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継ぎ接ぎの璧

作者: 花緑

 電車のブレーキに合わせて、体に慣性の重みがかかる。手に持っている本も少し傾くが決して目を離さない。今はクライマックスなのだ、視線を外してなるものか。主人公がヒロインを抱きしめた。思わず涙腺が緩みそうになる。ダメだ、我慢。いくら本を食い入るように見つめても、公衆の面前で泣くのはさすがに堪える。読み終えたので、さて、あとがきを読もう、と思っていたところ、きゃあきゃあがやがやと賑やかな声が聞こえてきた。何とも幸せそうなカップルが楽しそうに会話をしていた。今しがた、到着した駅から乗車してきたようだ。先ほどよりかは騒がしくなったが、特に気にするほどでもない。再び本に視線を戻し、右手で掴んでいたつり革を離してページをめくる。

「あ」

 電車が発進した勢いで体が揺れて、本を落としてしまった。拾うために腰を曲げて手を伸ばす。

「あ」

 落とした本が隣にいたカップルの女性に踏まれてしまった。その人は会話に夢中のようでなかなか足をあげてくれない。どうしよう、声をかけるか。でも楽しそうに会話をしているし、なんだかすこし厳ついな。声をかけるか迷っているうちに、女性がまるで障害物から足をどかすように、足を移動させた。拾った本は破れてはいなかったが、しわがついてすこし汚れてしまった。ちっ、謝罪もないどころか気にもしないのか。ふと、ポケットからはみ出した派手な財布が目に付く。


 やってしまおうかな。うるさいし、本を踏んだのに謝りもしないし。そこらへんに捨てとけばそれで懲りるだろう。


 いや、ダメだ。元はと言えばしっかりと本を握っていなかった自分が悪いのだし、相手も大好きな人との会話でいつもより少し注意がおろそかになっているだけに違いない。それなのに、自分はなんていうことを考えているんだ。まず責めるべきは自分だろう。ダメだ。これも後で変えておこう。


 電車を最寄り駅で降りて、改札を抜ける。自宅までの帰路を辿っている間に今日変えるべきことをまとめる。まず一つが学校でぶつかられたときに嫌な顔をしてしまったこと。そして二つ目が先ほどの電車でのこと。では一つ目は何を変えるべきか。ぶつかられるのを嫌がる回路とかってあるのかな。あるならそれを切ればいいけれど、さすがにそれほどに細かいものは無いか。バラバラにしてそれぞれ切っていこう。二つ目も同じ感じでいいかな。他にも自分の不完全なところがなかったかと考えているうちに家に到着した。忘れないうちに変えておこう。

「ただいまー。まあ、誰もいないけど」

 階段を上り、自室へ向かう。荷物を置くと早速服を脱ぎ始め、鏡の前に立つ。

「これ嫌なんだよなー」

 制服のボタンを外すと、お腹を露出させて、丸見えの自分のお腹に手を突っ込む。すると、みるみるうちに手首まで埋まった。けれど出血する様子はない。そこにもう一方の手も突っ込む。完全に埋まった両の手を左右に開いていくと、そこに見えたのは内臓、ではない。そこには、まるで、何かの複雑な機械のように色とりどりのケーブルがびっしりと大量に埋まっていた。

「えーっと、人を責める…」

 自分の目的の回路がどこにあるのかを、頭の中で念じるようにして手繰り寄せる。

「これだな」

 回路ケーブルの山をかき分けて、目当ての回路をつかむと、それを左右の手でもって縦に割いていく。割けて二つになったものをまたまた、二つに割いていく。八本くらいになったとき、目当ての回路が姿を現した。

「よし。あとはハサミで」

 ぶち。

「よし切れた。これで安心。」

 だが、まだあと一本切らなければいけないものが残っている。


 次の日の朝、念のためお腹を確かめる。うん、何ともない、ただのお腹だ。

 自分は今まで十本くらいの回路を切ってきたが、体に全く異常はみられない。世間一般からすればいささか怪奇の類にされそうなことなのだが、自分は生まれてこのかた、ごく普通の人間であるという自信がある。

 もし何かが変わったのだとしたら、それは一か月前、この未知の回路群を発見したときがその節目であった。最初は腹にこんなものがあるなどということは知らなかったし、こんなものが腹に出来るようなことをした記憶もない。ただ、自分の精神の嫌なところを簡単に変えることができたらなと、時々考えてはいた。その日もただ湯船につかってそんなことをぼんやりと考えていたのだが、ふとお腹に違和感を覚えたのだ。なんだが何も食べていないのに胃がぽっこりと膨れたような。なんだろうと思い手を触れてみると、僅かだが、確かにその手が沈んだのだ。それは手の重さにお腹が沈むのではなく、お腹が沈んでいないのにも関わらず手が数ミリか埋もれたのだ。その時はあまりの奇妙さにすぐに手を離して、しばらくは触れないようにしていたが、お腹の違和感もなくなったので、何かの気のせいだと気にしなくなり、徐々にそのことも忘れていった。

 しかしそれから一週間ほど経ったある日のこと、友達と些細なことで喧嘩をしてしまい、深夜の布団の中、怒りも冷めた頭でそのことを深く反省していた時、またあの願望が頭に浮かんできた。簡単に自分を変えられる方法はないかという願望が。すると再び一週間ぶりにお腹が蠢いた。手が沈みこんだその時のことを気のせいだと思っていた自分は、膨れるようで膨れていない腹に手を当てた。無意識なためか今度は前回よりも強く。そして触れてしまったのだ。沈み込んだ左手で、ゴムのあの感触を。驚いた。とてつもなく驚いて手首まで見えなくなった手を引っ張ったが、なかなか抜けない。だが、ほどなくして気付いたが、自分の腹にこんなにも巨大な異物が入っているというのに、痛みはおろか、違和感がまるで無かった。あたかも手がお腹を通して異空間に飛ばされてしまったかのようにも感じたが、その手にはしっかりとデコボコとしたゴムの感触があるのだ。中に何があるのか気になり、鏡の前に立つと、差し込まれた左手に右手を添え、隙を作って中を覗いてみたところ、たくさんのケーブルが目に入った。またもや驚いたことだが、それ以上に好奇心があった。このケーブルは何か、どこに繋がっているのか、どのような役割を持っているのか、いつからここにあったのかなど。挟んだ右手をさらに動かし、大きく開けることに成功すると、ケーブルの一本をつかみ、鏡越しにしげしげと観察してみた。だが、それは確かに機械製品の内側に張り巡らされているような単なるケーブルだった。ふと前回の似たようなことが起きた時を思い出す。そういえばあの時も今回と同じようなことを考えていたなと。するとこれは、その願望に起因するものなのではないか。簡単に自分を変える、ケーブル?やはりわからない。わからないが興味は尽きない。とりあえずこの異常な状態を何とかして平穏に戻したい。自分の手を慎重に動かし、うまいこと両手を同時に抜き出した。お腹に今さっきまで巨大な異物が入っていたというのに、自分の体は何ら異常を呈している様子がなかった。開いたお腹の口もすっかり跡形もなく閉じていく。これは夢か、幻か、などと自分の現実存在を疑ってはみても、高鳴る心音も、背中に滲む汗も本当の物だった。まあ、いっか、と目の前の非常識から目を背けると、自分のお腹の調子を尋ねるように、ぽん、と楽し気に腹を叩いてみた。


 私のクラスメイトに、とてつもない聖人がいる。それは古代中国で謳われる、君子の上を行く存在、というよりも、成績優秀で性格もよく、誰に対しても当たり障りなく相手に出来る、完璧な存在だ。私はあの人が不思議でたまらない。なぜあんなにも常にニコニコしていられる?嫌味を言われても、失礼をされても、決してその表情を変えずに、いいよいいよ、と受け入れられる。もしかすると、あの人ならば、宇宙人や地底人とかの非人間とも手を取り合えるような、人間代表の人になれるかもしれないな。あの聖人には何かタネがある。そうでなければただの魔法だ。まあ、そんな魔法があっても、使う人間なんていないだろうが。いたらそれこそ、人間じゃない。


 朝早く起きたので、昨晩のことに考えを巡らせていた。やはり思いつくのは、お風呂の時も、布団の中に居た時も、自分の内面の性質について反省し、それを改善しようと考えたときにあのおかしな現象が起きたということだった。私はその時と同じように自分の心を変えたいと願いながら手をお腹に押し当ててみた。するとお腹は柔らかい粘土のように手を包み込み、両手を差し入れてみれば簡単にコードを覗くことができた。自分の精神を変えることに関係のあるものなのであろうか。などと目の前の摩訶不思議に思考を巡らせていると、勉強机に置いてある携帯の着信音が鳴った。誰からだろうと覗いてみると、昨日喧嘩した友人からの謝罪のメールだった。思わず、罪悪感に顔を歪める。自分が謝る前に相手に謝らせてしまった。自分が悪いのにどの顔をして返せばいいのかわからない。ああ、なんてことをしてしまったんだ。もっと相手のことを考えられていればこうはならなかったのに。すると突然、ケーブルの山の一つに注意が行った。そしてなんとなく、これを切ればダメな自分を改善できるような気がしたのだ。そして遂に実行してしまった。

 その次の日、学校で件の友人もとに謝罪に向かった。頭を下げたその時、深い安心を感じた。罪悪感はもちろんあったのだが、どこか、もう自分は同じ過ちを繰り返さないという確信があったのだ。

 それからというもの、何か不出来な自分を後悔する度にその行為を繰り返していった。自分はすでに、人としての罪を克服する安心感の虜になってしまっているようであった。


 俺が小学校の時、とてもおとなしくて、けれどかなり頭のよさそうな子がいた。その子の周りにはいつも誰かがいて、周りも本人も楽し気に笑っている姿がいつも目についた。その子のテストの点数はいつも高くて、体育の授業でも率先して動いていたおかげか、先生にはとても気に入られていた。誰かが喧嘩を起こせば、その子が仲裁をしに行き、誰かが遊んでいる最中にけがをすれば、保健係より先に保健室に連れて行っていた。誰よりも働き者で、誰よりも明るいその子は、世界にその子を嫌う人がいないのではないかというくらい学校中でしたわれていた。

 でもある日の帰り道、俺はあの子が泣きながら学校へ行くのを見かけた。ちょうど反対側の歩道を歩いていて、目元を隠しながら、けれども決して泣き声は出さずに静かに泣いていた。俺は気になって後をつけてみることにした。赤信号に足止めされてようやくその子に追いついたときには、その子はもう泣き止んでいた。俺が声をかけると驚いたように振り返り、そして大きな笑顔を浮かべた。目元を赤く染めたまま。なんで夕方になって学校へ引き返しているのか聞くと、返されたテストの答案を教室に忘れたらしかった。でも俺はその子が帰りのあいさつの時に教科書はランドセルに入れてもテストだけはいれていなかったのを見かけていたから、どうせ親にみせたくなかったんだろう、とからかった。するとその子は一瞬おどろいた後、怒鳴るように、あんたに何がわかるの、と言い放った。その子に対して常に品行方正な印象を持っていた俺はまったく想定していなかったセリフに硬直し、そして後悔し、急いで学校へ走っていくその子の後を追うことができなかった。

 そのことは次の日に本人から呼び出されて謝られ、またその時に謝ったからその子との間には、なんの禍根もないのだが、今ではあの赤い目元が、悲哀や絶望や懇願の渦となって記憶の中に滲むのだ。


 そして月日が流れ、自分のケーブルを切断する回数も徐々に徐々に増していった。だがある日、前に切断したはずの箇所がまるで何事もなかったかのように元通りになっているのを見つけた。今になってケーブルが復元する性質を発見したことに焦りを覚えた。切っただけで安心しきって、何を切ったかの記録を忘れていた。覚えているだけのものを忘れないうちに急いで切っていったが、全てを思い出すことはできなかった。どうしようかと思案したのち、忘れてしまったものはどうしようもないという結論に達したのだが、しょうがない、どうしようもないと自分に言い聞かせても、その日は一日中そのことだけを考えていることしかできなかった。それからというもの、切ったケーブルは必ず記録をとるようにしていたのだが、新しく切る本数が増えていくほど、その行為にかける時間も必然的に伸びていき、次第に嫌気がさしてきていた。なぜ一度切っただけでは済まないのか。永久に回復しないようにする手段はないのかとも思ったが、如何せん未知のことでそのような方法はないと思い、ただただハサミを動かすしかなく、鬱屈とした気持ちのまま鏡を前にし、その習慣を繰り返すのだった。

 そしてまたある日のこと、切ったケーブルの数が数えられないほどにまでなった時、ケーブルの見える腹の中に、僅かながらハサミの刃があたる感触があった。少し、躊躇ったものも、結局その日はいつも通りに作業を行ったのだが、日を追うごとにその感触はより強く、顕著になっていった。

 夕日が部屋の窓に覗く街並みを染める頃、いつものようにそれを行っていると、

「痛っ!」

 ついに明確な痛みを感じた。まさしく刃物で体を切ったかのような感じがしたのだ。でも、「これをやらなければ変えられない。」

 自分は変わらなければいけないんだ。痛みを我慢して決行する。

 すると、切ったケーブルの断面から赤い液体が滴っていた。

「え、血?」

 指につけて確認してみると、

「やっぱり、血だ。でも…でも、やめることなんてできない!」

 そうだ。やめてしまえば、自分は一生間違ったままだ。


 翌朝、休日にも関わらず、ひどい空腹で目を覚ました。昨日は体調が悪くて何も食べずに寝てしまった。いつもよりも気怠い体で部屋を出てダイニングに向かう。するといつもはいない母がいた。

「あれ、お母さん。仕事は?」

「おはよう。今日は珍しく休みだったの。朝食、できてるわよ」

 なんと、母が朝食作ってくれていたらしい。何年ぶりの母の手料理だろうか。早起きは三文の徳とはこのことか。ダイニングテーブルに目をやると、まだ作られて間もない食事が湯気を上らせて待っていた。急いで席に座る。重かった体も多少は軽く感じてきた。

「いただきます」

「どうぞ召し上がれ」

 ああ、ダシの効いた味噌汁が空っぽの胃によく沁みる。

「そういえば、お父さんは仕事?」

「ええ、あの人は変わらず仕事。でも、まだ起きてから二時間くらいしか経っていないのに、もう何をすればいいのかわからないのよね。これなら仕事していた方がいいかもね。」

「そうだね」

 その言葉に、ぶっきらぼうに返事をする。この人はやはり子供の心がわからないらしい。日頃の不満を込めて睨むように見てやると。逆に悲惨なものでも見るような目で見返して来た。

「ねえ、なんかあなた、顔色がわるいんじゃない?夜更かしでもしたの?死体みたいな感じになってるわよ。」

「え?」

 昨日のあれが響いたのだろうか。急いで携帯の電源を入れるとカメラを起動する。そこには赤みを失った顔で、死んだ目をした自分が写っていた。いつもはあった活発さは影を潜め、艶のあった肌はどこか、がさついて見える。

「大丈夫?病院いく?」

「いや…大丈夫、だと思う」

 自分が毎晩やっていたことが実は命に関わる危険なものだったかもしれないと思うと、にわかに不安になってきた。今まで何本切った!?五十本?六十本?詳しい数は覚えていないけど、でも、けっこうな数を切ってしまったのは確かだ。大変だ、大変なことをしてしまった。このまま自分は死ぬ?死ななくても、何かの後遺症に苦しむ?

 何が改善だよ。なにもわからないのに、安全だっていう根拠は何一つもないのに、なんでこんなことしちゃったのか。ああ、悔しい。もっと理性的だったらこんなことには。


「改善したい。」


 そうだ、直さなきゃ、自分のダメなところはちゃんと。

 味噌汁しか収まっていないはずの胃が膨張してくるように感じた。

「何て言ったの?ねえ、本当に大丈夫なの?なんかいつもと違うけど。」

 焦りからか、母の発言が癪に障る。

「いつも?いつもって何?朝と夜の短い時間しか会うこともない癖に」

 今まで言ったこともないようなことを、つい口に出してしまった。

「だってそれは仕事が忙しいんだからしょうがないでしょう。何、子供みたいなこと言ってんの」

「子供の頃だって同じようなもんじゃん!仕事、仕事、って言って全然かまってくれなくって、授業参観の時にみんなは親との思い出を絵を描いて楽しそうにすらすらと話せるのに、自分だけ棒立ちのままで、あの時どれだけ恥ずかしかったことか。どれだけ悲しくて、寂しかったことか!自分の子供よりも仕事の方が大事で、その気持ちすらもわからないだろうけど!」

「そんなことが…」

 今まで忙しい親に迷惑をかけまいと溜め込んでいた感情が、異常事態に対する不安と、ずっしりとのしかかるダルさに押されて、自分でも収拾のつかない程に、とめどなく溢れ出してきた。ダメだ。ここにいては、また過ちを犯してしまう。もうすでに何個か改善しなければならないことを言ってしまった。部屋を出て、これ以上なにもしないために素早く階段を駆け上がる。自分の部屋の前に来ると、勢いよく扉を開けて、ベッドへと向かい、毛布の中に潜り込んだ。



 自慢になってしまって申し訳ないけれど、私の子はとっても優秀だ。成績では毎年必ず満点を取るし、人間関係で悩んでいる風にしたことは一度もない。学校に遅刻することなんて勿論ないし、私と夫のこの状態についても、よくわかってくれている。顔を数度合わせるだけなのに毎回私を労ってくれるし、たまにお見上げを買って帰ると、とてもうれしそうな顔で喜んでくれる。将来はきっと立派な社会人になって、完璧に仕事をこなすんだろうな。もちろんそのためにはたくさん苦労するだろうけれど、それも完璧な仕事のために仕方のないことなんだろうな。でも、今日のあの子は少し様子が違った。いつもは少しのことじゃ怒らないで笑って許してくれるのに、今日はやけに不機嫌だった。話を思い返してみるに、どうやら私のこれまでの態度にうんざりしているようだった。

 なぜだろう。私のようなバリバリ働く大人にあこがれると、あれだけ何度も口にしていたのに。私はあの子の理想像にはならなかったのかな。私はいくら考えてみてもあの子の気持ちがわからなかった。昔ならわかったかもしれない。あの子が何を欲していて、何を考えているのか、最近じゃすっかり頭に浮かんでこない疑問だった。そういえば昔あの子から貰った手紙があるはずだと思って、書斎を探してみたら、本の隙間にまだ封の空いていない手紙が挟まっていた。表には「大好きなママへ」とかわいらしい字で書かれていて、封はのりで止めてあるようだった。書いてあることはあの子の言っていた授業参観でのことだった。私との楽しい思い出を思い出せなかったことの謝罪から始まり、これからはもっとお出かけをしたい、学校であったこと話しながら一緒に夕ご飯が食べたい、一緒のふとんで寝てみたい、など。悪い点を取ったことを謝りつつも、満点をとったことやクラス長になったことを書いていた。手紙はそれで終わっていたけれど、それでもどこか、何か言いたいようなことがあるように感じたから、当時のことを思い出してみた。

 その頃はテストの点数が80点を下回っていたからと厳しく叱ったけれど、満点を取った日の次の日には早く帰宅してそれを褒めた。普段は仕事の多忙さから一緒にいることはできていなかったが、頑張った子供のために無理をしてでも職場から抜け出した。でも私はあの子の顔をよく見ていなかった。私が靴を履いて玄関を出る時、あの子は起きて私の出発を見送っていた。でもその時すでに私の頭には仕事のことしかなかった。もしかしたら寂しんでいたかもしれない。泣いていたかもしれない。その気持ちにも気づけずに、私はその日の会議のことで頭をいっぱいにしていたのかもしれない。

 私は急いで二階へ上がり、あの子の部屋をノックした。けれど、あの子からの反応はなかった。怒って当然だ。私ならこうなる前に家を飛び出してだろう。でもあの子は耐えてきた。私がいつか本当に愛してくれる日を願って。長い間ごめんなさい。早く気づいてあげればよかった。いや、気づくべきだったんだ。テストの点なんてあの子の愛しさには関係ないし、仕事なんてあの子が悲しむことに比べたらどうだっていいはずだった。自分の本当の気持ちを早く伝えればよかった。あなたが生きていれば私はそれで十分だってことを。私は濡れた瞼のまま、階段を下り書斎に戻った。


 どうしようもないほど取り乱す心を落ち着かせることが出来ず、しばらく目を閉じ休んでいると寝てしまったようだ。気が付けば目覚まし時計が12時を示していた。すると母親が階段を上る音が聞こえてくる。やだ、こっちに来るな。

「素音、入っていい?」

 足音が近づいてくる。

「私、あなたに言われたことを考えてみたの。それで、いままで、ごめんね。一緒にいられなくて。仕事が忙しいなんてただの言い訳よね。私が産んだ子だものね、責任もって面倒見なきゃいけないのに、仕事ばっかり優先しちゃって。本当にごめんなさい。だから、これからは、今までないがしろにしてきてしまったあなたとの時間をちゃんと作りたいの。だから協力してくれる?」

 今更か。ようやく自分に言われて気付いたのか。遅いんだよ、もう。子供の頃にできた傷は、中学生になった今でも変わらず疼く。いくら治そうとしても、過去が重石となってついてくるのだ。

「今ではもう慣れたのに、なんで今日に限って休みなんだ。また、直さなきゃいけないことが増えたよ。このままじゃ、いつまで経っても完璧になれない。」

 完璧。そうか、自分は完璧になりたいのか。

「何を言っているの?直すって何を。あなたは悪くないのよ。直すべきは私だったのよ。気づけなくてごめん。それに対してあなたは偉い。こんなダメな親がいながら、今まで立派に生きてきたんだもの。あなたが立派だったからこそ、私は気兼ねなく仕事ができたの。でも、それがダメだったのね。あなたの強さに甘えてばかりで。だからもう耐えなくていい。あなたじゃなく私が変わるから。あなたはそのままでいい、そのままでも十分素敵で立派な人間よ。ただありのままでいてくれればいい。あなたの名前はそういう名前なんだから」

 久しく聞いてこなかった母のゆったりとした温かい声だった。布団をどかして、母の顔を見つめる。

「私の、名前?」

「そう、お父さんと考えて決めたの。ありのままの音を響かせてくれる子になりますようにって。」

 完璧でなくてもいいのか。ありのままでもいいのか。そう思うと、ずっしりと重かった心が解き放たれるような気がした。きゅっと締めていた、強張っていた心臓がじわじわと解けていくようだ。思わず、涙があふれてくる。

「ほら起きて。誓うから。もうあなたをないがしろにすることはないって。」

 そう言うと母は私の背中に手を回してきて、硬く優しく私を抱擁した。するとチクチクと痛みを感じていた腹のあたりが温かみを帯びてきて、不安を感じさせる違和感が、雪の溶けるようになくなっていった。そこはかとなく、私を苦しめていた怪異が祓われたかのような、晴れやかな気分で、母の温もりを感じていた。


 そろそろ受験のシーズンになってきた。私は志望高校に合格するため日々試験勉強に励んでいる。今も参考書を手に、帰りの電車で揺られていた。最近は寝る間も惜しんで勉強をするほどで、寝不足気味な目を時折こすりながら、それでも視線を外すまいと参考書の重要箇所を頭の中で繰り返し復唱する。さて、次のページに進もうかと思っていたところ、きゃあきゃあがやがやと賑やかな声が聞こえてきた、最寄り駅まであと一駅といったところで、仲睦まじいカップルが乗車してきたようであった。手に結婚指輪が光っている。睡眠不足や受験勉強のストレスのせいか、少々煩く感じる。気にせず集中しようと参考書に目を戻したのだが、隣に来たカップルから強い香水の香りが漂ってきた。その強烈に甘い香りが車内に充満し思わず鼻を窄める。一秒も惜しいと、仕方なく勉強を続行することにして、重要な単語を隠して覚えているか確認しようとつり革から手を離すと、ちょうど電車が発車し、

「あ」

 手に持っていた参考書がカップルの女性の足元に落ち、

「あ」

 その女性にまるでゴミのように踏みつけられてしまった。

女性のポケットからは、レプリカの宝石が所狭しとつけられた派手な財布がはみ出していた。


 赤い日と影が混ざる夕闇の中、駅のホームの明かりが、柵を超えた先にある草むらを照らしていた。そしてそこにポツンと捨てられた財布がなんとも仰々しく、ホームからの人工の光を反射していた。


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