イギリス篇 前章4
グレンダーグ・佐藤・シュレッターは、第一次世界大戦の最中、日独の最大の戦場となった青島において捕虜となったドイツ兵グレンダークと現地、日本で恋を実らせた、佐藤 花子の間に生まれた子供である。
幼少期のわずかを日本で過ごし、初等部の教育を受ける前、父の仕事に合わせて、満洲国へ移住した。そのため、日本での記憶は薄く、日本語よりも、父から教えられたドイツ語と英語を母国語として使っている。
佐藤 花子は若くして他界した。そのため、シュレッターは、母の顔を覚えていない。
父グレンタークは、満洲国で鉄道技師として働きながら、シュレッターを一人で育てた。
その父が、一昨年末になくなった。シュレッターに残されたものは、父が死の間際に爪が食い込むほど強く託した出自を示すものだけだった。
父の先祖にそれを報告するために、シュレッターは、ドイツに向かう。
「これが、今回の私に与えられる身分設定ですか?」
「ああ、そうだ。事実として、青島にて、グレンタークというドイツ軍兵士がいて、彼は日本の捕虜となった。戦後、その人物が日本で解放されたのは確認している。だが、その後の足取りは不明だ。おそらく、すでに死んでいると考えて問題はないだろう。あの秘密主義国家ならばよくあることだ。君がこれからもここで働きたいと思っているのならば、今の言葉はよく覚えておくことだ。だからこそ、私たちはその裏をかく。
君には、――
これから、グレンターク・佐藤・シュレッターとして、満洲国の住民になってもらう。知っての通り、日本とドイツ、イタリアは同盟を結んでいる国家だ。君は、彼らが何をなそうとしているか知っているはず。そうだよね」
ごくっと、生唾を飲み込む。
知って入る。だが、それは・・・・・・。
正気の行動とは思えない。
「世界征服。あるいはそれに類することですよね」
そうだというように、眼の前の壮年を超え、まもなく初老の域に入ろうとする男性は、目を閉じて、肩をすくめた。あえて視線を逸らすとロイヤルネイビーの提督帽が目に入ってくる。それに気が付いてか気づかずか、あいまいなまま、その男性は笑みを深めた。
「君の思っているとおりだ。本来であれば、子どもの妄想と一笑に伏すようなこと。あまりにバカげていて、考えても仕方がないことを、我々は、本気で追いかけているのかもしれないな。
・・・・・・それを見越してだ。Mark.127。君に頼みたいことがある」
シュレッターから、MI6の構成員へ意識が戻される。同時に思う。このレベルの人が、お願いと言ってくるときには、ろくなことにならないと。
「私には、古い友人がいてね。かつては敵同士だったのだが。今は、同好の趣味を持ち、お互いの状況に配慮の上で、適度な交流を行っている」
バックから取り出したのは、短編小説ほどの厚みのある紙の束だった。
「ただ、残念なことに、かれは、現在病気療養中・・・・・・という名目でベルリン郊外の養老院に入っている。個人的なお願いで、恐縮だが、彼にこれを届けてもらえないだろうか?
――しかしこのままというわけには行かないか。では、こうしよう」
そう言うと、その人は、廃棄予定と書かれた紙の束の中から無造作に1つをつまみ上げる。その紙に、一瞬だけ、女性の写真が見えた。
流石に、階級の関係でなのか、それとも、その行動に全くの問題がないのか。紅茶係のヴィルヘルムは黙ったまま、その状況をただ見ていた。丁寧に紙の束に、さらに紙を巻き付ける。それを、新聞紙でさらに包み上げていく。
「よし、できた。」
止めとばかりに、紐で括ると、そこにあったのは、Mark127がげんなりするほどに、更に分厚くなった紙の束だった。
表面には、アドルフヒトラーがフライベルク紛争解決時の和睦の為にフランスに訪れたという記事と、ヴェルサイユ宮殿のバルコニーで演説する写真が貼られている。もう、10年近くも前の新聞だ。
現状を聞いたらその当時の彼らは首をかしげるだろうし、今の我々にもかつてそのような時代があったということが自体が、まるで質の悪いサイレントを見ているような気持にもさせる。
「中身が気になるか」
言葉に慌てて首を横に振る。
「まあ、税関で開かれても問題ないものだ。とだけは伝えておこう。……ただ、あちらは検閲が厳しいからね。持っていた君がどうなるかということについては、私としては責任を持てないからね。少し税関が騒がしくなることがあるかもしれない」
つまり、隠し通せということだ。一層げんなりとする。だが、もっとこっちを気落ちさせたのは、神秘学室長の存在だった。神秘学というものがあるということは、知っていた。しかし、それを実際に取り扱っているものを見るのは、ここに配属されてからだった。彼は、落ち着く払った様子でその場に佇んでいた。
「1つ質問してもいいですか」
こちらの声に、特に動じる様子もなく、また、関心もなさそうではあった。彼に問いかけた。
「ええ、どうぞ」
「本当にこんなことをすることがMI6の任務になるんですか?」
こちらの困惑した問いかけにもその表情は動くことはなかった。
「ええ。なりますよ。あなたが、その任務を全うすることを女王陛下も、お望みになられています」
つい、3時間前の光景を思い出しながらまだ夜明け前。霧深いテムズ川の河畔を歩く。太陽の沈まぬ国、あるいは世界に名だたる列強として名を馳せ君臨していたころ、テムズ川は狭く感じられた。霧すらもはじけ飛ばすほどの人と熱気。それこそがこの川の支配者であった。
だが、支配者というものは得てして、移ろい易いものだ。
今は、通る船が少なくなり、広くなったテムズ川の早朝に、霧が支配者として再臨している。
世界恐慌の狂乱とこの不気味な戦争は、テムズの港にあった熱気すらも奪い去ったのである。
ゆっくりと歩を進める。霧に包まれたいまだ昏い街中。まるで、灯のように1つの家に明かりがついている。玄関先がきれいなのは、掃除が行き届いているからではなく、その店に入ろうとするものいないからだろう。静かにドアノブをまわす。呼び鈴を鳴らしながらドアは静かに開いた。




