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雛と風のあいだで

作者: 真野真名



 夜を越えた部屋の空気は、かすかに重かった。


 机の上には、書きかけのキャッチコピー。


 “もう戻らない、だから美しい”


 それを書いたのが何時間前だったか思い出せない。


 彼女の最後のメッセージを見たのは、たぶん午前二時。それから眠れずに、机に突っ伏して夜をやり過ごした。


 カーテンの隙間から、薄い光が床に伸びていた。


 風の音がした。

 ベランダの方で、何かがかすかに動く気配。


 外に出ると、古びた鉢植えの脇に、小さなかたまりがあった。

 まだ羽もまばらなスズメの雛。

 丸まった体が、時おり小さく震えている。


 どうしてここに。


 見上げると、ベランダのひさしに、壊れかけた巣のようなものが見えた。

 たぶん、風にあおられて落ちたのだろう。


 手のひらを近づけると、雛は弱々しく首を動かした。目はまだ開ききっていない。


 掌に伝わる温度は、重さの記憶を持たないほど軽かった。


 このまま放っておいたら、きっと死ぬ。

 けれど、拾って育てるなんてこと、できるのだろうか。

 ふと、胸の奥で何かがざらりと動いた。


 失ったものを埋め合わせるような、危うい衝動。


 段ボール箱を引っ張り出し、古いタオルを敷いた。

 小さな体をそっとその上に置く。

 雛はかすかに声をあげた。


 細い、糸のような鳴き声だった。


 台所でおかゆを作り、割り箸の先で少しずつ口元に運ぶ。

 食べることを知らないのか、最初は口を閉ざしていたが、

 数度試すうちに、やがてちいさな舌が動いた。


 息を吐く。


 その音が、部屋の静寂をやけに震わせた。


 仕事の連絡が鳴るスマートフォンを、机に伏せる。

 この朝に、言葉を考えることはできそうになかった。

 代わりに、箱の中でかすかに動く命を見つめる。


 その瞬間、空の奥からスズメの鳴き声が降ってきた。

 雛はそれに反応して、首を上げようとした。

 その仕草が、どうしようもなくいとおしかった。


 ──失ったものの重さと、新しく生まれるものの軽さ。

 その二つのあいだに、静かに朝が広がっていた。




 朝の光が、箱の縁をなぞっていた。

 雛は、昨日より少しだけしっかりと首を持ち上げている。

 息を吸うたびに、小さな胸が上下するのが見えた。


 私はコーヒーを淹れ、湯気をぼんやりと眺める。

 夜のあいだ、何度か目を覚ましては雛の様子を見た。

 灯りを落とした部屋の中で、かすかに動くその影を見るたびに、胸の奥の空洞が少しだけ音を立てて埋まっていくような気がした。


 午前九時、会社からメッセージが届く。


 >午後の打ち合わせ、参加できますか?<


 指先が止まる。返事を書く代わりに、箱の中を覗いた。

 雛は、まだ眠っている。

 その姿を見ていたら、どうでもよくなった。


「体調不良で休みます」とだけ打ち、スマートフォンを伏せた。


 会社のデスクで、いつも無理にひねり出していた言葉たちが、今日はまるで遠い国の言語のように感じられた。


 昼過ぎ、外は風が強くなった。

 ベランダの鉢が揺れて、カランと音を立てる。

 雛は驚いたように鳴いた。

 その声に応えるように、遠くで本物のスズメたちがさえずった。


 私は洗濯物を取り込みながら、ふと笑っていた。

 笑うのが久しぶりだと気づく。


 頬の筋肉が少しぎこちなかった。


 午後、スーパーに行ってミルワームと注射器を買った。


 「ペット用ですか?」と聞かれて、一瞬ためらい、

 「ええ、まあ……」と曖昧に答える。


 帰り道、紙袋の中で乾いた音がした。

 この小さな生き物を生かすための道具を抱えていることが、なぜか自分を支えてくれているように感じた。


 部屋に戻ると、雛は眠たげに目を瞬かせた。

 注射器でぬるま湯を一滴、くちばしに落とす。


 喉がかすかに動いた。

 その小さな仕草に、息をするのを忘れるほど見入ってしまう。


 私は思った。

 こんなにも小さな命を前にすると、人間の感情なんて

 驚くほど不器用で、大げさなものに思えてくる。


 夜、作業机の上にノートを広げた。

 新しいコピーの案を書こうとして、ペンが止まる。

 頭の中に浮かぶのは、言葉ではなく呼吸のリズムだった。


 “生きる音”


 そう書いてみたが、すぐに線を引いて消した。


 ベランダの向こうで、夜風が鳴っている。

 雛の箱の中から、小さな寝息が聞こえる。

 それを聞いているうちに、自分の呼吸が、その音とゆっくり重なっていくのを感じた。


 気づけば、深夜。

 窓の外には、街の明かりが遠くにちらついていた。

 何かが始まる気配も、終わる予感もない。

 ただ、今この瞬間の静けさが、

 いつか思い出になるような気がしていた。




 昼下がりの光は、いつもより柔らかかった。

 雛の羽に、かすかに色がつき始めている。

 まだ飛ぶには遠いが、箱の中で跳ねるように動くことが増えた。


 私は机に向かい、ぼんやりとパソコンの画面を眺めていた。

 メールの受信ボックスには、会社からの催促がいくつも並んでいる。


 >明日までに案を三本<

 >クライアント確認あり<


 それを読むたびに、どこか別の世界の出来事のように思えた。


 マウスを握る手の先で、箱の中の雛が鳴いた。


「ピ、ピ」


 空気が微かに揺れるほどの小さな声。


 私はマウスを離し、そっと覗き込む。

 黒くなり始めた瞳が、まっすぐこちらを見ていた。


「腹が減ったのか?」


 そう呟きながら注射器を手に取る。

 ミルワームを潰して混ぜた餌を一滴、口元に落とすと、雛は素早く飲み込んだ。


 その一連の動きが、なぜだか胸の奥に静かな波紋を広げた。


 午後、ベランダに出る。

 雛を手のひらに乗せて、風にあててやる。

 羽の間を通る風の感触に、雛は目を細めた。

 私はその表情を見て、ふと彼女の笑顔を思い出した。


 ──あの夏、同じように風を感じながら、「スズメって、目のところがかわいいよね」と彼女は言った。


 そのとき、私はどう返したのだったか。

 思い出せない。

 記憶は、いつも肝心なところで途切れている。


 部屋に戻ると、机の上に未開封の封筒があった。

 先週、彼女から届いた手紙。

 別れ際に「もう連絡はしない」と言っていたのに。

 封を切らずにいたのは、怖かったからだ。

 開けた瞬間に、過去が確定してしまう気がしていた。


 けれど、その夜は違った。

 雛が箱の中で眠るのを確認してから……私は静かに封を切った。


 中には、短い文が並んでいた。



 あなたの言葉に救われたこと、たくさんありました。

 それでも、いまのあなたとは一緒にいられない。

 ごめんなさい。

 どうか、ちゃんと食べて、ちゃんと眠ってください。



 読み終えると、何かが胸の奥で静かに折れる音がした。


 涙は出なかった。


 ただ、長い間止まっていた時間が、少しだけ動き出すのを感じた。


 窓の外で、スズメの群れが夕暮れを横切っていった。

 その中に、いつかこの雛も加わるのだろうか。


 夜更け、ノートを開く。

 何も書けないまま、ページだけが増えていく。

 言葉よりも先に、沈黙が広がる。

 けれどその沈黙の中に、かすかに温度がある気がした。


 箱の中の雛が寝返りを打つ。

 その音が、夜の底をやわらかく撫でた。




 夜が深くなるにつれて、部屋の空気は透明になっていった。


 窓を少し開けると、冷たい風がカーテンを揺らす。

 その風に反応するように、箱の中の雛が羽をばたつかせた。


 最近、雛はよく羽ばたきの真似をするようになった。

 まだ飛べないけれど、風を感じるたびに、

 その体が本能的に動く。


 その音が、眠れない夜の私の耳に、心地よく響いた。


 パタ、パタ、と頼りなくも規則的な羽音。


 そのたびに、部屋の中の沈黙が柔らかくほどけていく。


 私は机の上で手を止めた。

 久しぶりに、コピーの案を考えていた。

 けれど、何度書いても、言葉がどこか乾いている。

 頭の中に浮かぶのは、羽音と呼吸の音ばかりだった。


 ──もう少しで、飛べるのかもしれない。

 そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 自分でも驚くほど、この小さな生き物の存在に支えられていたことに気づいた。

 この部屋の静けさは、もうひとりきりの静けさではなかった。


 午後、窓辺に雛を乗せた。

 風が強く、空はうっすらと茜色を残していた。

 雛は、外の世界を眺めるようにじっとしている。

 その目の奥に、かすかな光が宿っていた。


「もうすぐ、行くんだな」


 声に出してみると、言葉が自分の口から離れるような感覚があった。


 あの別れの日も、きっとこんな風だったのかもしれない。

 互いに何も言わず、ただ風の音だけを聞いていた。

 言葉にしないまま、終わりを受け入れるしかなかった。


 夜、雛が小さく鳴いた。

 その声が、まるで呼ばれたように感じて、私はそっと箱を覗き込む。

 雛は羽を広げ、暗がりの中で懸命に打ち付けていた。

 その姿は、どこか苦しそうで、そして美しかった。


 窓を開け、手のひらを差し出す。

 雛を乗せると、体が小さく震えているのが伝わる。


 外の風が頬をなでた。

 街の灯りが遠くで瞬いていた。


「まだ早いよ」

 そう言いながら、自分が何に向かってそう言っているのか、よく分からなかった。


 雛を箱に戻し、灯りを落とす。

 羽音がしばらく続いて、それから静かになった。

 私はベッドの上で目を閉じる。


 夢の中で、誰かが笑っていた。

 それが彼女なのか、雛なのか、自分自身なのか……もう区別がつかなかった。


 朝が近づくころ、

 部屋の奥で小さな羽ばたきの音がした。

 それはまるで、別れの予告のように優しい音だった。




 夜明け前の空は、薄く青く、まだ夢の続きのようだった。

 窓を開けると、冷たい風が部屋の隅々に流れ込んだ。


 その風に誘われるように、箱の中の雛が動く。

 小さく羽ばたき、眠たげな目をこすっている。


 ここ数日で、羽はすっかり茶色に変わった。

 くちばしの先も硬くなり、鳴き声には力がある。

 もう、餌を与えなくても、自分で小さな虫をついばむようになっていた。


 私はコーヒーを淹れながら、台所の時計をぼんやりと見つめた。

 時間というものが、ここ二週間でようやく戻ってきた気がした。

 彼女と別れたあの日から、止まっていたもの。

 それが、雛の呼吸と一緒に少しずつ動き出していたのだ。


 ベランダに出る。

 空は明るみ始めていて、遠くの電線にはスズメたちの影が並んでいる。

 その鳴き声に、雛が反応した。

 羽を広げ、体を小さく震わせる。


「行くか」


 声に出すと、胸の奥が少し痛んだ。


 それでも私は、ゆっくりと両手を差し出した。

 雛は迷うように一度こちらを見て、

 次の瞬間、羽ばたいた。


 ひゅっ、と風を切る音がした。

 羽が光を受け、朝の空へと吸い込まれていく。


 その姿は、小さく、そして驚くほどまっすぐだった。


 私はしばらく、空を見上げたまま動けなかった。

 風が頬を撫で、髪を揺らす。

 指先には、まだほんのりと温もりが残っていた。


 部屋に戻ると、机の上のノートが開いたままだった。

 昨夜書いた言葉が目に入る。


 “生きる音”


 何度も消して、また書いて、ようやく残った文字。

 それを見て、ゆっくりと笑った。


 窓の外では、スズメたちの鳴き声が一段と強くなる。

 その中に、あの雛の声も混ざっている気がした。


 私はペンを取って、ページをめくる。

 新しい朝の光が、紙の上を滑る。


 言葉はまだ見つからない。

 けれど、もう焦りはなかった。

 この静けさの中で、何かがようやく始まろうとしていた。


 ベランダの隅に、雛が落ちていた羽が一枚、風に揺れていた。


 それを拾い上げ、机の上に置く。

 その小さな羽が、光を受けてかすかに震えた。


 その震えが、どこかで自分の心の鼓動と重なる。


 空はもうすっかり朝になっていた。

 遠くで、スズメの群れが飛び立つ。

 その中に、あの雛が混ざっている気がした。


 私は小さく息を吸い……静かに笑った。




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