警告
俺は平坂透、三十歳。無職歴がそこそこ長くなり、貯金は心もとない。転職活動を本腰でやる気も起きず、少しでも出費を抑えようと格安物件に引っ越すことにした。
家賃五千円、築四十年の二階建てアパート。いわく付きらしいが、俺は怪談や心霊の類いをまったく信じていなかった。
だが、引っ越しをして二日目の夜。もうすぐ日付が変わろうかという頃だった。
なんの予兆もなく唐突に女が現れた。長い髪を持つその女は──裸で──しかも半透明だった。
俺はあまりの光景に声も出ない。立ち尽くす俺を気にも留めず、裸の女は居間へ入ってきて、ベランダの窓の前に立ち止まる。
そこで女は急に背中から血しぶきをあげ、床に倒れた。そして、瞳孔を開いたまま何事かを呟いて──ゆっくりと消えていった。
翌晩も、その翌晩も、家賃五千円の部屋でまったく同じ光景が繰り返された。
半透明の裸の女が現れ、ベランダの前で背中を血まみれにして倒れ、消える。
最初は怖かった。何度も荷物をまとめて出て行こうかと思った。それでも、いつの間にか慣れてきてしまった。人間の順応性というのは不思議なものだ。
やがて俺は、若い女性の裸体がささやかな楽しみになっている自分に気づいた。女は俺の姿を見てもいないし、叫んでも何も反応しない。それがあまりに奇妙で、逆に怖さが麻痺したのかもしれない。
そんな暮らしが一ヶ月ほど続いた頃、夕方にインターフォンが鳴った。玄関を開けると、黒髪ロングヘアの若い女性がそうめんの入った紙袋を手に立っていた。
「となりに越してきた森園若奈です。ご挨拶が遅くなりました」
彼女はそうめんを手渡し、にこりと笑う。その声は鈴の音を思わせるような明るい響きだった。
俺は彼女と初めて会ったはずなのに、どこかで見た顔だと思った。その理由はすぐにわかった。毎晩出現するあの半透明の女にそっくりなのだ。髪型も輪郭も、鼻筋も目元も。
──いや、そっくりどころか、まるで同一人物だ。
とはいえ、口が裂けても「あなた、毎晩裸で現れるあの幽霊ですよね」などと言えるわけがない。
下手をすれば通報されかねない。だから俺はとりあえず、たどたどしく会釈して「平坂といいます。どうもありがとうございます」とだけ返事をしておいた。
その夜も、いつものように例の女が現れた。やはり森園若奈そっくりだった。
俺は混乱しながらも、あの女は霊の類ではなく『残留思念』に近い存在ではないかと、無理やり頭の中で結論づけた。
若奈は生きている。それなのに、俺の部屋には若奈に瓜二つの半透明の女が現れる。つまり、幽霊ではないということだ。それ以上のことは分からなかった。
俺は気味が悪くなり、若菜のことはなるべく考えないようにしようと思った。
ところがその日を境に、若奈と顔を合わせる機会が増えた。バイトへ向かう夕方のアパートの前、近所のコンビニ、コインランドリー。
外を歩けば、やたらと若奈に遭遇する。明るくて人なつこい性格らしく、彼女は俺を見つけると積極的に声をかけてくる。軽い世間話をしては元気よく去っていく。
最初は戸惑ったが、正直うれしかった。だが、その一方で夜に現れる裸の女を思うと、どうしても素直に距離を縮められなかった。
そんなある夜、若奈が突然、俺の部屋を訪れてきた。インターフォンに応じて玄関を開けると、若奈は目に涙を浮かべてうつむいている。
「助けてください」
訴える声は切実で、俺はどうしたらいいのかわからなかったが、放っておくわけにもいかず部屋にあげた。
居間のこたつテーブルに彼女を座らせ、事情を聴くと、若奈は小型の盗聴器を取り出してみせた。
「わたしの部屋で見つけてしまって。犯人はわかってるんです。バイト先の先輩で、ずっとつきまとわれているんです。何回引っ越しても、近くをうろうろしているみたいで。怖くて、ずっと誰かに頼りたかったんです。だから、平坂さんに声かけてたの‥‥‥迷惑でしたよね」
「迷惑じゃないよ」
俺は強がるようにそう言った。それから思いきって提案する。
「今夜はうちに泊まればいい。そのほうが安心でしょ」
若奈は一瞬ためらった様子だったが「本当は断るべきですよね。でも、もう限界で。お言葉に甘えます」と決心したようにうなずいた。
「さすがに同じ部屋で夜を明かすのはまずいか」
俺はそう言った。若菜は瞳を潤ませて答える。
「できれば近くにいて欲しいです。いけませんか」
少し考えた末、こういう結論になった。
「じゃあ、俺が若奈さんの部屋で待機するよ。何かあったらすぐ駆けつけられるし」
「わかりました。それなら安心です」
こうして、俺は若奈を自分の部屋に残したまま、彼女の部屋に移動して見張り役をすることになった。
若奈の部屋は同じ古いアパートとは思えないほど整理整頓されていて清潔そのものだ。しばらく部屋を眺めていると、ふと気になった。
──今このタイミングで若奈が自分そっくりの半透明の女と鉢合わせしたらどうなる?
ドッペルゲンガー的な事態になったらパニックだろう。そもそもあの女は何なのか。本当に残留思念なのだろうか。若奈が俺の部屋に来たことがあったという過去は聞いていない。
そこで最悪のシナリオに気づいてしまう。
今まさに若菜は俺の部屋にいるじゃないか。ひょっとすると、あれは未来を見せているのかもしれない。
半透明の女は、これから若奈があの部屋で何者かに背中を刺されて死ぬ瞬間を再現していたのではないか?
俺はいてもたってもいられず、若奈の部屋を飛び出した。
「森園さん!」
焦って自室の鍵を開けると、若奈は裸のまま、目を丸くしてこたつのそばに立っていた。
「ど、どうしたんですか、平坂さん?」
俺は動揺しつつも若奈の肩をつかむ。
「ここは危険だ。今すぐ部屋を出よう」
「え、え?」
彼女が困惑する間もなく、玄関のドアが荒々しく開く音がした。
そしてドタドタと足音が迫り、小太りの男がミリタリー系の迷彩服に身を包んで現れる。男はサバイバルナイフを握り、息を荒らげながら叫んだ。
「若奈に触るなっ!」
「──っ!」
俺は若奈を背中にかばい、ナイフを向ける男を睨む。後ろから若奈の震える声が聞こえた。
「あ、バイト先の先輩です」
その言葉に俺は覚悟を決め、一気に男へ飛びかかった。
男も抵抗してきて、俺と取っ組み合いになる。激しくもつれ合うなかで運良く男の手からナイフがこぼれ落ちた。
俺は最後の力を振り絞って男の顔面に頭突きをかまし、なんとか拘束した。若奈はその間に警察を呼んでくれる。十分も経たないうちにサイレンの音が近づき、男はあっけなく連行されていった。
警察が状況を聞き取り、俺と若奈も簡単な事情説明をする。後日、改めて警察署に行くことになったが、とにかく危険は去った。
「もう大丈夫だから」
と、俺が安心させるように声をかけると、若奈は涙を浮かべて「ありがとうございます」と微笑んだ。そうして自分の部屋へ戻っていった。
その夜を境に、半透明の女はぱったりと姿を見せなくなった。一連の騒ぎが解決して、何かが成就されたかのように。
そして時が過ぎて、俺の貯金もいよいよ底をつきそうになってきた。
警察関係の手続きやらでごたごたしていたが、このままでは本当に暮らしていけない。ようやく腹をくくって再就職に向けて動き出すことにした。久しぶりにスーツを着て、面接を予定している会社へと向かう。
その途中、交差点の大きな横断歩道に差しかかった。
赤信号で立ち止まる俺の視線の先に、若奈が見えた。かわいらしい服を着ている。
俺は思わず手を振ったが、若奈はまるで気づかない。それどころか、信号は赤のままなのに歩き出してしまった。
「森園さん! 赤だよ、危ない!」
俺はあわてて声を張り上げたが、若奈はまるで無表情。何かに操られているように道路へと進んでいく。
次の瞬間、中型トラックが猛スピードで若奈をはねる。彼女の体がまるでビニール袋のようにふわりと宙を舞い、歩道脇の生け垣へ叩きつけられた。
トラックはそのまま止まることなく走り去る。俺は「救急車! 誰か救急車を呼んで!」と叫びながら若奈に駆け寄った。
頭から血を流した若奈はかすかに俺を見上げ、そっと微笑んだ。
すると、彼女の体はゆっくりと半透明になっていく。
「なんで‥‥消えて‥‥?」
俺の言葉は混乱の中でうわずる。若奈は最後に口を小さく動かした。
「また助けてくれますよね」
聞き取れたのは、それだけだった。そして若奈は完全に消えてしまった。
幽霊でもなく、残留思念でもなく、ましてや未来予知なんかじゃない。
──これは『警告』だ
そう気づいたとき、ふいに遠くから鈴のような声が響く。
「平坂さーん!」
横断歩道の向こうには森園若奈が明るい笑顔で手を振っていた。
お久しぶりです。年の瀬にヘルニアになってしまいまして、リハビリ中です。なかなか、長い時間執筆活動ができなくなりました。ちょっとずつ回復はしています。