イギリス篇 前章1
「女王陛下の名において、我々は君たちがあることを認めよう」 ~UBR憲章 発言者は伏せる~
「ロンドンの観光名所?まずは、MI6本部がおすすめですね。ロンドン市民ならば誰でも知っていますよ」 ~ロンドン観光案内所。
「ええそうです。陛下。MI6本部は、あの怨嗟の声が心地よいロンドン塔にあります」 ~マンスフィールド・カミング MI6の開設にあたり~
紅茶一杯から始まる、地獄もある MI6職員の挨拶
ノッキングテスト。
MI6の職員ならば皆が知っている。MI6に入るための最終試練。
知識、経験、直感、愛国心、忠誠心etc,etc……
数えきれないものを足元に積み上げて、皆、この場所にたどり着きたいと願っている。
優秀と知られているものならば、なおのことだ。
祝福と賞賛。それがMI6にたどり着いたもののみに与えられる称号である。その日だけ、最高級のワインを開け、シャンパンで自らの才と幸運を祝うといい。
MI6を知る者は、皆口をそろえて言う。
「その日だけが、幸せであった」
と。
幸せな夢が覚めたら、なにが始まるのか。
お前も、知っているだろう。
「昔、人間の感覚の鋭さを図る数式を考えたやつがいるらしい」
書類の山の先。静寂の中、ペンとシートと机が濃厚なキスをする音があちこちから聞こてくる。そんな中で、ふっと目の前の書類の山に声をかける。返事はない。だが、そのキスの音が、少しだけ止まった。
「そいつは、人間の鋭さを図るために、どれくらいで、幸福感が消失するのかをテストしたらしい。テストの内容は、残されていないが、俺たちのような手法だったのかもな。そのテストによれば、幸福感が消失するまでに要した時間は、鈍いもので3か月。平均的なもので、1か月。そして、鋭いもので1週間だったらしい」
「それは、ずいぶんと暇な奴がいたものだな。Mark.127。でオチは?」
紙の山の先からは、少しあきれたような声が聞こえた。ゆっくりと肩をすくめた。
「MI6に入ってもうすぐ1か月だが、幸福感が消えたのを感じた。俺は、かろうじて平均よりは上ということだな」
乾いた声で小さく笑った。それに対して、相手も笑ったのがかすかに感じ取れた。
「俺は、3日で幸福感が消えた。そのことを証明できる。つまり、賭けは俺の勝ちだな」
「おい、何か賭けて……」
次の瞬間だった。部屋の音が消えてなくなった。それは、ある種の合図。
そう、厄介ごとがこの部屋に持ち込まれるという合図。
「Mark127。Mark110。少し休憩を淹れよう。紳士たる者、紅茶を愛する時間を持つことも必要だ」
よくとおる声が、俺と、目の前の書類に埋もれている奴の2人を指名する。思わず、書類の山を境にして、お互いに顔を見合わせ、自らが呼ばれたことをようやく理解して、椅子からはじかれたように立ち上がる。
「はい、Mark127。喜んで伺います」
「同じく、Mark110も、同じです」
その視線の先に、サエズ・ロウで仕立てた一寸の隙もないスーツを身にまとい、ロウヤルワラントのブランドで身を固めた紳士が立っていた。
諜報資料室室長 ヴィンセント 別名、紅茶係
「元気がよいのは結構。では、準備ができたらこのドアをノックしたまえ」
室長から、直接声をかけられたことに舞い上がっていたが、Mark110がしたように、わずかな間でも室内を見渡すべきだった。
まあ、後悔というものはやらかしてから気が付くもの。その小さな不注意の群れが、自らに牙をむき襲い掛かってくることなど、この時の俺は、考えていなかったのではあるが。




