2)宿にて
「そうですか。この度はえらい目にあって、お里がお世話になりました。お武家さん達がおられなければ、お里は尾裂狐に取り憑かれていたかも知れませぬ」
蒲原宿の山野屋という旅籠の一室である。
晋作達が助けた娘はここの女将の親類で、奉公人としてここで働いているのだという。それを聴いた女将が、慇懃にもてなしてくれている。旅装束をほどいたお里も、女将の隣りに畏まっている。髪を結い直し、薄く化粧をした娘は、艶やかな色香を漂わせていた。
「その尾裂狐ちゅうのはいったいなんじゃ? 昨晩、金谷の宿で、異人が放した云々という話は聴いちょったが……それになんとかモグラとか……いずれもこの賑わいと関係があるのか?」
一同を代表して、半蔵がその疑問を口にした。
蒲原の宿は、まさに盆と正月が一緒に来たような賑わいだった。大棚の店先には豪華な門松が立ち、家々の軒先には正月飾りともとれる注連縄が張り巡らされていた。少し先の東漸寺の門前では、お百度を踏む人の声やら、夕暮れ時になってもお参りに行こうとする人の波やらがひっきりなしに続いていた。
「はい。この先の吉原の宿で、原因不明の病が蔓延しているそうで、それはもうささらほーさらなありようだとか。この町のお医者の話では、数年前に長崎で流行した、そく死之病と同じものでないかということでございます」
「そく死之病?」
二郎が身を乗り出した。
「その病にかかると、ころりと死んでしまうとかで、コロリと呼ぶ人もいるそうです」
コロリというのは、コレラのことである。コレラ菌による急性伝染病だ。
「その病が、尾裂狐と関係していると?」
今度は晋作が女将を見た。
「はい」
女将は小さくため息をついてから、
「なんでも、英吉利の船が、管狐を数千匹船に積んでやってきて、それを香具師が原宿と吉原宿の中間辺りの海岸に放したとかで……コロリはこの狐が人に取り憑いて広めるそうで、吉原の辺りではひどい惨状とか……」
悲しそうに視線を落とした。
「そねえにひどい有様なのか?」
「なんでも、村一つが全滅したところもあるそうにございます。先日、吉田神社に代参する下香貫村の若い衆から聞いたところでは、富士川の向こう側、吉原より東の街道沿いには、一家揃って病にかかり、助けを求めて行き倒れた人や乞食などの死体が放置され、ひどい臭いがしているとか」
連日の蒸すような陽気である。放置された死体がどのような有様かは、想像するのも厭われた。
「それはひどい」
晋作は顔をしかめた。
「何しろ、そのコロリという病。急な吐き気とひどい痢病に襲われてあっという間に死に至るとか。しかも、腹の中をボコボコと狐の這い回る痕が見え、手足の筋をつめて即死し、すぐに全身真っ黒くなると。看病するものに次から次へと……。誰も病人に近づきたがりません。原因がはっきり分からないので、恐ろしくてなりません。もう神仏におすがりするしか手がないと……」
「それで吉田神社か」
晋作が低く呟いた。
京都・吉田神社は、この時代、神社総元締めを自認した大社である。幕府との繋がりも深く、吉田社の許状がなければ神職と認めないとする法度が天明二年(一七八二年)に発布されている。この未曾有の伝染病の被害に対し、駿東郡下香貫村(沼津市)とその隣の深良村(裾野市)の人々は、厄除けのために吉田神社の勧請を決めたと記録にはある。
「この辺りでは、三峯の御犬様を借りに行ったり、津島大社に御札を貰いに行ったりする者も多くおります」
「三峯?」
「三峯山は狼をご神体として祀る神社でございます。狐を退治するには狼の力が必要だということで、三峯に参って御犬様のお札をもらってくるものも多いのです」
「うむ。確か津島大社は、牛頭天王を祀る疫病避けに霊験あらたかとされる神社であったな」
「はい。蘭学医さえ手に負えぬとのことで、もう神仏の加護を祈るしか方法はありません」
女将は沈痛な表情で視線を落とした。
「お里の実家はこの先の岩淵宿の近く松野村なのでございます。先月二十五日、この子の知り合いの船頭が、竿を持ったままコロリで死んでから、松野村でも死人が相次いでおり、連日葬式が絶える日がないとか。それで今月に入るとすぐに、この子は、うちの番頭と共に津島大社へ御札を貰いに行ってきたのです。昨日はその帰参の日でした」
女将がちらりと視線をあげ、傍らのお里を見る。お里は小さく頷いてから、その話を継いだ。
「茶屋に同郷のもんがおるもんで、旅から戻ったことを伝えに立ち寄ったんでごぜえます。牛頭天王の御札を貰ってきたとわしが口にしたとたん、はす向かいの石に腰掛けていた男が、いきなり立ち上がって……」
立ち上がった瞬間に緩めていた帯がほどけて男の腹が見えた。そこに狐の姿を見たお里は悲鳴を上げて駆けだした。
男は、牛頭天王の御札を拝ませてくれと、必死の形相でお里を追って街道に走り出たのだという。
「あの男、コロリだったのじゃな」
半蔵の言葉に、娘はまた小さく頷いた。
コレラ菌は、体内に入り排出され水を汚染し、また再び体内に入るという循環を繰り返しどんどん劇症化し、その致死率を上げる。ひどくなると三日コロリどころか一日コロリと言われ、感染後すぐに症状が出て、その日のうちに見る間に死に至るほど、その毒性が強くなる。脱水症状が毛細血管さえも破壊し体中に内出血を起こすため「黒くなって死ぬ」ように見える。もっとも、このような医学的な知識を当時の民は知る由もない。
「それと、一昨日のことでございますが、岩渕の宿で千年モグラという化け物が捕まったそうでございます」
「千年モグラ? いったいどんな化け物じゃ?」
半蔵と二郎が同時に顔をしかめた。
「詳しいことは私どもにも分かりませんが、なんでも、猫ぐらいの大きさで顔は馬、胴に毛があり、足は人間の赤子のようであるという話でした。切支丹の僧が放った化け物だそうで、これもコロリを運ぶ由にございます」
「いんや女将さん。わしが聞いた話では、顔は狐に似て、足は猿のようであったとか」
「あら」
女将はお里の方に視線を流してから晋作達の方に向き直り、
「どちらにしても、何とも恐ろしいことにございます」
と眉を寄せた。その表情には、かなりの疲労の陰が浮かんでいた。目に見えぬ怪異に恐れおののいている様を如実に表していた。
「それで、不吉な年を早く終わらせて新しい歳神様迎えようと、こうして正月をやり直しているところなのでございますよ」
蒲原宿だけではなく、街道の家々が松の内のような飾り付けや鳴り物を吊るして騒いでいるのは、そのような理由であった。
女将は、知っていることを一通り話し終えると、お里を伴って階下に下りていった。
「恐ろしいことじゃのう」
二郎がそう言いながら、夕食で膨らんだ腹を叩いた。夕食は、海の近くの宿場だというのにほとんどが山のものだった。魚がコロリには悪いというので、魚屋も漁師も仕事をしていないのだという。
「なんじゃ? 二郎さん、恐ろしゅうなったのか?」
負けず嫌いの晋作が、揶揄するような口調を二郎にぶつけた。
晋作とて、恐ろしくないはずがない。彼のこの日の道中日誌には、【恐ろしいこともあるものである】と言った記述と共に、【江戸に着くまでに自分が尾裂狐に取り憑かれないか心配だ】という趣旨の記載もみられるのだ。元々それほど体が丈夫ではない晋作のことだ、人一倍、コロリ感染に対して不安を抱いたはずである。それでも、そんな弱音を吐く男ではない。
「高杉は怖くないのか?」
真顔で聞き返す二郎に対して、
「僕はそねえなもの、怖くない」
と力強く返事をした。
「もしそねえな化け物に取り憑かれそうになったら、この刀で叩き斬っちゃるよ」
晋作の声は興奮していた。
「しかしのう……目にも見えぬ化け物じゃど」
「僕は化け物なんぞ何とも思わん。尾裂狐だろうが千年モグラだろうと、こう、腹にグッと力を入れておけば取り憑いたりはせん。弱気になった方が負けじゃ」
根拠のない自信である。そんなものでも、こうもっともらしく力説されては信じるほかはない。
「では、もしもの時にはお主に頼ろう」
「任せて下さい」
二郎の答えに、ドンと自分の胸を叩いた。
「それは頼もしいな。のう、山県さん」
「本当じゃ。頼もしいことじゃ。お主の剣の腕を頼りにしておるで」
「いや、そもそも高杉の殺気に気圧されて、出ても来られぬのではないか?」
二郎と半蔵は顔を見合わせて笑い出した。
「それは何よりじゃ」
それにつられて晋作も小さく笑った。
しかし、晋作には引っかかるものがあった。昼間のあの黒い塊のことだ。怪しく動き回るその物体は、明らかに生き物だった。しかし、それを誰も見ていないというのだ。背後から全体を見渡していたであろう二郎も半蔵も、見てはいないという。
「どけぇ行くんじゃ?」
立ち上がった晋作が、刀を取り上げたのを見て、半蔵が声をかけた。
「ちょっと夜風に当たってきます」
晋作はそういって部屋を出た。