史料は語る
前作との時系列を埋める関連資料になります。7000字ほどあります。
1925年 ドイツ内戦
「我々に必要だったものは、何か?
報酬だよ。
あの凄惨な大戦を生き抜いたことに確かに報いることができるだ。
次の戦争が、先の大戦のように凄惨なものにならないよう。あらかじめ戦場に用意されているプレゼント。ああ、そこには、何もなくてもいい。ただ、それが欲しかっただけなのだ。
ドイツはそうなってくれるはずだった」
ミュールーズ条約締結の立案者 (名は削除されている) の言葉とされる
1923年、ドイツ全土にて圧倒的な支持を得て、また、数多の政敵を打倒し結成されたドイツ国民党。それに対して最初の関門として立ちふさがったのは、打倒した敵たちが行った。
捨て身の攻撃だった。
ドイツ北部、ハンブルクで起こったドイツの内乱は、その徒党たちが起こした最初にして最大の攻撃で幕を閉じた。毒ガス。第一次世界大戦終戦後の混乱により廃棄しきれていなかった毒ガスがハンブルクの街を覆った。即座にナチスは救援を向かわせたが現地からの報告は、「完全に汚染され、生存者なし」との簡潔な一文のみであった。
その情報を聞いた列強諸国は、ひそかに安どの声を漏らした。新しき指導者アドルフ・ヒトラーはそこまで有能ではないことがこの一件で明らかになったからである。また、ハンブルクには、ミュールーズ条約時にライン同盟から逃れた超人たちが、ほそぼそした連盟を築いていた。それも、完全に崩壊した。と、調査結果が告げられると、列強諸国は、アドルフ・ヒトラーを指導者として迎え入れることを決定したのである。
この若く、浅く、青く、そして、愚かな指導者はいずれ自らの手でドイツを供物としてささげてくれるだろうと。そのことに、疑いようなどなかった。
「現在のハンブルクに生きているものは存在しません。それは疑いようのない事実です」
1926年1月アドルフヒトラー報告書内容を一言で説明した秘書官の言葉
「我々は、再生の苦しみの最中にある。そのもがいているものをあなた方強者は、躊躇もなく踏みにじろうというのですか?」
1926年2月 ヒルデ外交官 国際連盟にて(一説には、チャーチルに告げたといわれている。)
1930年 フライベルク攻防戦、ミュールーズ条約改定
「考えてみれば、おかしいことはあまりに多かった。我々は、そのおかしいことを危ぶむこともできず、考えることもできなかった。それに気が付くことができたのは僥倖だ。ただ、最悪なのは、気づいたのが、あまりに遅すぎたということだ。」
某年 フィリップ・ペタン フランス陸軍元帥
1928年3月1日、ナチスは領土の復活を国際社会に進言し、フランス以外の賛同を得ます。(この際にどうせ戦後に取り戻せるのだから、そう横着をするなとフランスはイギリスより諫言を受けています)その翌週に、ラインの国境沿いをパトロールしていたドイツの国境警備隊がフライベルク側から攻撃され、この事実に対して、フランス駐留軍に抗議を行いますが、そのような事実はないと一蹴された。そのことは、復興に沸き、国家国民としての誇りを取り戻しつつあったドイツの国民の首都たるベルリンで報じられる。たちまちに沸き起こる感情。それは、フランスへの敵愾心をあらわにし、まるで波のようにドイツに広がっていく。それを抑えられないと判断したナチスは、フライベルクの奪還作戦を立案し、アドルフ・ヒトラーに報じたとされています。
そのわずか1週間後、ドイツ、フランス両軍はラインの河畔に展開し、にらみ合いを行う状況となり、一部で小規模な衝突が発生したとされています。
いつはちきれるかもしれない火薬庫がラインの河畔に誕生したその興奮が欧州を包み、各国は、その行く末を固唾をのみ見守る。それだけが許された行為であり、また残された自由でした。
ただ、その状況は、ものの1週間ほどで解消。無言のうちにフランス駐留軍はフライベルクに撤退し、ドイツ軍も順次自国内へ引き揚げしました。
この戦闘により、フランス駐留軍の中枢は壊滅的な打撃を受けていましたが、その情報はなぜか隠匿され本国に届くことはありませんでした。
また、その失った戦力の中には、来る次の大戦の主力となる、ランドドレッドノート戦術の要である強力な火砲や装甲を装備した最新鋭の強化超人も含まれていましたが、それすらも口上に上ることすらなかったのです。
フランス駐留軍は、なにをどう失ったのか、そして、誰と戦ったのかすらわからないままにその戦いから3か月後には、まるで壊死するように瓦解し、終にはドイツ軍に救援を求める有様になり果てました。その救援を要請を受け、ナチスの援助のもとに何とかフランス国内に退却することができたのでした。
この一件で、フランスでは、ドイツとナチスに同情的な世論が形成され、アドルフ・ヒトラーは戦後初めてパリに招かれ、フランスの大統領とも会談をかわしています。
その結果、ミュールーズ条約改定にこぎつけ、「ドイツが超人を用いた戦術を行った場合には、関係各国は手段を問わずにドイツに攻撃を行う」という条文と、「ドイツは、戦力として超人を利用しない」という条文を除き、他の条文の無効化を行いました。
「謙虚だ」
フランス大統領
「いまだ弱きドイツが、あなた方列強の皆様方に願えることと言えば、我らとあなた方との衝突が起きず、穏やかにこの時代を終えることができることくらいでしょう。故に、我ら弱者が授けられるものと言えばこのような戒めくらいしかありません。この戒めの元、ドイツは、あなた方列強の皆様方が平穏のうちに終えられるように。心から祈念差し上げるのみです。」
アドルフ・ヒトラーのものとされる言葉
「弱者の皮をかぶった強者なら分かる。強者の皮をかぶった怪物ならば理解できる。ただ、アドルフ・ヒトラーという理解不能なものが、この人間の世界に落ちてきた。だが、我々がそれに気が付くのは、10年近く遅れたのだ。当然対処も。」
チャーチルの言葉とされる
「見られている。我々の行動はすべて見られている。昨日、ポーカーで少しイカサマをした。ハートのジャックをクイーンに入れ替えただけだ。俺はただ勝ちを誰かに譲っただけだ。なぜそれで、俺は、夜に責められないといけない?お前か?お前がノイバーベルクの亡霊なのか!?お前のせいで――お」
射殺される前のフライベルク防衛隊生き残りの尋問。当時としては貴重な音声資料。
「我々は、今過去の大戦から自らを省み、
身を起こそうとするドイツこそが、我らの祖の顕れと考えております」
あるバチカン市国の枢機卿
「知恵の泉は天にある」
発言者不明
補記 ランドドレッドノート思想
「あれは、狂気であった」
MI6軍事情報統括部長 (名は伏す)
「超人に人類のさらなる忠誠を、人類に超人のさらなる祝福を。」
発言者不明
「ああ、なんとも強く、なんとも浅慮な人の考えそうなこと」
発言者不明
第一次世界大戦。その戦いを終えることができたのは、人の手によるものではない。超人の手によるものだった。戦場で魅せた人間を超えた能力を持つ超人。その力をさらに確固たるものとするために、一部の列強諸国は、国家に忠誠を誓った超人たちを軍隊の規律性、合理性を兼ね備えた存在へと定義しなおすための多くの試策を行った。第二次世界大戦前夜にヨーロッパを席巻した『ランドドレッドノート戦術』はその中でも最も有名な者であろう。
海軍における、駆逐艦、巡洋艦、戦艦の思想を陸軍に適用し、超人をその能力に応じて、区分分けを行い、戦場に投入する。個人が運搬できないような火砲、装備を戦車をもものともしない超人が運用することで、効率的な部隊運用並びに作戦行動を可能とする。
これが、ランドドレッドノート戦術の要であり、フランスで作成された第一号『トリステン』の作戦能力を見た多くの列強がこの思想になびいたのは、一概に非難されるものではないだろう。
1930年代までの日本の状況
「為るようにしか、為らず。為らないようにも、為らず。為らぬように、為るのみなり。」
徳川 慶安(第19代徳川幕府将軍。また、初代近衛師団長)
「為らぬのならば。ただ、事を斬って差し上げましょう」
老一願
東洋における一大国家となっていた大日本帝国は、中国北東部満州での活動を本格化させつつあった。そこには、上海徳川租界から移り住んだ、満州徳川団の活躍もあったとされる。北京から亡命してきた清国の皇族を保護に成功したことで、名実を得た大日本帝国は水面下で満州独立の工作を開始。満州徳川団は、未来の皇帝となる少年の近衛師団として再編された。
1931年。わずかな間の平穏ののちに、満州事変が勃発し、大日本帝国は中国全土の軍閥を敵に回し、日中戦争へ突入した。
1932年。皇帝溥儀が即位。満州国と名を改めた。しかし、誰から見ても、傀儡政権であることは明らかで、国際社会からは非難を浴びることになる。
「皇帝。それすなわち、天皇陛下の関白なり。
それすなわち、替えなどいくらでも効くということだ。本国の達しがあれば、いつでも挿げ替えて見せよう」
石原莞爾の言葉とされている仔細不明。
「事は奇なり。ただ、還るべくして、是に還る。成るべくして、之に成る。事有るまで、地に臥せ、幾らでも待つ所存にて候」
西郷 高盛(西郷隆盛の子孫で徳川慶安の懐刀)の言葉とされる仔細不明。
「徳川幕府は、一度確かに滅びた。これは疑いようのない歴史的事実である。
しかし、その消滅の背後で、密かに再興の準備を進めていた。その過程は沈黙と持続、そして目的意識によって支えられ、やがて国際社会が困惑と驚愕をもって迎え入れる形で、歴史の表舞台へと再び姿を現すことになる。
本書の目的は、この「断絶」と「再生」の歴史的連続性を明らかにすることにある。徳川再興は偶発的な歴史現象でも、懐古的情緒の産物でもない。それは、政治的意思、社会構造、宗教観、そして時代精神が複雑に絡み合う中で実現した、一つの必然的帰結であった可能性がある。
近代史研究において、制度の崩壊後に再び復活する国家体系は極めて稀である。ゆえに徳川再興という事例は、単に日本史の特殊性として片付けるべきではなく、比較政治史・国家形成論・宗教社会学の観点からも重要な研究対象となる。
本書では、一次史料および当時の外交文書、各国情勢との相互参照を通して、この再興過程を可能な限り精確に復元する試みを行う。
まずは、歴史を遡るところから始めたい。
その歩みは長く、必ずしも直線的ではない。しかし、本書を通じ、読者諸氏が徳川再興という歴史現象を、新たな視座から理解する手助けとなれば幸いである」
『徳川再興紀』 序文
宗教学者ヴィレッス・アントニオ・マリーデの日記
1930年2月14日
アメリカから始まった経済恐慌の波が世界を覆いつくす中、ドイツ国内は、静けさを保っている。通りから聞こえる人の声は穏やかで、ここが経済的な苦境にさらされているとは思えない。
配給は滞りなく行われており、小さな混乱も生じないように秩序だった行動を皆が行っている。
労働を求める人の群れがトラックに押し詰められてピストンで輸送されていくのを窓より見る。この不況の中に、これだけの人員を必要とする仕事など想像もつかない。だが、私の問いが答えられることは終ぞなかった。
皆貧しく、押し黙り、沈黙を貫いている。だが不思議と、その目に不安を感じることはない。
ドイツの先の大戦の戦後は終わった。
そう誰もが言えるほどに、それは確かなことであろう。だが、今のドイツは、元のドイツの延長線上にあるのだろうか。私は、そうは思わない。
何かおぞましいものに変わった気がしてならない。
近くの教会の十字架は、金属製のものは取り払われ、木製のものに変わっている。それに祈りをささげる光景は変わっていないが、そこには、キリストの教えではないほかの何かを感じる。
あの子供は、なんと言いたかったのだろう。教会から出てきた、神父を見るなり、「――様」と言いながら駆け寄っていった。その言葉を聞いた神父は、ハシバミの枝を持ちながら、困った顔で子供たちを見て、
確かに私に敵愾心のあるような視線を向けていた。
明日。私はここを発つ。このことは、早めに報告をした方がよさそうだ。
明日は早いというのに、今日は風が強いのか、ドアが激しく鳴っている。
おそらく窓を閉め忘れているのだろう。安宿だから仕方ないが、うるさくて仕方がない。
廊下の窓を閉めてから寝ることにしよう。
フライベルク警察 事件処理番号 第――号報告
2月14日深夜 ――ホテルにて小火発生。逃げ遅れた神秘宗教学者、バチカン査問補佐官。言語学者――が窓から転落して死亡。2月15日未明 ――中央病院に遺体を搬送する。
1936年 ポーランド分裂
世界恐慌の影響が、深刻化し、列強を含む国々が苦境にあえぐ中。大きくその勢力を躍進させた国がある。
『ソビエト連邦』である。共産主義への転換により世界恐慌の影響をほとんど受けなかったその国は、広大なロシアの地より生まれ来る多くの超人をその政治体制に組み込むことに成功し、労働者たちは、それによく奉仕した。
やがて、小国が世界恐慌と政治不信に苦しむ中で、共産主義の赤い波が、ヨーロッパを席巻し始める。
各国の政党の中には、共産主義の旗を掲げるものが増え始め、選挙においても、ソビエト連邦の行動の正しさを盾にしながら順調に議席を増やし始めていた。
特にその影響力の拡大は、東欧諸国において顕著で、ソビエト連邦と国境を接するポーランドは、先の総選挙にて議会の過半数を共産主義的な勢力が握り、ソビエト連邦との軍事同盟締結を大統領に進言。
大統領はこれを認めず、これに反発した議員と国民の一部が大統領の罷免を求めクーデターを画策。ソビエト連邦から秘密裏に強化超人を国内に招き入れ、1937年大統領の罷免を求めるデモ隊が、大統領府を包囲する事態に発展。
これを戦争の火種と見た列強諸国は、ドイツに事態の収拾を図るように指示。ドイツは、表向きは、止むなく受け入れた。
1938年9月1日 ドイツによるポーランド侵攻開始。電撃戦により、瞬く間にポーランドの西側を開放。
1938年9月17日 ソビエト連邦がポーランド内の国民の救助を口実に参戦。ポーランドの東側を占拠。
1938年10月1日 ドイツとソビエト連邦で停戦合意。国際社会特にフランスは、ドイツを激しく非難。
1939年1月2日 フランス、ドイツの国境を侵食。ライン会戦が勃発。
歴史書においては、第二次世界大戦の会戦は、ポーランド侵攻かライン会戦かで意見が割れるところではあるが、ここでは、ライン会戦をもって第二次世界大戦がはじまったとしている。
「何かがおかしい。それが、『何か』は、わからない」
イギリス戦略情報部
「ドイツの行ったことは、明らかな国際法違反で、ベルサイユ条約における停戦合意の破棄である。
我々からの忠告として、ドイツは今すぐポーランドから撤退し、違約金の準備をおこなうべきである」
フランスの某外交官 国際連盟議場にて
「我々は、皆様の慈悲に沿う弱者としてこの行動を行ったまでです。ポーランドの分割統治は結果として為っただけのこと。命じたことに責任も持てないというのは、強者としてあるまじき失態とドイツは考えるが。いかがか」
ヒルデ外交官の言葉とされる
1939年1月2日 ライン会戦
ミュールーズに集められたフランスの戦力は、超人戦力5千人を含む5万。ライン河をはさみ相対するドイツ軍は3万。
この戦いがどちらの攻撃で始まったのかは定かではないが、その戦闘ログは当時としては、克明に記されている。
7:02 フランス軍3か国橋に進軍を開始する。その行動に対して、ドイツ軍は砲撃と突撃をもって対応。20分後、3か国橋上での戦闘は膠着状態に陥る。
7:40 フランス軍武器貯蔵庫で爆発が発生。おそらく、ドイツ軍の砲弾が偶然被弾したものと考えられる。
7:50 フランス軍超人部隊の戦場への投入を決定。先遣隊として500人の超人が三か国橋に進撃を開始。
9:00 今日4度目のフランス軍武器貯蔵庫で爆発が発生。
10:00 後方に集結した部隊野営地にて爆発が発生。死傷者多数。指揮官も負傷。3か国橋に展開した超人5000人のうち3000人が負傷が原因で戦線を離脱。
ドイツ兵は、3か国橋の対岸に強固な防衛線を構築。絶え間なく、フランス軍残党に攻撃。
13:04 ドイツ軍移動開始。3か国橋を占拠。フランス軍撤退を開始。
14:44 フランス軍ミュールーズ近辺まで撤退。1月2日の戦闘終了。
1月3日 ドイツ軍ミュールーズ包囲開始。まずは、外部につながる交通網。主に鉄道網を徹底的に破壊する。3日もすればフランス軍は音を上げることになるだろう。
1月5日 ドイツ軍本体ベルギーのリエージュ攻略作戦。リエージュ降伏。
新生シェリーフェンプラン開始
1月10日 ベルギー政府1月中のドイツがリエージュより南の地域を通過することを許可。ドイツと不戦条約を締結。
同日 ミュールーズ陥落
1月15日 ドイツ軍フランス侵攻を本格化。
1月28日 ドイツ主軍ベルギー越境を終了。
「なにもない空の果てから雷が……雷がこっちに向かって落ちてきた。雲一つなかったていうのに。神は、俺たちを罰しようとしているのか」
フランス軍の数少ない生き残りの言葉
「あれは、憎しみの進軍だった。復讐の進軍だった。そして、歓喜の進軍であった」
マンシュタイン陸軍大将
「なぜ、うまくいかない。なぜ倒される」
フランス陸軍作戦統括官
「あの違和感の正体がようやく明らかになった。だが、それは霧の中にあるようにぼやけている。必要とされる情報がかけている。
何か、切欠をつかまなければ。
我らはたやすく負けるぞ。」
MI6の長官の言葉とされる。子細不明
ハーケンクロイツの鉤爪が、雄鶏の喉笛を切り裂いた。 ~1939年3月1日パリ陥落時のイギリスの新聞~




