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誘われる人、誘う人  作者: 下心 薫
ジョシカク
8/12

ジョシカク SIDE- B

 リングへ向かうファイターは死刑台へ向かう者と同じ感情を抱く。


 そんな事を言われた事があった。

 だけど私はそんな感情を抱いた事はない。いや正確に言えば、無かった……


 女子格闘技界のトップを走り続けて、ようやく掴みとった世界への切符。その前哨戦と唱われた試合で迎えたのは若手の新星。私は彼女の無垢な強さに怯えている。


 試合前に健から言われた言葉。

「美里、試合するのが怖いんじゃねぇのか……」

 それは図星だった。


 子供の頃、健と対峙したあの時と同じ感情が沸き上がっている。


「勝てない……」


 私は直感した。

 小学三年生、空手道場の代表選手決定戦で、私が勝つ事が出来たのは、健に優しさがあったから……

 怯えている私に、健は拳を打ち込まなかった。

 もしもあの時、負けていたら、私は格闘家としての道を歩む事は無かっただろう。

 もしもあの時、大会に出たいだなんて我儘を言わなければ、健にあんな思いをさせずに済んだ筈。

 私は、健の格闘家としての未来を奪ってしまったのだ。

 だから、どこまでも上り詰めなければならない。


 滲み出てくる恐怖心を、偽りの笑顔で蓋をして、リングへと歩んで行く選手の花道。

 それはまさしく、死刑台へ繋がるグリーンマイル……

 リングで対峙した彼女は、1ミリの揺らぎもなく、どこまでも真っ直ぐだった。

 恐れを知らない一直線の闘志は、ゴングが鳴った瞬間から私を圧倒していく。


 私はこれまでの経験を活かして、うまく立ち回り、何とか体裁を繕った。

 でも誤魔化しが効いたのは2ラウンドまで……

 3ラウンド目早々、彼女に抑え込まれる。

 私を抑え込む彼女の力は野獣のように圧倒的で、なす術が無かった。

 必死の形相で拳を振り下ろす彼女に抱いた感情は、恐怖心以外の何ものでもない。

 敗けを認める訳にいかず、視線でレフェリーに助けを求める。

 ストップを掛けられた瞬間、死なずに済んで良かった…… 私はそう思ってしまった。


 そんな私を、彼は優しく迎えてくれた。

 でも、彼の格闘家としての道を背負って生きてきた私に、この状況を受け入れられる筈がない。


 私は彼に当たり散らした。

 試合前に放たれた、彼の一言をやり玉にあげ、痛烈に非難した。

 抱き寄せようとする彼に抗い、何度も何度も胸板へ拳を叩きつけた。

 彼の胸を叩く度に、彼の心の痛みが拳を通じて返ってくる。

 散々、拳を叩きつけ、心の何かが砕け散って、彼の胸に抱かれた。

 逞しい彼の胸板、このままいつまでもいられたら…… そう思ったが、それも束の間だった。


「もう、充分だよ!」

 そう言われた私の心に込み上げてきてものは、憤りだった。

 私が戦っているのは誰のため……

 理不尽な感情が、心の中に湧いてくる。

 彼に託された訳ではない、勝手に私が背負っただけ。

 それでも私が強くなる事で、彼の強さを証明できる。そんな思い込みが私をこれまで支えてくれた。

 それなのに、もう充分だなんて…


「私から格闘技を取ったら何も残らないでしょ!」

 絶望的な本音が衝いて出た。

 子供の頃から脇目も振らずに、一直線に進んできた格闘技の道。そこから足を踏み外したら、全てを失ってしまう。私にはこれしか無いんだ。だけどもう私の出番は無い……

 

 彼から返ってきたのは想定外の言葉だった。

「お前には俺がいる」

 それを聞いた途端、全身から力が抜けていった。

 自分が酷く弱い人間に思えてきた。

 虚勢を張って生きてきた自分が哀れになった。

 これまで溜めてきた色んな思いが涙になって溢れ出る。いつまで経っても止まらない涙……

 私は彼に身を委ねた。


 それからの私は、彼の献身的な優しさに支えられて立ち直ろうとしていた。

 格闘家としての燻りに、どうにか折り合いをつけて、彼の元で再出発したいと思っていた。

 だけど、心の中の燻りが、彼を受け入れるのを拒む。

 頭では抱かれたいと思っているのに、心がそれを許さない。

 同じベッドに入っても、女として昂る事は出来なかった。


 半年が経過した頃、リターンマッチの話が持ち上がってきた。

 期待の新星である彼女に見合う相手が見つからない、対戦相手に私が選ばれたのは、それが理由だった。


 それから一年後……

 私はリングに向かっている。

 同じ日、同じ場所、同じ相手。

 オファーを受けた時、彼は反対した。

 でも私は受けなければならないと思った。

 格闘家として燃えつきる事が出来なかった一年前、あの時、対戦相手から目を背けてしまった後悔を、今度こそ完全に燃焼させなければ終われない。

 それは彼の格闘家としての道を奪ってしまった自分へのケジメ……


 試合前の控え室、彼と向きあった。

 もう恐いものなど何もなかった。

 対戦相手が誰であろうと関係ない。

 勝とうが負けようがどっちでも良い。

 最後までファイティングポースを取り続け、諦めずに立ち向かうことが出来ればそれで良い。それで私の燻りは灰になり、彼の元へと歩み出せる。


 最後のリング……

 眩いスポットライト、会場に響き渡るリングネーム。

 リングサイドの彼と目が合った。

 彼が大きくひとつ頷く、私も頷き返す。

 これから日本を背負っていく彼女とのフェイスオフ。

 もう恐れる事は何もない。

 これで全てが終わるのだ……


 もしも、生きてリングを降りられたなら……

 今度こそ、彼に抱かれよう。初恋だった最愛の人に……

 分厚くて逞しい彼の胸に抱かれて、初めて女になるのだ。

 女として感じ、女の幸せを噛みしめ、彼の腕の中でぐっすりと眠る。


 もう、朝早起きをして走る必要はない。

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