返す。
手段もない、その方法もないのに。
ばかばかしい。
私は、魔女だ。自由になった存在。そして、自由のまま……終わっていく。誰にも知られないし、誰からも思われないまま。私は。そう。も、もう、終わった存在なのだ。
そっとしていてほしい。
1940年4月5日 21:10 ワシントンDC ~ホープディスタンス0~
「もう一枚脱げ!」
「お、あの子、俺の事、見たぜ」
「馬鹿言うな。俺の方を先に見たさ」
薄く開いた扉から聞こえる、下卑した笑い声とヤジの声。むわっとするようなにおいが漏れ出てきそうになる。
そう、ここはいつも変わらない。ゆっくりと足を進める。今日は、ここに。私は、用がある。もっとも、相手にとっては、その限りではないだろうが。
「……」
「入れてもらえないかしら?」
強面のバウンサーが、こちらをにらみつけているが、迫力が足りない。帽子の下から、きっと睨み返すと、半歩引いた。情けない。お互いに。入り口の異常に気が付いたのか、支配人が顔をのぞかせ、私に気が付いた。
「ミス.メルル。今日は、どのようなご用事で」
「気付けに一杯やりに来た。これでいいだろう」
支配人の手に、100ドル札を3枚をねじ込む。そのへらへらした顔が、渋面に変わる。少しだけ、ドアの中を見る。大きなため息。
「前みたいなことにはならないだろうな。今日は、一般の客もいる」
「そうならないように努力するのは、そちらの責務だ。こっちは、事故をもらっただけ。こっちとしては、静かに気が済むまでこの喧騒の中で飲んでいたかっただけ。
こんなのでも、見た目は、かわいい女の子なのよ同情してわ。」
「お前をそんな風に思っている奴は、すでにいないさ」
低い声で語り掛ける支配人になじみのバーテンダーが駆け寄り、何かをつぶやいた。席の用意ができた。ということらしい。
「席の確保できた。一般客の隣になるから、そこは理解してほしい」
「ああ――理解している。」
少し帽子をかぶりなおすと、ドアを開く。
視線が、こちらを向き、場が、凍り付く。一瞬だけ声も空気も止まった。そんな中をなれた挙動で、バーテンダーの後ろについていく。たっぷり30秒。いったん冷えた場の空気が緩むのに時間がかかった。どうぞと勧められた席。いつものように照明は昏い。帽子をとると、くるくると回しリボンにして髪を結ぶ。
「ミス.メルル。今日は、特別なお酒が入っております。お試しになられますか?」
「いいわね。もらおうかしら」
バーテンダーは後ろから、一本の瓶を取り出す。1919年仕込みのスコットランドウィスキー。なみなみと注がれる琥珀色の液体を見ながら、少しだけ物思いにふける。
「どうぞ」
今のアメリカは、酔っているのだろうか?今の私は酔っているのだろうか?口をつけ、一気にあおる。常人なら喉を焼くようなものだろうが、私には関係ない。
「足りない。ビンごともらおうかしら」
バーテンダーは、表情を崩してはいない。だが、その瞳が、ほんのわずかに寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。瓶を取ろうとした瞬間だった。横から伸びてきた細い腕。しかし、しっかりとした老いた樫の木を思わせるような腕が、私の手を止めた。
「そんな飲み方をするな。今の空と同じように、酒が泣いておるぞ」
そこにいたのは、ついさっきMIDTの窓口で怒鳴っていた老人だった。さっきとは全く違うその表情に。私は、しばしの間、言葉を失っていた。
この当時の100ドル=現在の価格で約20万円




