アメリカ篇 前章1
空は、覆われる。
黒く昏い渦に、覆われる。
すでに、1000日と千晩。空は覆われていた。
空から力尽きた黒が舞い落ちてくる。
灰と共に。
この神の大地に――終わりを告げるように。
美しい外套も勇ましい鎧姿も、そして、その頭にある王冠も。ただ灰に汚れ、汚れている。
かつての、至神は――灰にぬれ、灰に汚れ、地に膝をつというあまりにも浅ましい姿になりながらも、灰の山を掘っていた。
灰は鋭き刃となり、その肌を斬り、血を流させる。灰は降り積もり、その誇りのありどころを重みにつぶそうとする。
それでも、掘っていた灰の山を。何かがあることを確信したように。
その何かが顔を見せる。黒く炭化し、ところどころには、まだ残り火がうごめいている。主神の手が払われると残り火は微かな抵抗を見せるが何とか治まる。
ぼろぼろっと、黒き炭の外殻がはげ落ち灰の山に堕ちる。
灰は止まず、降っている。
「ああっ」
初めて、主神が私を見た。安堵と――今ならばわかる。ひどく哀愁のこもった表情だった。手の中に納まった私は、主神の掲げるままに、あたりを見た。遠く、遠くに火の柱があり……その真ん中には、未来があった。
「見よ。残し仔よ。未来に残すと約した残し仔よ。新たなる世界の基となるように作られたものよ」
その視線の先、最後の力を使い果たしたのか、未来は、炎に屈するように真っ二つに割れて避けて、沈黙すらなく尽きた。今の世界は終わり……そして、未来の世界は潰えた。
「世界は――終わる」
呆然と見るその目には何の温度も感じなかった。嘆いてほしかった。叫んでほしかった。せめて、悔やんでほしかった。
「世界は――終わる。神々は、宇宙には勝てぬ。そう決められているのだから。」
まるで肯定するように……はるかかなた、焼け落ちる黒き天の先に炎の剣を掲げ高笑いを上げる巨人の姿が見えた。
私は知っている。
未来というものは存在しないのだということを。
1940年4月5日 午前6時前後
不意に、夢から引き戻される。時計を見て、あたりを確認する。日の出の気配。私は、蘇ってから半日以上をかけて尋問を受けていたらしい。
「ミス.メルル。お疲れさまでした。聞きたい情報はすべて聞けました。ご協力のおかげで、早く尋問を切り上げることができました」
「あら、そう。お役に立てたようでなにより。終わったのならば開放してもらえかしら」
手に、足にと、掛けられていた拘束が解かれていく気配を感じる。やがて部屋の中から立ち去る気配が、一つ、二つ……すべてが消えて、私一人になる。大きくため息をつく。
「あのまま、死なせてくれていればよかったのに。」
ひとりの部屋。そっと愚痴た。
心臓が握りつぶされた瞬間。あの時から痛むその心が確かに軽くなるのを感じた。
血を吐き、痛みに震えながら。
それでも、解放の時を感じていた。
間違えていた自分がようやく終わる。納得いく形で終わらせることができる。そう確信していたのに。
いったい誰が再び目を開ける力を与えたのだろうか。どうも、人の世というものは、隠遁していたい私を自由にはしてくれないらしい。
ふと、窓の外を見る。立派なチェリーの木だ。だが私にはわかる。
この先、戦争が起きれば、あの木は……簡単に亡くなるだろう。
分かっている。
未来がないことなどは。
よく解っている。でも、私には何もすることはできない。何の力もない。そう生きてきた。
だが、知っている奴がいた――きっとこれは、皆に知れ渡るだろう。
だとすれば、逃げる道などあるだろうか。答えは解っている。そんな都合の良いものなど――何もない。そう何もないのだ。メルル。
だとしても、いずれにせよ自らの足で立たなければ、逃げることも、抗うこともできないだろう。
だが、その前、ドアが開いた。意外な人物に驚きが隠せない。
「様子はどうかな。魔女殿」
「ジョン・フォン・ノイマン主席研究員……いえ、ご心配をおかけしました」
まず訪れたのは、ノイマンだった。これには、少し驚きを隠せなかった。てっきり事務手続き上の兼ね合いから国防総省かNSAが訪ねてくると考えていたのだが、これは予想外。
それを気取られたのか、ノイマンは、窓際の籠に置かれていたリンゴに手を伸ばし、こう切り出した。
「かつて、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の基本的な構造に気が付いたらしい。もっとも、彼がその理論を完成させ、証明するためには、それからあと、相当の時間がかかっている。」
いきなり何の話だと、疑惑の目を向ける。
「自然に存在する物ですら、そのような有様なのだ。ましてや、今から我々が相手にするのは。それ自体を、自然と言っていいものか、そもそも観測できるものなのか。今まで考えたこともなかった。あえて、考えないようにしていた。
この世界でいう……神秘。そのものだ。
我々は、それに科学で挑む。勝算は低い。結果は解っている。今すぐにでも、すぐにでも逃げ出したい。そう考えている――顔に出ているぞ。メルル」
そういって、ノイマンは、リンゴを一かじりした。口元からみずみずしい音が部屋の中に響いた。そんな難しい顔をしていたのか。と一瞬考える。不安、畏れ。それはある。
「確かに、私は恐れているのだと思います。あの男――アドルフヒトラーを」
しゃりしゃりと、リンゴをかむ音だけが部屋に響く。それは、リズムよくて――呼吸を整えることができたような気がした。
「先ほどの尋問でも答えましたが、私は……アドルフヒトラーに完膚なきまでに敗北して、アメリカに逃げてきた臆病者です。たとえ彼がどんなに許せなくても、彼を恐れてしまっている。私が――どれほどの力になれるか」
「なるほど、少しだけ理解できた。なかなか、思惑というものを理解するのは、骨が折れる話だ。」
ノイマンは、椅子を引き寄せると勢いよく腰かけた。どうも座り心地が悪かったのか、何度か尻を移動させて、ようやく落ち着いたらしい。座っているのか、それとも、椅子に掛けているのかわからない、浅い座り方だった。ゆっくりと指を組むと私をのぞき込んできた。そこに、探求の灯が燃えているのが見て取れる。
「いま、アルベルトたちは、ソー博士の発明品に夢中だ。どうせ、皆で詳細は聞くことになるだろうが、私は、時間が惜しい。だから、君から先に聞いておきたいことがあってね」
部屋に、春の風が吹き込む。日が昇り、影を部屋の中に作り出す。その影は……私を吞み込もうとしていた。ただ、不快な感じもなく……木陰の中のまどろみの前に聞く話しをせがんでいるようにも感じる。
これだけ急かされるような言い方なのに、不思議と相手は、私の話を待っていてくれている。そう感じたのだった。
「君は、神を信じるくちかい」
だが、彼の言葉は鋭かった。




