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誘われる人、誘う人  作者: 下心 薫
見えない出口
6/12

見えない出口 SIDE-B

 人肌が恋しくなるような寒い日、駅のホームで彼に出会った。


 大学時代の同級生、同じ学部、同じクラスに在籍していた男、1クラス50名の殆どが男性だったから、顔と名前を一致させるのは容易ではなかった。それでも彼の事はしっかりと覚えている。

 彼と私の間に特別な思い出は無い。だけど彼の優しさだけは、しっかりと私の心に残っている。


 学生時代のある日、授業と授業の間、教室を移動する時に、激しいにわか雨に遭遇した事がある。

 私は全身びしょ濡れになった。それは頭から水が滴り落ちるほど酷い濡れ方だった。

 そのまま授業を受ける訳にはいかず、私は途方に暮れる。


 その時偶然、私の前に現れたのが彼だった。

 同じようにびしょ濡れになった彼は、背負っていたザックの中からスポーツタオルを取り出し、濡れた頭を拭こうとしていた。

 次の瞬間、私の視線に気づく。

 頭を拭こうとしていた手を止めた彼は、つかつかと私のほうへ近づいてきて、握っていたスポーツタオルを差し出してきた。


「良かったら、どうぞ……」

 そう言い残して、彼は私の前を去った。

 先に使ってください、私はそう言うつもりだった。

 だけど、私に背中を向けた彼は、あっという間に遠ざかってしまう。

 私は渡されたタオルで、顔を拭き、髪の毛を拭き、全身を拭いた。

 タオルは、ずしりと重くなった。そのまま返す訳にはいかない。だから洗濯をしてから返す事にした。


「昨日は有難う…… お陰で助かったわ……」

 そう言ってタオルにお礼のクッキーを添えて返した。

 私は少し緊張していたように思う。

「良かった…… 風邪、引かなかった?」

 彼はそう言って微笑んだ。その優しい笑顔は私の緊張を解きほぐし、心にぽっと灯りを点してくれた。

あの優しい笑顔…… それは今でも私の胸はキュンとさせてくれる。


 今、私に付き合っている男は居ない。以前付き合っていた男とは三ヶ月前に別れた。

 偶然、飲み屋で知り合った男性だった。行きずりの恋に落ち、一夜で終わる筈だったが、二度、三度と会う事になり、気付いたら一年も付き合っていた。

 初めのころは多少のときめきがあったと思う。でも月日が経つにつれ、ときめきは無くなり、会話は減り、身体を交し合うだけの関係が残った。

 終わりだな、と思ったタイミングが一緒だったのは幸運だったかもしれない。

 後腐れの無い別れは、清々しさと、虚しさを同時にもたらしたが、そこに切なさは含まれていなかった。


 理系の学部を卒業し、技術職として就職した私は、男社会の中で揉まれてきた。

 心がときめくような甘い恋愛をしてみたい、そんな願望もあったが、生き抜いていくのに必死で、恋に焦がれている余裕なんて全然無かった。

 何人かの男と交際はしてみた。だけど、どれも理想とはかけ離れたものばかりだった。


 私を救い出してくれる人が現れないだろうか……

 そんな事を思って居る時に彼に出会えた。


 「やっぱり、そうだよね……」

 私のほうから声を掛けた。そこに躊躇いは全く無かった。

 寒さに首を竦め、電車の到着を待つ彼の姿を見たとき、私の心はほんのりと温かくなった。

 電車の方向が逆だったのは残念だったが、連絡先を交換する事が出来た。

 随分と長い間忘れていたような、心のどよめきを感じ、ドキドキしながら電話を掛けた。

 弾む心を必死に抑えて、話を紡ぎ、なんとかデートの約束まで漕ぎ付けた。


 デートまでの三日間、私はエステに通い、ダイエット食に切り替え、美容パックをして眠った。

 そんな事をしたって何ひとつ変わらないのは分かっていたけど、何かをせずには居られなかった。


 彼は、私にとっての王子様……

 雨に濡れて途方に暮れていた遠い昔も、心が荒んで消えてしまいたいと思っていたあの時も、白馬に跨って、私の前に現れてくれた。

 彼の事を思うと、胸が高鳴り、息が苦しくなり、頭がぽーっと熱くなる。

 きっと、これこそが本当のトキメキなのだろう。


 横浜駅の西口で待ち合わせをした私たちは、お洒落なイタリアンレストランで食事をした。

 寡黙な彼に話しかける私、私の話し掛けに一生懸命応えてくれる彼、沈黙が漂うのを恐れた私は必死になって喋った。暴走していないかと心配し、彼の笑顔を見て安心する。ずっとその繰り返しで、料理の味なんて、ちっともしなかった。

 彼の優しい笑顔、落としたハンカチを拾ってくれたり、料理を綺麗に取り分けてくれたり、空いたグラスにワインを注ぐ仕草も、テーブルの上で組んだ手も…… 何もかもが素敵だった。そこには常に優しさが込められていた。


 二軒目のバーに入ったとき、彼が帰りたがっているのが分かった。

 きっと私の事を気遣っての事だと思う。

 私の身体を目当てにしていた、これまで付き合ってきた男達とは全然違った。

 きっと、このまま帰ったほうが良い……


 「そろそろ、行こうか……」

 彼がそう言った時、私は頷くつもりだった。

 彼が描いている出口から退場するのが、一番スマートな答えだったように思う。

 だけど私の心は、それを許さなかった。


 私は彼を誘った……


 嫌われると思った。ふしだらな女だと思われたかもしれない。

 だけど、こんなチャンスはもう二度と来ない。

 このまま、このデートが終わってしまったら、もう次はやって来ない…… そう思えてならなかった。


 優しい彼は、私の誘いに付き合ってくれた。

 ベッドの中でも彼は優しかった。私が激しく求めても、彼は最後まで優しい人だった。

 彼のその無垢な優しさを感じたとき、私の心に切なさが込み上げて来た。

 彼の優しさは私への気遣いに他ならない。下心のない優しさが恋へ発展する事はない。

 もはや私に出来るのは、女として綺麗な去り際を演出する、ただそれだけ……

 

 空の色が変わり始めた時、私はそっとベッドから抜け出し、彼に気付かれないように身支度を整えた。だけど、心の中では気付いて欲しいと思っていた。

 口紅を取り出した時、鏡に映っている彼が起き上がった。

 残念な気持ちと、嬉しい気持ちが一緒に湧きあがってきた。


 「おはよう……」

 精一杯の笑顔を作って、そう言った。


 「朝イチの会議があるから、先に出るね」

 今日は土曜日、会議なんてある筈がない。

 私は左手でスカートを握り締め、クールな女を装う。少しでも油断したら、色んな思いが溢れてしまいそうだった。だけど彼の優しさに報いるためには、取り乱してはいけない。

 私は、どこまでもクールである必要があった。


 「そんなに悪く無かったでしょ……」

 彼の気持ちを断ち切るために言った捨て台詞……

 そう言い残して部屋を出る筈だったのが、最後に未練が零れてしまった。


 「もしも続きがあるのなら連絡ちょうだい……」


 パタン、扉が閉まる音がすると同時に、部屋の中の世界が消えた。

 私と彼の儚い恋が終わり、無の世界が目の前に広がる。


 私は、ドアの前にしゃがみ込んで、止め処も無い涙を流した。

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