漂いながら SIDE-A
「ねぇ、続きは丘に上がってからにしましょう」
彼女は、額を押し付けてそう言った。
僕は梅雨明け直後の湘南海岸に来ている、大学の男友達三人と共に。
目的はナンパだ、と言っても、どうみたって冴えない男グループ、成功する確率なんて、真夏に雪が降るくらいあり得ない、僕はそう思っていた。
仲間の中で、もっとも女性経験が豊富なのは勝也だが、貧相な体型にカマキリのような顔、街の中で着飾れば、それなりの見栄えにはなるが、ビーチでは全く映えない。残り二人の色白で弛んだ腹など論外だ。そういう僕だって大差は無い、でも元々地黒だし、腹は出ていない、高校時代は野球部で身体を鍛えていたから、それなりに均整は取れている。この中ではマシなほうだと思う。
でも……
僕には女性経験が無い、いわゆる童貞なのだ。
友達三人がこの状況をどう捉えているのか、それは分からないが僕には未来が見えていた。
期待しているような事は起きず、海を眺めビールを飲み、日が傾き始めてビーチを去り、駅前の居酒屋で反省会をする。きっと、そんなところだろう。
僕の人生もそうやって時間が過ぎていく、女性と関わる事無く……
勝也は、さっきからずっと、水着の女性に視線を送り、コミュニケーションを図ろうとしているが、返ってくるのは苦笑いばかりで、手ごたえなど全く無い。残りの二人は、ナンパに行こうぜ!、と意気込んでいたのに、その素振りすら見せずに寝転がって身体を焦がしている。
僕は、ビーチに持ち込んだバドワイザーを飲みながら、ぼんやりと海を眺めていた。
目的さえ忘れてしまえば、決して悪い状況ではない。潮風を全身に受けて、キラキラと輝く海をバックに華やかな水着姿の女性を眺め、乾いた喉をビールで潤す、気分は上々だ。
好みの女性を物色しようと視線を巡らせている時だった、大きな麦わら帽子を被った白のビキニ姿の女性と目が合ったのは。
何となく気まずい感じがして一瞬目を逸らす。しかしやはり彼女の存在が気になり、視線を元に戻すと、再び重なった。
今度は、視線を逸らす事が出来なくなった。それほどまでに、二人の視線がしっかりと重なっている。
胸の鼓動が時を刻む、一秒、二秒、三秒……
彼女は一瞬、視線を海に向け、また僕のほうを見つめてくる。
気のせいかもしれないが、誘われているような気がした。
僕が海に向かって歩き始めると、彼女は麦わら帽子を脱ぎ捨てて立ち上がった。
やっぱり……
「おい、どこ行くんだ?」
相変わらず女性の品定めをして、ニヤニヤしている勝也が言った。
「ちょっと身体を冷やしてくる」
「飲んでるんだから気をつけろよ」
「あぁ……」
勝也がついて来るんじゃないかと思った。しかし来なかった。そう言えば勝也は泳ぎが苦手だと言っていた気がする。
波打ち際でサンダルを脱ぎ捨て、打ち寄せる波をかき分けるように前に進む。少し後ろに彼女の雰囲気を感じながら。
何かが起こる予感……
でも、ただの思い過ごしかもしれない。そんな思いもあったので、彼女の方を振り返る事無く沖に浮かんでいるブイを目指して泳いだ。泳ぎには自信がある、小学生の頃、スイミングスクールに通っていたからだ。
砂浜から数十メートル離れ、立ち泳ぎに切り替えると足が付かない深さになっていて、人の気配が消えた。砂浜のほうを振り返ると、彼女は美しいクロールで僕のすぐ傍をすり抜け、沖へ泳ぎ続ける。
僕は彼女を追った。
彼女は沖に浮かんでいるオレンジ色のブイに捉まった。
ブイとブイは等間隔のロープで繋がれている。ロープの間隔は5mほどだろうか。
僕は彼女の隣の白いブイに捉まった。再び重なり合う視線……
「こっちへおいでよ」
彼女が笑顔を浮かべながら手招きをした。
僕は、周りを見渡す。そこには誰も居ない。
足が付かないほど沖まで泳いでくる者は稀なのだろう。
浜辺にいる勝也が見えた。しかし小さくて何をしているかは分からない、という事はこちらも見えていない筈だ。
僕は彼女が捉まっているブイへ向かって、ゆっくりと泳いだ。
オレンジ色のブイを挟んで向かい合う僕と彼女。
間近で見た彼女は、すっきりとした端正な顔立ちに、真っ赤な口紅が映えていた。
予想外の距離の近さに驚いて僕が直視できずにいると、突然、彼女は両腕を僕の首筋に回してきた。
彼女の重さがずしりと伝わる。僕は沈まないようにと、背中越しのロープを両方の手で握った。
両手が塞がれた僕に、彼女は覆いかぶさるように抱きつき、唇を重ねる。
一瞬の出来事だった。
ねっとりと湿り気を帯びた彼女のキス……
聞こえてしまいそうな程に高鳴る鼓動……
頭の中が真っ白になり、取るべき行動を見失う。
「ねぇ、続きは丘に上がってからにしましょう」
彼女は、額を押し付けてそう言った。
言葉の意味を図りかねた僕は黙りこくる。いや言葉の意味は分かっていた。だけど悲しいかな僕には経験が…… そのコンプレックスが僕の本能にブレーキを掛ける。
不意に彼女の手が、僕の股間に触れた。
ニヤリと笑った彼女は、僕の耳元で囁く。
「大丈夫よ、私に任せて……」
全身の力が抜けて行く気がした。
本気で好きになってはいけない人だ、と僕の理性が叫ぶ。
しかし動き出した歯車は止まらない。
どうなってもいい、僕は未来への扉に手を掛け、彼女を思い切り抱きしめた。
二人の身体が一瞬沈んで、すぐに浮かび上がる。
僕の視界から、彼女以外の全てが消えた。
手に負えない女性かもしれないが、一度くらい溺れてみるのもありだと思った。