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イギリス篇 前章3

 目を閉じて、すっと口を付ける。口の中で合わさったそれは、ゆっくりと喉を通りながら胃へと注がれる。わずかに飲み、そして、口を離す。

 息を吐くことすら厭うほどの感覚が、全身を駆け巡っている。

 それは、確かに報酬の意味を持っていた。


 息を吐き出して、目を開く。



 同じ部屋、同じ席順ではあるが、そこはほんの僅か前とは、違う空気をはらんでいた。


 それは、寒気のようなものだった。こちらを見る目は変わっていない。それでも、その奥にある光が鋭くなった気がした。


「君は、あの地獄に戻り給え。仕事が待っているのでしょう」


 俺から目をそらさずに、そして、興味もないようにMark110にヴィンセント室長は平坦な声色で命じた。それにかすかに安堵したように、Mark110は席を立つ。そこから、憐れみの視線を感じた。

 足音、そして、ドアが開き、部屋の喧騒、ドアが閉まる音――静寂。


 痛いほどの沈黙に耐えられなくなったのは、俺の方だった。


「しつ……」


 不意に、室長が拍手を始める決して大きな音ではない。柔らかく、そして、無機質なリズムが部屋の中に染み渡っていく。


「いや、見込んだ通りでした。Mark127は、勇敢で。

 そして、わたくしのような凡夫では測れないほどに大胆でいらっしゃる。


 私は、よろしければ……と言ったのみですが、言葉の端から、意図読み解く能力。

 我らの諜報第五室はあなたのような人材を欲しているのですよ。

 

 さて、勧められた紅茶を残すのは、ここではマナーに反するというもの。

 そのまま、飲み干してみてください」


 声色こそ優しいが、異論をはさませないその圧に負けて、再び紅茶を口に運ぶ。

 さっきまでのこの世のものとは思えないほどの甘味は消え、泥水をすすっているほうがましなのではないかというそれを、表情を崩さないように細心の注意をしながら口に運ぶ。


 飲み干す。

 カップの底には、小紋が絵付けされている。


 黒いハートと蜂


 意味を察してしまう。


「MI6へようこそ。一般人君。」


 室長の口角が上がる。そして、部屋に人の気配が生じた。



 3時間後


 

 ドアが開く。

 自然と皆の視線が集まった。

 いつもならば、少しひるむこともある。それに感じ入ることもあるだろうが、それを無視して、自分の机へと向かう。

 憐憫、哀愁、同情。

 ありとあらゆる視線が突き刺さる。

 机の上に、片手に抱えた書類の山を置き、机の引き出しから、万年筆、アメリカ製のオイルライター、分厚い手帳を取り出し、トランクへ詰め込む。


「少しは気を付けた方がいいと言っておくべきだったかな?」


 110の声が、書類の山の先から聞こえる。心配している声色は装っているが、巻き込まれるのはごめんだという感情が、その口調の端々から垣間見える。


「ああ。そうだな。ただ、そのことに気が付いてから後悔しても遅いものだ。それは、わかっていたはずだが……」


「そうだな。だが、必ず死ぬわけではないさ。お前が賭けの代金を払う日を楽しみにしている」


 この困難極まるミッションの内容を110は知る由もないのだろうし、俺は、それを明かしていない。だが、それでもほんのわずかに心が軽くなるのを感じた。

 まとめた荷物を肩に持ち、裏口へと向かう。

 それは、死出のミッションを意味していた。


「では、127が、ここに帰還するか賭けようではないか。」


 Mark12の声が部屋に響く。赦されている、わずかな娯楽の始まり。俺は、ゆっくりと振り返った。


「帰ってくる。絶対に帰ってくるからな」


 振り返らない。足早に合流地点へと向かう。



 これが、俺が変わる切欠となったミッションの始まりと、あの騒がしい場所との離別の始まりであった。

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