4)雷の刀
時の鐘が、申の刻の始まりを告げる。太陽は、わずかに西に傾き始めていた。
岩渕の一里塚は、江戸日本橋からちょうど三十七番目に当たる。街道が大きくくの字に曲がる位置にあり、両脇に榎が植えられている。その榎の向こうに雪をかぶった富士が聳える。この辺りは、中之郷村と岩渕村との村境である。一里塚の周囲の街道の両脇には、名産の「栗ノ粉餅」を売る茶店が軒を連ねている。今日は、川留めの影響で客足が少ないためか、ほとんどの店が閉めているようであった。
「高杉さん!」
少し先の茶屋の店先で自分を呼ぶ声がする。雷音だ。
「すまぬ。待たせたか」
「いえ。のんびりとお茶をいただいておりました。高杉さんもいかがですか?」
日の光の下で出会う雷音は、昨日の彼とまた違った雰囲気に見えた。髷どころか月代も剃っておらず、わずかに茶色みがかった髪は、散切りと呼ばれる西洋風の髪型に整えられている。歳は高杉と同じくらいだが、その髪型のおかげで、彼より幾分若く感じられた。袴姿の上に黒い外套を纏い、それはこうして茶屋に座っている際にも脱ぐことは無かった。
「ここも松の内のにぎわいは変わらず、か」
高杉は改めて街道沿いを見渡した。旅人は少なかったが、鐘や銅鑼を鳴らして歩く男達の姿が、ひっきりなしに目に入ってくる。
「明日になれば渡しが再開し、再び尾裂狐が川を渡ってくるのではないかと恐れているのです」
見えない物に対する恐怖は増幅し、人々の間に、過剰なまでの対策をとらせているようだ。そもそも、謎の病に、正月をやり直すくらいで対抗できうるはずは無い。漢方医はこぞって特効薬を開発し、民間療法の類いが書かれた読売が飛ぶように売れていた。辻に立つ高札にさえ、そく死乃病のことが記されている。
「さて。ではそろそろ参りましょうか」
栗ノ粉餅を食べ終えた二人は、並んで店を出た。
「この先です」
一里塚から約半里、十八町ほど山道を登ったところに、目的の神社の鳥居が見えてきた。
山間の集落は既に日が陰り、神社周辺は物寂しい雰囲気が漂っていた。
「日向山神社と言います。まぁ、この辺りの人には、もっぱら、明見神社と呼ばれているようですが」
狭い石段を上りながら、雷音が説明をしてくれる。
「あそこに見える灯りが、今宵の宿です。田舎宿ですが、張り切って夕食の準備をすると申しておりましたので、期待していて下さい」
雷音は、そういって穏やかに微笑んだ。
神社の本殿を回り込んで、二人は更に薄暗い道を進む。
裏手に、石造りの小さな祠があった。
「ここです。高杉さん」
雷音はようやくそこで足を止めた。準備してあった提灯に火を入れる。
さすがの晋作も、その場の雰囲気に少したじろいだ。
重苦しい空気。薄暗い森。灯りが灯ったことでわずかに心丈夫になったが、それでも不安の気持ちが波のように押し寄せてきていた。
「この中に雷獣が居ます」
雷音はそう言うと、祠の中から、まるで骨壺のような瓶を次々に取り出してきて、晋作の前に並べた。
「六体、か」
雷音が立ち上がって頷く。
「高杉さん。この刀をお使い下さい」
そんな晋作の前に、雷音は一振りの刀を差し出した。
「おそらく、雷獣を斬られた刀、既に使い物にならなくなっているはずです」
「なんじゃと?」
晋作は、慌てて腰から愛刀を引き抜いた。
萩を出る時に念入りに手入れをしてきた刀は見る影も無く錆び付いていた。つい昨日まで、万能の切れ味を誇っていた刀である。
「これは」
「雷獣の体液には、酸化液というのが含まれているのだそうです。あの黒緑色の体液です。特殊な刀でなければ、すぐにそのように、錆び付いて使い物にならなくなります」
雷音はそう言って、晋作に、自分の刀を受取るように促した。
鍔に細やかな彫り物がされた刀は、晋作が愛用する刀と同じ二尺六寸を超える長刀だ。
「長さ的には、ご希望通りだと思いますが」
雷音の言葉を背に、晋作はその刀を抜刀した。しっとりと濡れるように艶めく刀身に、さざなみのような波紋が浮かんでいる。
「この刀は……」
「特殊な処理をした、滅師の使う刀です」
晋作は、もう一度まじまじと手の中の刀を見つめた。
反りの少ない刀身は、流行の勤王刀の姿に似ていた。しかし、それとは比べ物にならないほどに軽い。刀身が薄いのだ。その薄い刀身全体が、水で包まれているかのように濡れている。
「涙月雷という銘です」
「るいげつのいかづち……」
「涙に月の雷と書きます。思っておられるよりも頑丈で、切れ味は抜群ですよ。高杉さん」
雷音は、石段の脇の石灯籠に提灯の灯りを移す作業を始めている。
揺らめく蝋燭の炎で、刀身は涙で潤んでいるように見えた。
「お心の準備ができたら始めましょう」
「あぁ」
晋作は、刀の柄を握り直し、大きく深呼吸をした。
それから、静かに片足を引き腰を落とす。
意識を集中させると、体が、手の中の刀と一体化するような不思議な感覚に包まれた。じんわりとぬくもりが伝わってくるようだ。
「いつでもいい。来い」
「雷獣は、己を見る者の元に集まります。病に冒されていても、その性質は変わりません。ひとつひとつ解放します。思い切り、斬って下さい」
そう言いながら、雷音は晋作の背後に回る。
「始めます」
「おう」
雷音が低く何かを唱えた次の瞬間。左端の瓶の蓋が音を立てて外れた。
中から、黒い獣が這い出てくる。それは先日見た物とも、雷音の持っている管狐ともまったく違う形をした生き物だった。
「来ます!」
雷音の鋭い声がしたのとほぼ同時に、その不格好な蛇のような生き物が飛び跳ねるようにして晋作に向かってきた。
「やぁ!!」
思いきり唐竹に振り下ろした刀は、雷獣に触れてまるで雷のような閃光を迸らせた。
次の瞬間には、ドサッという湿った音を立てて、真っ二つに斬られた胴体が地面に落ちた。シュワシュワと泡の消えるような音を立てて、見る間にそれは消え失せていく。
「お見事!」
雷音が感嘆の声をあげる。
「さすがは高杉さん。一刀両断ですね」
「いや。この刀の切れ味が素晴らしいのじゃ」
晋作は刀身を炎にかざしてみた。刃こぼれどころか、血糊さえもついていない。
「それにあの光……」
「雷獣は特殊な雷によって作られるといいましたよね。ゆえに雷獣は、雷の精力をその身に宿しているのです。その刀、涙月雷も特殊な雷によって作られます。雷獣を作り出すのとは正反対の力、作り出したものを元に戻す力です。汚れた雷獣は、その刀に封じられている力によって滅びます。二つの雷の力がぶつかることで、その力が光となって先ほどのように弾け飛ぶんです」
晋作の疑問に、雷音が抑えた声で答える。
「次、行きます」
「おう!」
雷音の合図で、再び同じ作業が、繰り返される。
晋作の剣は冴えわたり、面白いほどに気持ち良く雷獣が滅せられていく。
「いよいよ、次で最後です。少し休みますか?」
五体までを連続で斬って、さすがの晋作も息が上がってきていた。
雷音の言った通り、刀の切れ味は抜群で、まるで豆腐でも斬るかのようにスパッと斬れる。しかし、向かってくる雷獣にタイミングを合わせる緊張感は、晋作の神経をすり減らしていた。
「いや、大丈夫じゃ。続けよう」
晋作はもう一度大きく深呼吸をして、刀を握り直した。
静かに正眼に構える。
手のひらに、じっとりと汗をかいていた。
「分かりました。では最後の封印を解きます。最後のは、結構大物です。気を付けて下さい」
「承知した」
ほんの少し足を開き、腹に力を込める。
「行きます!」
雷音が封印を解く。
ガシャン
大きな音を立てて瓶が割れた。
晋作の目の前に大きな黒い影が立ちはだかり灯篭の明かりを遮った。
「な、なんだ、これは」
こんな大きな物がどうしてあの小さい瓶に入っていたのか想像もできないほどに大きな生き物が、目の前に居る。晋作は、刀を握る手に一層力を込めた。
「おそらく、イノシシとシカの雷獣です」
雷音がそう言った刹那、黒い影が飛びかかってきた。
「たぁ!!」
晋作が袈裟懸けに振り下ろした刀は、雷獣の角に弾き返された。
「しまった!」
その衝撃で、晋作の手から刀が弾き飛ばされる。晋作自身も、その反動で地面に叩き付けられた。
「高杉さん! 危ない!!」
ぐぉぉぉん
腹の底に響くようなうめき声をあげて、雷獣が鼻先をこちらに向けた。
倒れ込んでいる晋作に向かって、雷獣が再び角を振り上げた。
「ぐっ」
「雷音君!」
間一髪の時機で、晋作の目の前に雷音が立ちはだかった。
「雷音!!」
ポタリポタリと、赤い血が地面に落ちる。雷音の左腕に、雷獣の角が突き刺さっている。雷獣の額に伸ばされた右手が剣印を結び、かろうじて雷獣の動きを封じている。
「高杉さん! 早く刀を! あまり保ちません」
雷音の声から、切羽詰まっている状況が感じ取れた。
「分かっちょる。任せろ!」
「うわっ」
強引に雷音を宙に跳ね上げた雷獣が、再び晋作に向かってくる。
晋作は、地面に転がる涙月雷を拾い上げ刃を立てた。
「叩き斬っちゃる!!」
晋作の叫び声が、すっかり彩度の落ちた境内に響き渡る。
まばゆい閃光が火花のように散った。境内はほんの一瞬、真昼のような明るさに包まれて、再び沈黙した。
ドサッ
大木が倒れるような音を立て、額から尾にかけて真っ二つに斬られた雷獣が、静かに左右に崩れ落ちていく。地面に落ちた体から湯気が上り、今までの倍の時間をかけてゆっくりと消えていく。
晋作は、固く握りしめていた両手を、一指ずつゆっくりと柄から離した。
「雷音君……雷音君!!!」
思い出したように、地面に倒れている雷音の元へと駆け寄る。
「雷音君! 大丈夫か」
「やりましたね、高杉さん。怪我はありませんか」
「僕のことはどうでもいい、きみの腕の方が大事だ」
晋作は懐から手ぬぐいを取り出すと、雷音の腕の傷を押さえた。
「手ぶらで出てきて失敗しました」
「とりあえず止血を。この村には医者はおるか? 僕が呼んで来ちゃる」
言いながら、ギュッと強めに手拭いを雷音の腕に縛り付ける。
「大丈夫ですよ、高杉さん。戻れば薬があります。香具師というのは、薬も商うのです」
「しかし」
「大した怪我ではありません。心配いりません」
「そう言うが……」
「それより、ここを出ましょう」
「あぁ。僕が片付けをやろう。指示してくれ」
晋作は雷音に手を貸し、彼が起き上がるのを手助けした。
「片付けと言っても、ほとんどないんですよ。瓶は割れているのでそのままここに置いていきますし、灯籠の灯りを消すくらいです」
「この刀は」
「それは高杉さん、あなたがお持ち下さい」
「僕が?」
「あなたの刀は、錆びて使い物にならない。おそらくもう一日もすれば、刃こぼれして崩れるでしょう」
「雷獣の体液はそねえに強い物なのか」
「えぇ」
晋作は、放り投げてあった錆びた刀を拾い上げた。先ほどよりも錆が進んでいるようにすら見える。その刀を、雷獣の半身が落ちた地面に突き刺した。ボロボロと刃先が零れ落ちる。
「涙月雷は、自ら雷獣の体液を浄化する作用を持っているのです」
晋作は、左手の刀を見た。涙月雷の刀身を波紋のように水滴が流れ落ちていく。雷獣の黒緑色の体液は、既にほとんど洗い流されてしまっていた。
「今後のあなたに、きっと必要になる刀です」
「今後?」
「今後、あなたの元には、雷獣が集まってくるでしょう。通常の雷獣は、庇護を求めてくるだけで襲ってくることはありませんが、目の赤い雷獣は別です。滅師に滅ぼされることを本能的に悟り攻撃してきます。それはあなたが斬るべき相手です。そく死之病が流行っている江戸への道中、再び雷獣に襲われないとも限りません」
雷音が灯籠の灯りを吹き消すと、深い夜の闇が空から舞い降りてきた。遠くで梟が鳴く声がする。
「ぜひ、お持ち下さい」
晋作は、濡れる刀身を、静かに鞘に納めた。