表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

雛と風のあいだで

作者: 真野真名
掲載日:2025/10/16



 夜を越えた部屋の空気は、かすかに重かった。


 机の上には、書きかけのキャッチコピー。


 “もう戻らない、だから美しい”


 それを書いたのが何時間前だったか思い出せない。


 彼女の最後のメッセージを見たのは、たぶん午前二時。それから眠れずに、机に突っ伏して夜をやり過ごした。


 カーテンの隙間から、薄い光が床に伸びていた。


 風の音がした。

 ベランダの方で、何かがかすかに動く気配。


 外に出ると、古びた鉢植えの脇に、小さなかたまりがあった。

 まだ羽もまばらなスズメの雛。

 丸まった体が、時おり小さく震えている。


 どうしてここに。


 見上げると、ベランダのひさしに、壊れかけた巣のようなものが見えた。

 たぶん、風にあおられて落ちたのだろう。


 手のひらを近づけると、雛は弱々しく首を動かした。目はまだ開ききっていない。


 掌に伝わる温度は、重さの記憶を持たないほど軽かった。


 このまま放っておいたら、きっと死ぬ。

 けれど、拾って育てるなんてこと、できるのだろうか。

 ふと、胸の奥で何かがざらりと動いた。


 失ったものを埋め合わせるような、危うい衝動。


 段ボール箱を引っ張り出し、古いタオルを敷いた。

 小さな体をそっとその上に置く。

 雛はかすかに声をあげた。


 細い、糸のような鳴き声だった。


 台所でおかゆを作り、割り箸の先で少しずつ口元に運ぶ。

 食べることを知らないのか、最初は口を閉ざしていたが、

 数度試すうちに、やがてちいさな舌が動いた。


 息を吐く。


 その音が、部屋の静寂をやけに震わせた。


 仕事の連絡が鳴るスマートフォンを、机に伏せる。

 この朝に、言葉を考えることはできそうになかった。

 代わりに、箱の中でかすかに動く命を見つめる。


 その瞬間、空の奥からスズメの鳴き声が降ってきた。

 雛はそれに反応して、首を上げようとした。

 その仕草が、どうしようもなくいとおしかった。


 ──失ったものの重さと、新しく生まれるものの軽さ。

 その二つのあいだに、静かに朝が広がっていた。




 朝の光が、箱の縁をなぞっていた。

 雛は、昨日より少しだけしっかりと首を持ち上げている。

 息を吸うたびに、小さな胸が上下するのが見えた。


 私はコーヒーを淹れ、湯気をぼんやりと眺める。

 夜のあいだ、何度か目を覚ましては雛の様子を見た。

 灯りを落とした部屋の中で、かすかに動くその影を見るたびに、胸の奥の空洞が少しだけ音を立てて埋まっていくような気がした。


 午前九時、会社からメッセージが届く。


 >午後の打ち合わせ、参加できますか?<


 指先が止まる。返事を書く代わりに、箱の中を覗いた。

 雛は、まだ眠っている。

 その姿を見ていたら、どうでもよくなった。


「体調不良で休みます」とだけ打ち、スマートフォンを伏せた。


 会社のデスクで、いつも無理にひねり出していた言葉たちが、今日はまるで遠い国の言語のように感じられた。


 昼過ぎ、外は風が強くなった。

 ベランダの鉢が揺れて、カランと音を立てる。

 雛は驚いたように鳴いた。

 その声に応えるように、遠くで本物のスズメたちがさえずった。


 私は洗濯物を取り込みながら、ふと笑っていた。

 笑うのが久しぶりだと気づく。


 頬の筋肉が少しぎこちなかった。


 午後、スーパーに行ってミルワームと注射器を買った。


 「ペット用ですか?」と聞かれて、一瞬ためらい、

 「ええ、まあ……」と曖昧に答える。


 帰り道、紙袋の中で乾いた音がした。

 この小さな生き物を生かすための道具を抱えていることが、なぜか自分を支えてくれているように感じた。


 部屋に戻ると、雛は眠たげに目を瞬かせた。

 注射器でぬるま湯を一滴、くちばしに落とす。


 喉がかすかに動いた。

 その小さな仕草に、息をするのを忘れるほど見入ってしまう。


 私は思った。

 こんなにも小さな命を前にすると、人間の感情なんて

 驚くほど不器用で、大げさなものに思えてくる。


 夜、作業机の上にノートを広げた。

 新しいコピーの案を書こうとして、ペンが止まる。

 頭の中に浮かぶのは、言葉ではなく呼吸のリズムだった。


 “生きる音”


 そう書いてみたが、すぐに線を引いて消した。


 ベランダの向こうで、夜風が鳴っている。

 雛の箱の中から、小さな寝息が聞こえる。

 それを聞いているうちに、自分の呼吸が、その音とゆっくり重なっていくのを感じた。


 気づけば、深夜。

 窓の外には、街の明かりが遠くにちらついていた。

 何かが始まる気配も、終わる予感もない。

 ただ、今この瞬間の静けさが、

 いつか思い出になるような気がしていた。




 昼下がりの光は、いつもより柔らかかった。

 雛の羽に、かすかに色がつき始めている。

 まだ飛ぶには遠いが、箱の中で跳ねるように動くことが増えた。


 私は机に向かい、ぼんやりとパソコンの画面を眺めていた。

 メールの受信ボックスには、会社からの催促がいくつも並んでいる。


 >明日までに案を三本<

 >クライアント確認あり<


 それを読むたびに、どこか別の世界の出来事のように思えた。


 マウスを握る手の先で、箱の中の雛が鳴いた。


「ピ、ピ」


 空気が微かに揺れるほどの小さな声。


 私はマウスを離し、そっと覗き込む。

 黒くなり始めた瞳が、まっすぐこちらを見ていた。


「腹が減ったのか?」


 そう呟きながら注射器を手に取る。

 ミルワームを潰して混ぜた餌を一滴、口元に落とすと、雛は素早く飲み込んだ。


 その一連の動きが、なぜだか胸の奥に静かな波紋を広げた。


 午後、ベランダに出る。

 雛を手のひらに乗せて、風にあててやる。

 羽の間を通る風の感触に、雛は目を細めた。

 私はその表情を見て、ふと彼女の笑顔を思い出した。


 ──あの夏、同じように風を感じながら、「スズメって、目のところがかわいいよね」と彼女は言った。


 そのとき、私はどう返したのだったか。

 思い出せない。

 記憶は、いつも肝心なところで途切れている。


 部屋に戻ると、机の上に未開封の封筒があった。

 先週、彼女から届いた手紙。

 別れ際に「もう連絡はしない」と言っていたのに。

 封を切らずにいたのは、怖かったからだ。

 開けた瞬間に、過去が確定してしまう気がしていた。


 けれど、その夜は違った。

 雛が箱の中で眠るのを確認してから……私は静かに封を切った。


 中には、短い文が並んでいた。



 あなたの言葉に救われたこと、たくさんありました。

 それでも、いまのあなたとは一緒にいられない。

 ごめんなさい。

 どうか、ちゃんと食べて、ちゃんと眠ってください。



 読み終えると、何かが胸の奥で静かに折れる音がした。


 涙は出なかった。


 ただ、長い間止まっていた時間が、少しだけ動き出すのを感じた。


 窓の外で、スズメの群れが夕暮れを横切っていった。

 その中に、いつかこの雛も加わるのだろうか。


 夜更け、ノートを開く。

 何も書けないまま、ページだけが増えていく。

 言葉よりも先に、沈黙が広がる。

 けれどその沈黙の中に、かすかに温度がある気がした。


 箱の中の雛が寝返りを打つ。

 その音が、夜の底をやわらかく撫でた。




 夜が深くなるにつれて、部屋の空気は透明になっていった。


 窓を少し開けると、冷たい風がカーテンを揺らす。

 その風に反応するように、箱の中の雛が羽をばたつかせた。


 最近、雛はよく羽ばたきの真似をするようになった。

 まだ飛べないけれど、風を感じるたびに、

 その体が本能的に動く。


 その音が、眠れない夜の私の耳に、心地よく響いた。


 パタ、パタ、と頼りなくも規則的な羽音。


 そのたびに、部屋の中の沈黙が柔らかくほどけていく。


 私は机の上で手を止めた。

 久しぶりに、コピーの案を考えていた。

 けれど、何度書いても、言葉がどこか乾いている。

 頭の中に浮かぶのは、羽音と呼吸の音ばかりだった。


 ──もう少しで、飛べるのかもしれない。

 そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 自分でも驚くほど、この小さな生き物の存在に支えられていたことに気づいた。

 この部屋の静けさは、もうひとりきりの静けさではなかった。


 午後、窓辺に雛を乗せた。

 風が強く、空はうっすらと茜色を残していた。

 雛は、外の世界を眺めるようにじっとしている。

 その目の奥に、かすかな光が宿っていた。


「もうすぐ、行くんだな」


 声に出してみると、言葉が自分の口から離れるような感覚があった。


 あの別れの日も、きっとこんな風だったのかもしれない。

 互いに何も言わず、ただ風の音だけを聞いていた。

 言葉にしないまま、終わりを受け入れるしかなかった。


 夜、雛が小さく鳴いた。

 その声が、まるで呼ばれたように感じて、私はそっと箱を覗き込む。

 雛は羽を広げ、暗がりの中で懸命に打ち付けていた。

 その姿は、どこか苦しそうで、そして美しかった。


 窓を開け、手のひらを差し出す。

 雛を乗せると、体が小さく震えているのが伝わる。


 外の風が頬をなでた。

 街の灯りが遠くで瞬いていた。


「まだ早いよ」

 そう言いながら、自分が何に向かってそう言っているのか、よく分からなかった。


 雛を箱に戻し、灯りを落とす。

 羽音がしばらく続いて、それから静かになった。

 私はベッドの上で目を閉じる。


 夢の中で、誰かが笑っていた。

 それが彼女なのか、雛なのか、自分自身なのか……もう区別がつかなかった。


 朝が近づくころ、

 部屋の奥で小さな羽ばたきの音がした。

 それはまるで、別れの予告のように優しい音だった。




 夜明け前の空は、薄く青く、まだ夢の続きのようだった。

 窓を開けると、冷たい風が部屋の隅々に流れ込んだ。


 その風に誘われるように、箱の中の雛が動く。

 小さく羽ばたき、眠たげな目をこすっている。


 ここ数日で、羽はすっかり茶色に変わった。

 くちばしの先も硬くなり、鳴き声には力がある。

 もう、餌を与えなくても、自分で小さな虫をついばむようになっていた。


 私はコーヒーを淹れながら、台所の時計をぼんやりと見つめた。

 時間というものが、ここ二週間でようやく戻ってきた気がした。

 彼女と別れたあの日から、止まっていたもの。

 それが、雛の呼吸と一緒に少しずつ動き出していたのだ。


 ベランダに出る。

 空は明るみ始めていて、遠くの電線にはスズメたちの影が並んでいる。

 その鳴き声に、雛が反応した。

 羽を広げ、体を小さく震わせる。


「行くか」


 声に出すと、胸の奥が少し痛んだ。


 それでも私は、ゆっくりと両手を差し出した。

 雛は迷うように一度こちらを見て、

 次の瞬間、羽ばたいた。


 ひゅっ、と風を切る音がした。

 羽が光を受け、朝の空へと吸い込まれていく。


 その姿は、小さく、そして驚くほどまっすぐだった。


 私はしばらく、空を見上げたまま動けなかった。

 風が頬を撫で、髪を揺らす。

 指先には、まだほんのりと温もりが残っていた。


 部屋に戻ると、机の上のノートが開いたままだった。

 昨夜書いた言葉が目に入る。


 “生きる音”


 何度も消して、また書いて、ようやく残った文字。

 それを見て、ゆっくりと笑った。


 窓の外では、スズメたちの鳴き声が一段と強くなる。

 その中に、あの雛の声も混ざっている気がした。


 私はペンを取って、ページをめくる。

 新しい朝の光が、紙の上を滑る。


 言葉はまだ見つからない。

 けれど、もう焦りはなかった。

 この静けさの中で、何かがようやく始まろうとしていた。


 ベランダの隅に、雛が落ちていた羽が一枚、風に揺れていた。


 それを拾い上げ、机の上に置く。

 その小さな羽が、光を受けてかすかに震えた。


 その震えが、どこかで自分の心の鼓動と重なる。


 空はもうすっかり朝になっていた。

 遠くで、スズメの群れが飛び立つ。

 その中に、あの雛が混ざっている気がした。


 私は小さく息を吸い……静かに笑った。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ