背中合わせの恋 SIDE-A
背中に強い視線を感じる。
徐に振り返ると、彼女はニコリと笑っていた。
「昨日、ブラック・ウィドウ、観ました?」
「観たよ……」
「奥様と一緒ですか?」
「いや、一人で。うちのはさぁ、マーヴェルとか、あんまり興味ないんだよね」
「あぁ、そうでしたね……」
オフィスで席が背中合わせの僕と彼女は、何から何まで趣味が合う。
好きな映画はマーヴェル作品で、好きなアーティストはヒゲダン、プロ野球はベイスターズのファンで、スイーツは洋菓子よりも和菓子が好み、飲み会は最初から最後までビールを飲み続けるタイプで、バナナを食べるとお腹を下す…… そんなところまで気が合う。
彼女は僕の五年後輩で、笑うと目が極端に細くなるキュートな女性だ。
彼女の笑顔は僕に束の間の癒しを与えてくれる。彼女と会話をするひとときが僕にとっては至福の時間だ。
「これ、昨日見つけた和菓子屋さんで買ったどら焼きです」
「いいの? ありがとう」
「お茶淹れてきますね」
「ごめんね、手を煩わせちゃって」
「いいんですよ、好きでやっているんだから」
彼女はよくお菓子の差し入れをしてくれる。
一人で街歩きをする事が好きな彼女は、初めて見つけた和菓子屋さんに立ち寄ると、買ってきたお菓子を僕に食べさせ、感想を聞いてくるのだ。
「どうです?」
「美味しいね、随分とあんこがこってりとしている気がするけど、これ、なんだろう?」
「気付きました? バターが入っているみたいなんです」
「そうなんだぁ、どうりで……」
彼女は僕の感想を聞くと、ニッコリと笑う。いつもの事だ。
彼女には同い年の彼氏が居る。
彼とのノロケ話を聞かされる事もあるが、どちらかと言うと、不満のほうが多いような気がする。
最近は話をしながら溜息をつく事が多いので、もしかすると、あまりうまくいっていないのかもしれない。
ある日、彼女が右目に眼帯をして出社した。
僕は、「どうしたの?」、と声を掛けた。
別に深い意味はなく、軽い気持ちで話し掛けたのだが、彼女はポロポロと涙をこぼし始める。
ただ事ではない、と直感した。
「何かあったんだね」、そう言うと、彼女は顔を覆ってオフィスを出て行ってしまった。
暫くして彼女は戻ってきた。
「すみません…… 何でもないんです」
平静を取り戻してそう言ったが、なんとなくよそよそしさが漂っていた。
僕は声を掛けづらくなり、背中合わせの彼女に話し掛けるのを躊躇った。
その日は仕事が思うように捗らず、遅くまで残業をする事になった。
そして、オフィスに残っているのは僕だけになる。
そこへ彼女が現れた。
紙袋からお稲荷さんが3個入ったプラスチックケースを取り出し、「お仕事お疲れ様です」、といつもの笑顔を浮かべて差し出す彼女。
突然現れた彼女に驚いて固まっていると、彼女は、「本当は駅前の和菓子屋さんのいなり寿司が美味しいんですけど、今日はお休みで…… だからデパ地下のなんです」、と少し申し訳無さそうに話した。
「有難う、でもわざわざこれを届けに?」
「えぇまぁ、朝、ちょっと気まずい雰囲気になっちゃったんで……」
彼女は苦笑いを浮かべた。
「あと少しで終わるからさ、どこかで一杯飲んでいかない、お稲荷さんのお礼がしたいし……」
「ぜひ! 私もお話したい事があったので……」
それから三十分くらいで仕事の区切りをつけた。
仕事が終わるのを待ってくれていた彼女と僕は、会社を後にして、駅前にある行きつけの焼鳥屋に入った。カウンター席に座った僕たちは、生ビールで乾杯し、いつも会社でしているように話を始める。
彼女は眼帯の理由を話してくれた。
彼氏と喧嘩して腹がたった彼女はテーブルの上にあったアクリルのコップを彼氏に向かって投げつけた。すると、それが跳ね返えされて目尻に当たった。彼女はそう説明した。
それが真実かどうかは分からない。でも、彼女の涙を思うとそれだけじゃ無い気がする。
だけど深入りはしなかった。何と無くそれがお互いの暗黙のルールになっている気がするからだ。
生ビールのジョッキが軽快なペースで空いていった。
ほろ酔い気分になった僕は妻との事を少し話したように思う。でも、お互いのパートナーの話題は長続きしない。
気づいたら、会社でするような雑談になっていた。
映画とか、野球とか、最近気になっているアーティストの話とか…… 彼女がはまっているというYOASOBIの曲は僕のプレイリストにも4曲入っている。ベイスターズに対する嘆き節、アカデミー賞受賞作品の寸評、話し始めたらあっと言う間に時間は過ぎていった。
お笑い芸人のオズワルドが話題になった時、僕は終電が終わっていることに気づいた。
彼女も時計を見ていたから、きっと気付いていたと思う。
それでも僕たちは話し続けた。
結局、焼鳥屋の閉店時間まで喋り続けた僕達は帰ることが出来なくなり、ホテルに泊まることにした。
だけど駅周辺にある何軒かのビジネスホテルは、どこも満室で途方に暮れる。
「ここでいいんじゃないですか?」
目の前にあったラブホテルを指差して彼女が言った。
一瞬、二人で顔を見合わせる。
「うん、まっ、いっか……」
僕は苦笑いを浮かべて中へ入っていった。彼女の真意を弾き出そうと頭をフル回転させながら……
平静を装っていたつもりだ。だけど僕の心臓はドクドクと音を立てている。
色んな葛藤が渦巻いていた。それが期待なのか不安なのか、確信なのか懸念なのか、それは分からない。過ちと言うのは、こういう成り行きで起こすものなのかな、とも思った。
間違いなく僕の本能は彼女を抱きたがっている。
それは、この場所を選んだのが彼女だと言うのもあるし、妻との関係がうまくいっていないという状況もある。それに僕は彼女の事が好きだ。
だけど、僕はそうしなかった。
その選択が僕にとって、いや彼女に対して正しかったのか、それは分からない。
僕自信は、どうなっても良いと言う覚悟は持っている。
だけど彼女を煩わしい事に巻き込むのは憚られた。
僕と妻との紛争に彼女を巻き込んではならないし、彼女と彼氏の関係を僕が壊す訳にはいかないと思ったからだ。
ラブホテルのベッドに並んで寝転がり、プラネタリウムのように星が瞬く天井を見上げ、僕たちは、朝までずっと話し続けた。好みがどこまでも重なる僕と彼女だから、話のネタが尽きることは無かった。
朝になってホテルを出るとき彼女がニヤリと笑った。
「二人だけの秘密が出来ちゃいましたね」
「二人だけの大切な思い出にしようね」
僕は彼女の瞳を見つめて、意味ありげに微笑み返した。
そんな事があってからも、僕と彼女の関係は変わっていない。
彼女の視線を背中に感じて振り返る。
彼女の笑顔に癒され、束の間の会話を楽しむ。
向き合ってするのが恋で、同じ方向を見つめるのが愛ならば、背中合わせの僕たちの関係は何になるのだろう?
ふとそんな事を考えたら、思わず頬が緩んだ。