5)定めのような
早朝から、富士川端は人で賑わっていた。五日ぶりの川開けなのだ。増水していた川も、元の色を取り戻しつつある。
川を見下ろす高台で二人はもう一度向かい合った。
「高杉さん、本当にお世話になりました」
目の前の男は腰までの黒い外套を纏い、三度笠を右手に持ったまま深々と頭を下げた。
「そねいな他人行儀は必要ない」
晋作は、照れたように小さく首を振った。
「特に三島の宿までは、道端にまで死人が溢れてひどい有様です。病に罹った雷獣は、一応一通り回収をしてきましたが、新たな物が居ないとも限りません。どうぞお気をつけて」
「あぁ」
「それに江戸です。江戸は魔窟。くれぐれもお気をつけて」
「僕は、喜び勇んで江戸に上がるところじゃったんだが」
雷音の忠告する顔があまりにも真剣だったので、晋作は思わず苦笑した。
「水を指すようですみません」
「分かっちょる。世の中はそねえな物騒な時代じゃ。僕は常々、男子たるもの、死すべきところはどこなのかを考えちょる」
晋作の目が、眼前に聳える富士の峰に移った。
「再び黄泉の国に潜られる時には、お迎えに参りますよ。必ず」
傍らに並んだ雷音も、同じように富士の峰を見上げている。
富士川の流れの向こうに、朝日を受けて神々しく輝く富士山がある。二人の言葉は、その山への誓いのようにも聞こえた。
「きみはどこへ行く?」
「私は京へ向かいます」
「京へ?」
「道中、病に罹った雷獣を封印しながら、病をばらまいた罪人を追います」
「そいつは京に?」
「わかりません」
雷音は首を振った。
「ただ、そのような情報があるのは確かです。東海道沿いにそく死乃病が広がっているのとも、関係があるかもしれません」
川から吹き上げてくる風が、雷音の外套をはためかせる。
「本当は、高杉さんには、滅師としてこのまま、私と一緒に旅をして欲しいと思っているのですが」
雷音の顔は笑っていた。
「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」
「うん?」
晋作は、怪訝そうな顔で雷音の瞳を見つめた。
「分かっています。あなたにはやるべきことがあるのです。とても大事な、やるべきことが」
「やるべきこと、か」
晋作は自分に言い聞かせるようにそう呟き、視線を戻した。
視線の先に富士の峰がある。
「では、僕は行くよ」
「はい。またどこかで、お目にかかれますことを」
最後にもう一度、雷音が丁寧に頭を下げた。
「雷音君。僕は、きっときみに、またどこかで会うような気がしちょる」
雷音は答えなかった。
「では達者で」
晋作の言葉に、雷音は、まるで春の日だまりのような優しい笑顔を作って小さく頷いた。
「高杉さん」
振り返って歩き始めた晋作を、雷音の声が呼び止めた。
「奇兵はこの国の有り様を変えますよ。高杉さん」
「それはどねいな……?」
晋作が慌てて振り返った帰った時には、既に雷音の姿はその場から掻き消えてしまっていた。
*****
富士川の渡し場に出てくると、下流の方で三筋、細い煙が上がっているのが見えた。近くの茶屋の娘に尋ねると、野辺送りの煙だという。今月に入って、その煙が絶える日がないという。
「居ったか、高杉!」
懐かしい声が自分を呼ぶ。
少し先の船着き場の桟敷に、半蔵と二郎が座っていた。
「山県さん! 二郎さん!」
「わしらもちょうど今、着いたばかりじゃ」
「コロリ封じの薬を買うておいたど」
二郎は懐から薬袋を出しながら、背後の茶屋の列を指差した。『そく死之病封じ』と太文字で書かれた旗が出ている薬屋があった。
「こねえなものあったのか」
薬袋の裏に記された効能書きを眺めながら、晋作はひとり言のように呟く。
「コロリ除けならよか方法があいもすぜ、旦那方」
いきなり前方から声をかけてきたのは、がっちりとした体格の真っ黒に日焼けした飛脚だった。担いでいる文箱には、丸に十字の家紋が入っている。薩摩藩の飛脚のようだ。
「さすがは飛脚じゃ。話の通りがよいのう」
二郎が嘆息する。
「で、どんな策じゃ?」
「へい。臍ん両側に、こう、こん辺いに灸を据ゆっんで」
男は手振りを交えながら、その方法を説明した。
「灸?」
「へい」
「そねえなもので効果があるのか?」
「へい。ちょうど二年ほど前に、同じよな病が薩摩でん流行ったこっがあいもした。そん時、そん灸を据ゆっ方法が広まってから、死人が出なくなったでごわす」
「それは有り難い。早速あちらに渡ったら、それを試してみよう」
半蔵が大きく頷く。
事実、彼らはこの方法を信頼したようで、【川を渡り終えた茶屋で早速その方法を試した】と、晋作は道中日記に記している。また、【江戸の藩邸についてからもこの方法を仲間に広めて有り難がられた】とも書き添えられている。
しかし、雷音とともに過ごした一夜のことは、
【定めのような刃との縁があった】
と、ほんの一行、簡単に記されているだけであった。