1)邂逅
この作品は、2014年の空想科學小説コンテストにて第2席を受賞し、SFファンジン(全日本中高年SFターミナル主催)に掲載された小説の転載です。
時間が経ち、ファンジン自体も手に入りにくくなっているので、ここに載せておきます。
なお、転載にあたり、一部表現などを変えている箇所があります。
密教の中心的菩薩である金剛薩唾の名を冠す峠、薩唾峠。
この高台から望む景色は絶景だ。険しい山道を抜けたところで、一気に視界が開ける。その開放感たるや、そこに至るまでの苦労が一瞬で吹き飛ぶほど絶大なものだ。
「おい、高杉、境。富士の峯があそこに見えるど」
前を行く男が、立ち止まって後ろの二人を振り返った。
小走りになって坂道を駆けあがった男達は、その光景に息を飲んだ。緩やかな曲線を描く海岸線の向こうに、円錐形の美しい山が覗いている。
「噂にたがわぬ眺めじゃ」
あばた顔に馬面の男は、滴り落ちる額の汗を拭くのも忘れて、目の前の光景に心を奪われた。
長州藩士、高杉晋作。
この時まだ若干二十歳。萩城下では鼻輪をつけない暴れ牛と評されていた晋作だが、表情は幼さすら残すほどに穏やかだった。
「実に運がええ。夏は雲がかかってあまり見えんというが、今日は、ええ天気じゃから本当に美しい」
手ぬぐいで額の汗を拭きながら、先ほど二人に声をかけた男が言った。山県半蔵(後の宍戸璣)。藩校明倫館の学頭である山県太華の養子である。晋作よりも十歳年上だ。既に何度か江戸へ上り、江戸藩邸での生活を経験している。もう一人の同行者は、松下村塾の学友で、晋作より四歳年上の境二郎(後の齊藤栄蔵)である。
時は、安政五年(一八五八年)八月十三日。
七月二十日に萩を立った晋作と二郎は、三田尻で半蔵と合流してから船で上方へ向かい、そこから中山道を経て東海道を江戸へと向かっていた。
「さすがは天下随一の街道じゃ。江戸では、歌川広重の東海道五十三次の浮世絵が人気で、東海道を旅する人が増えたともっぱらの噂じゃが、この眺めではさもありなん」
二郎が口にしたその話は晋作も知っていた。
松下村塾の仲間の多くが、既に江戸へと旅立っている。彼らからこまめに寄せられる江戸の情勢は、晋作も当然耳にしていた。江戸や京から寄せられる塾生達の話をとりまとめている『飛耳長目帳』を、ここ数ヶ月何度も何度も読み返していた。そして、いつまでも旅立てないことに悶々とした日々を送っていたのだ。厳格な両親から離れられるという開放感もあって、晋作の気分は格別に浮き立っていた。
「駿河の国、特に薩唾峠から見る富士が最高に立派だと、玄瑞からの手紙にも書いてあったけぇのう」
「高杉は、何かっちゅうと久坂に対抗するのう」
二郎が呆れたように笑う。
玄瑞とは、松下村塾の双璧と言われ晋作の好敵手ともみなされている久坂玄瑞のことだ。
江戸では既に、尊皇、開国、攘夷といった各々の考えを持つ若者達が動き出そうとしている時だというのに、晋作の江戸遊学の名目は「文学修行」である。それも、師である吉田松陰に頼み込み、何とか周布政之助宛ての推薦状を書いてもらって勝ち取った権利だ。この頃の晋作はそれを言葉通りにしか捉えておらず、街道沿いの名所を見物しながらの物見遊山の旅であった。
眼下の駿河湾に、晩夏の太陽が照りつけている。キラキラと光を返す海には、白兎のような波が絶え間なく寄せている。青く見える富士の頂は、うっすらと白粉を振ったかのようだ。下界はこの暑さだが、山頂付近は既に初冠雪を迎えたらしい。駿河湾を手前に従えた勇壮な富士の山は、頂上にわずかに雪を頂き、神々しいばかりの姿で、晋作の詩心をくすぐった。
「見事じゃのう」
空は青く澄み渡り遮るものもない。八月中旬(現在の九月中旬)のこの時期は晴れる日が多いが、空に雲一つないような快晴の日は珍しい。青空に浮かぶ神々しいその霊峰に、晋作は、木花咲耶姫の姿を見ていた。
「実に美しい」
改めて口に出した。清々しい風が吹き上げてきて、一時の涼を運ぶ。
「田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり」
「山部赤人か」
思わず口をついて出た歌に、二郎が微笑んだ。
「この先ますます近づいて行くんじゃから、一層雄大に見えてきよる。だが美しさでいったらここからの眺めは絶品じゃ」
半蔵は誇らしげだ。まるで、自分がこの絶景を準備したかのような口振りだが、この眺めを知っていたのは、三人のうちでは彼ただ一人。自慢したくなるのも無理はない。
「とてもよい詩が浮かびそうじゃ」
晋作が、弾むような声で二郎に声をかけた時だった。
甲高い悲鳴が木々の間を走ってきた。
それは、坂道が弧を描き山肌の向こうに消えている先からやってくる。
「何事じゃ?」
「わからん」
「よし、行こう」
三人は思わず駈け出していた。
「助けて~」
坂を下るにつれて、若い女の悲痛な叫び声が更にはっきりと聞こえてくる。
程なく、松並木の向こうから、一人の娘が走り出してくるのが見えた。飛白の着物に脚絆、手甲といった旅姿だ。その数十間後ろを、褌一枚の男が髪を振り乱して追いかけてくる。それだけでも十分に尋常ならない有様だが、晋作達が目を剥いたのはその更に後方だ。実に十人近い人数の男達が、ある者は木刀を、ある者は鉄砲を担いで追いかけてくる。
「なんじゃなんじゃ? なんの騒ぎじゃ?」
晋作たちは足を緩めた。少し前をゆく旅人が、騒ぎを避けるように慌てて路傍の草むらへと身を隠した。
髪を振り乱して逃げてきた女は、そこに立つ、腰に刀を差した武士を目にして安心したのか、
「お助け下せえ、お侍様。お助け下せえ」
必死の形相で叫びながら、すがりつくような視線でその場に倒れ込んだ。
晋作は思わず刀に手をかけた。
仮にも剣術を学んだ身である。一時は、剣術で身を立てることすら考えるほどに打ち込んだ柳生新陰流だ。未だ人を斬ったことはなかったが、武士として、いつでもその覚悟はある。冷静に、足下の女とその背後から来る男達とに、交互に視線を走らせる。
足下に座り込んでいた女は、恐怖で腰でも抜けたのか、もはや立ち上がることも出来ないと見え、這いずるようにして更に逃げようとしている。
晋作は視線を上げた。
女の前に出て、走ってくる男を迎え撃つ構えに入った。
ギリッと奥歯を咬んで軽く腰を落とす。
「おい。どうなっちょる。あいつはなんじゃ」
先ほどから棒立ちになったままの半蔵が、ようやくそう口にした。
その間にも、件の男はどんどん近づいてくる。
「どうするつもりじゃ? 高杉」
「ことと次第によっては、僕が斬る」
晋作は、躊躇することなく刀を抜いた。
「待て、待て……高杉……」
止めようとした半蔵は、そこで言葉を止めた。晋作の全身から発せられている殺気に気圧されたのだ。思わず数歩後ろに下がる。
「わ〜!!」
奇声を発しながら男が突進してくる。
その容貌がはっきり確認できる十間ほど手前まで近づいた時、男は急にその足を右へと向けた。道祖神の脇から右の脇道へと駆け込んだのだ。
追っ手がわらわらとその後に続く。
ほんの数秒の間をおいて、
「倒れたぞ!」
「捕まえろ!」
野太い男達の怒声が響いた。パンパンと空砲が鳴る音が二度聞こえ、更に男達が喚き散らす声が街道に溢れ出す。
晋作も、刀を右手に握ったまま、彼らを追って脇道へと駆け出した。
「よし捕まえろ! 表に返せ!」
金縛りに懸かっていたかのような半蔵と二郎も、道祖神の所まで近づき、集団が駆け込んでいった先をのぞき込んだ。
「おるぞおるぞ! 腹に狐がおる! えーかんいかいぞ!」
男が地面に倒れている。着物ははだけ、臨月のように膨らんだ腹には赤黒い痣が浮かび、その痣がもぞもぞと動いていた。
「見たら? えーかんいかい狐がおるずら」
取り巻く男たちは、一歩、また一歩と後ずさっていく。男の腹は、ボコボコと不規則に波打つ。その度に、男の口からどす黒い血が流れ出る。
突然、ビクビクッと男の体が大きく痙攣し、そのまま動かなくなった。
「やや!? 死んだずらか? おい」
「ぼっこを脱がせてみろ」
「辺りを探せ、周囲に逃げたかもしれん」
「千年モグラの仕業だら」
「気をつけろ! その辺りに隠れておるかもしれんぞ! 探せ! おまえっちはその辺のぼさん中を探せ」
鐘や銅鑼を持った男達が、騒々しい音を立てる。取り巻き達は武器を握りしめたまま周囲に散っていく。少し視界が開け、晋作の目に、倒れた男の全身が目に入った。泡を吹いた男は白目を剥き、既に息絶えているようだった。
その時だった。
倒れた男の体の下から、何やら黒い塊が這い出てきたのを晋作は見た。
不気味に動くその塊は、長い尻尾のようなものを引きずりながら土の上をずるずると動き回っている。大型のネズミのような風情だ。
「なんじゃ、あれは」
晋作は思わず声を出した。
しかし、周りの男たちは、周囲の草むらを竹の棒ででつついたりしているだけで、その塊について全く気にする素振りを見せない。まるで、物体そのものが見えていないかのようであった。
「雷獣だ」
晋作の斜め左後方から声がかかった。
旅姿の男が一人そこに立っている。
この暑い時期だというのに腰丈ほどの外套を纏っている。辺りの喧騒から隔絶したようなその男は、三度笠の縁を少し上げ、目の前の物体をちらりと見た。
「かわいそうに、こいつも病に罹っているな」
「おい、あれはいったい……!」
「気をつけろ、来るぞ」
男がクイッと顎をあげる。
晋作が顔を正面に戻すのとほぼ同時に、地面の黒い塊がこちらを見た。……ような気がした。
前動作なくいきなり飛びかかってきた塊に、晋作は反射的に刀を振るっていた。
真っ二つに切れた塊は、緑がかった黒い液体をまき散らしながら地面に落下すると、うたかたの泡のようにシュワッと音を立てて消えてしまっていた。
「な、なんじゃ、これはいったい……?」
振り向いた先に既に先ほどの男の姿はなく、半蔵と二郎が、道祖神の脇に立ったまま心配そうにこちらを見守っているのが目に入った。
晋作は、懐紙を取り出し刀の汚れを拭いた。
足元に落ちたはずの物体の姿は既に跡形もないが、切った時の感触は間違いなくあった。現にこうして、黒緑色の液体がべとりと刀に付着している。
「さてあれは、何であったか」
小さく口に出し、刀を鞘に納める。
少し先の道端に女が座り込みわなわなと震えている。先ほど助けを求めながら走ってきた女だ。
「おい。大丈夫か? しっかりしろ」
晋作は傍らまで歩いてかがみ込み、声をかけた。年の頃は十八〜九。細面で色の白いかわいらしい女だった。必死に走って来たために髪は乱れ、額からは汗が溢れ出していた。
「あ……あり……あり……」
どうやら礼を言いたいらしいが言葉にならない。しきりに頷いて晋作の質問に答えようとしている。仕方ない。先ほどまで、発狂したとおぼしき男に追い立てられていたのだ。
「もう心配いらん。あの男は、死んだようじゃ」
晋作がそう言って彼女に手を差し伸べる。
一瞬の逡巡の後、女は、堰を切ったように泣き出したのだった。