ジョシカク SIDE- A
「美里、試合するのが怖いんじゃねぇのか」
彼女の視線が一瞬、宙を彷徨った。
「やめてよ、試合前に…… 世界への前哨戦なのよ!」
背を向けて控え室の奥に消えていく彼女……
その背中がやけに小さく見えた。
俺には見えていた。彼女が負ける姿が……
あの目が、あの時と同じだったから……
あれは小学三年生の時、通っていた空手道場の代表選手を選ぶ決定戦、俺と彼女が闘った時の事だ。
あの時と、彼女は同じ目をしていた。
相手に対する恐怖、不安、迷い、そんなものが澄み切った瞳の中に浮かんでいた。
あの瞬間、彼女は恐れていた、対戦相手である俺を。
結局、彼女は俺に勝った。
その後、男女混合の全国大会に出場して優勝した。相手を寄せ付けない圧勝だった。
彼女に負けた俺は空手を辞めた。
格闘家として、絶対に必要な要素を持っていない事に気づいたからだ。
やるか、やられるかの世界で相手に情けを掛ける、そんな事はあってはならない。
そして、俺のそんな情けが彼女を苦しめる事になる。
俺の思いを背負った彼女は格闘技を極めていった。そんな事、俺は望んでいないのに……
空手からキックボクシング、そして総合格闘技へと駒を進め、女子格闘技界の先駆者として常に勝ち続けた。
国内に敵なし、となった彼女の目標は世界へと向けられた。その前哨戦として組まれたこのカード、対戦相手は若手の新星、とは言え美里の敵ではないと思われていた。
しかし……
アンダードッグ(かませ犬)だと思われていた若手に、美里は負けた。
負ける筈のない試合展開のように思えた。2ラウンドまでは美里が空手仕込みの打撃で圧倒していた。
しかし3ラウンド目、相手選手に抑えつけられ、完膚なきまでに打撃を叩き込まれる。
3ラウンド、レフェリーストップによるTKO負け……
不本意ではあったが、俺の予想は的中してしまった。
「あんたのせいだよ……」
彼女は俺に向かって毒づいた。
ひどく腫れ上った瞼を氷で冷やしながら、流血が混じった涙の粒をポロポロと溢して泣き叫ぶ。
こんなに悲しい彼女の顔を見たのは初めてだった。
彼女が背負ってきたものは大きすぎた。絶対に負けられない状況で、勝てっこない相手と対峙しなければならない恐怖、それが彼女の目に浮かんでいた。俺はそれを彼女に伝えたのだが、試合前にそんな事を言われたから動揺したのだ、と彼女は言う。
そうじゃない事は彼女が一番良く分かっていたのに……
彼女にこんな辛い思いをさせてしまったのは俺のせいだ。
小学三年生の時、彼女に情けなど掛けず、打ち負かしていれば、こんな人生を歩ませる事は無かった。
幼い頃から一緒に遊んでいた彼女は、僕が好きになった最初で最後の女性だ。
だから彼女が格闘家として階段を駆け上がるのをいつもリングサイドから見守ってきた。
いつか彼女を迎え入れるのだと…… それが出来るのは俺だけだと……
荒れる彼女を、俺は抱きしめようと引き寄せた。
彼女は抵抗して俺の胸板を傷んだ拳で、力一杯叩く。何度も何度も…
彼女の心の痛みが、拳を通して伝わってきた。
それを真っ向から受け止める。少しでも彼女の痛みが和らぐように。
散々、俺の胸板を叩いて、力尽きた彼女は、胸に顔を埋めてしくしくと泣き始めた。
「よくやったよ、良い試合だった……」
彼女は肩を震わせて泣き続ける。
「もう充分だよ、終わりにしよう……」
長い間ずっと、胸の中に貯めこんできた言葉を掛けた。
俺は彼女の格闘家としての終わりをずっと待ち続けてきた。そんな思いが溢れたのだと思う。
「私から格闘技を取ったら何も残らないでしょ!」
突然、彼女は憤った。
溢れ出る涙には、怒りと悲しみが透けて見える。
「そんな事はないよ。美里には俺がいる」
一瞬動きが止まった彼女、その全身から力が抜けていくのが分かった。
強張っていた筋肉が俄にほぐれ、女性らしい身体つきに変わっていく。
柔らかくて、しなやかな背中、艶やかな肌、俺は彼女の中の女を感じて強く抱きしめた。
「美里ごめん、それに有難う……」
彼女は顔をあげ、俺の目をじっと見つめた。
その瞳には闘志も、欲望も、不安も、何もかもが消え去っているように思えた。
これでようやく彼女と新しい関係が築いていける、俺はそう思った。
だけど……
一年後、彼女は再びリングへと上がる。
同じ日時、同じ場所、同じ相手……
違うのは相手選手と美里の立場が入れ替わっていた事。
美里に勝った新星は、女子格闘技の頂点へと一気に駆け上がり、世界的トップファイターが集まる団体との契約を勝ち取っていた。
それは一年前、美里が手に入れようとしていた場所……
そして国内最後の対戦相手として美里は選ばれた。
俺は辞退するように言った。
だけど彼女は聞き入れてくれなかった。
「最後のケジメをつけてくる。自分の気持ちにね……」
そう言って、彼女はオファーを受けた。
彼女の目つきは一年前と全然違っていた。
澄んだ瞳の中には恐れも迷いも、欲望も気負いも何も感じられ無い。
「この試合が終わったらさ、話したい事があるんだ……」
彼女は、少し照れくさそうに微笑んだ。
「もしも打ちのめされて、起き上がる事が出来なかったらさ…… 私を背負ってリングから下ろしてよね」
舌を出して笑いながら、彼女はリングへと向かう。
「思い切りやってこい! あとは俺に任せろ!」
不安だらけの心を塞いで、精一杯の言葉を贈った。
彼女はしおらしく頷くと、直ぐにファイターの顔を取り戻す。
それは全ての雑念を振り払った清々しい顔だった。
俺は大きく深呼吸をして彼女の背中を見送った。
もうすぐ夢が叶う。
勝敗なんてどうでも良い。
どんなに傷つこうとも、俺がその傷を癒してやる。
たとえ身動きが取れなくなろうとも、俺が抱きかかえて連れ帰る。
俺が望むのはただ一つ、彼女がリングから生還すること、それをひたすらに願った。