桃花の雨
事故から1週間が過ぎた。
相変わらず奏斗の記憶は戻らないままだ。
俺は会社の後に病院へ寄るのが日課となっていた。この日はわりと早めに会社を上がることが出来たので、駅前で奏斗がよく食べていたプリンを買っていった。
病室の前で考え込んでしまう。何が最善なのか。
未だに彼への対応は決めかねてしまっている。
やはり元通りとはいかない。それにこれについて考え出すと、自分の中の黒い感情が溢れ出て、嫌な奴になってしまう気がする。俺はこのままでいいのだろうか。
○「仕事お疲れ様、入らないの?」
その声は後ろから聞こえた。
ゆっくりと振り返る。
●「奏斗…もう歩けるのか?」
○「うん、骨が折れてたのは腕で、足は大した怪我じゃなかったし。それより、初めて名前で呼んでくれたね。」
考え事をしていたせいか、思考が言葉を追い越してしまった。いや別にわざと区別していたわけではない。だがきっと完全に無意識下ではない。
●「え、そうだったか?ごめん…。」
自分が何を言うべきか分からなくて誤魔化してしまった。
○「秋が呼びづらいなら、別に呼ばなくていいよ。それより中に入ろう。」
彼は気にしていないように笑った。
俺たちは病室へ入り、彼はベッドに腰かけた。
●「プリン買ってきたんだった。一緒に食べよう。」
○「ありがとう、いただきます。」
しばらくの沈黙の後、彼は不安そうな顔で呟いた。
○「僕の記憶、どうなっていると思う?」
●「どうって?」
○「いや、僕自身別の人間になったと思っている訳ではないんだ。ただ、大事なものを忘れてしまっている感じはずっとしていて…。ずっと不安なんだ。家の鍵をかけたか思い出せない状態で外出していると不安だろ?ずっとそれが続いている感じなんだ。」
●「きみは全て取り戻したい?」
○「僕はきっと色々な人に大事にされてきたんだと思う。でも僕が大事にされてたのは多分、僕が無くしてしまったものを持っていたからだ。お母さんもお姉さんも、秋も優しい。でもそれは今の僕が得た人徳じゃない。それを笠に着てこのまま生きることが正しい訳じゃないだろ。」
●「別に君のせいではないし、君がなにかずるいことをしていると思う必要はないだろ。でも君の気持ちは分かった。とりあえず、俺も君の記憶が戻るよう精一杯協力する。」
○「ありがとう、秋。僕そろそろ退院出来るらしいんだよね。退院したらまずピアノを教えて欲しいな。」
この時の、諦めと悔しさの混ざったような顔は、俺から見れば完全に奏斗だった。奏斗はよくこういう顔をしていたように思える。
●「君の部屋にはピアノがあるから、仕事終わりに教えに行くようにするよ。それとそのプリン、君がよく食べてた。ごめん、よく食べてたってだけで好きだったのかは知らないんだけど、なにかの手がかりになれば。」
○「ははっ…!僕ってプリンが好きって言えないような可愛いやつだったんだ。僕はこれすごく好きだから、好きだったんだと思うな。」
●「たしかにそんなやつなんだよ。」
俺はつられて笑った。
自分とは比べ物にならないようなレベルにいた人間にピアノを教えるのはなんだがいたたまれない気持ちになるが、とりあえずやってみよう。彼が望むなら。
自分の中で揺らいでいた気持ちにやっと折り合いがついたような気がした。彼が思い出したいのなら、それを俺の感情で邪魔してはいけない。俺は彼が奏斗に戻れるよう努めよう。そしてその後のことは、その後に考えればいい。