ナナシの忠誠と黒猫さん
いい従僕には二つ条件がある。
一つ、主人のことに絶対服従。
二つ、主人のことを絶対に詮索しない。
「だから、お前への命令はたった一つよ。ナナシ。
ーーこれから一年以内に、帝国学園に潜り込みなさい」
「……何を言っている? 俺みてーなやつが入りたきゃ入れる場所じゃねーぞ」
「知ってるわ。国中の貴族、権力者の子女が集まる場所よ。お前ごときが入れる場所ではないの」
「ならなんだって俺に言う?」
「何も生徒として入れなんて言わないわ。そもそもお前では対象年齢を満たさないもの。雑用でも、見習いでも、なんでもいいわ。とにかく、なんとしてでも学園に潜り込んでちょうだい」
「あんたは貴族だろ? 自分で入れないのかよ?」
生意気な口を利くナナシの頬をつねろうとするが、肉が少なすぎて摘めない。仕方ないので頬をつつく。
「覚えなさい。私が主人でお前は犬なの。敬語を使いなさい」
「チッ……で? お答えは?」
「ご回答、よ。お前の関与するところではないの。お前はただどうやってその命令をこなすか考えればいいだけ」
「ハッ、人形かよ。見返りも与えないで、あれこれ要求されてもな」
「敬語! さっき銀貨の詰まった袋を渡したでしょう? 返さなくていいわ。お小遣いとしてあげる」
「はいはい、わかりましたよっと」
ナナシは苦笑して両手を挙げた。本当に金に弱いわ。
「ただ、あんなちっぽけな金で一年生きてけるとも思えないけど?」
「あら、銀貨二枚が半年分の生活費って言っていたのは私の空耳かしら。安心して。お前が必要なお金は全部私が出してあげる。金貨百枚でも二百枚でもね」
「ひゃっ……まじかよ!? ですか?」
「ええ、なんとしてでも、一年後学園内に協力者が必要なの」
「そのためにこんな回りくどいことをして俺を買収してんのか? 大体、それならわざわざスラムのガキじゃなくて、最初からその学園とやらから探せばいいじゃねーですか」
「だって、学園内にいる人なんてみんな生活に困ってないもの。だったら思い切り貧乏な人を捕まえたほうがいいでしょ?」
「悪かったな思い切り貧乏でよ……その方法の助言とかってないわけですか?」
「ないわよ」
あったらわざわざ一から育てようとしない。どうせ私の頭では考えつかないわ。
膨れっ面になると、
「私はね、人脈も知識も知恵もないわ。だからお前ごときに頼らなくてはいけないの」
「そんな堂々ということじゃ……」
「いいでしょ。どうせお前は出世したいんだから。それとも出世道の小石を全て私に退けて欲しいとでもいうの?」
「今の話じゃあんたにその力はなさそうだけど……いいよ、分かった。なるべく頑張るわ」
「ええ、頑張ってちょうだい。一年後、お前が無事に入り込めたら私の目的を教えてあげる。でも、もし失敗していたら……ふふっ、お前はもういらないわね」
そう笑顔で告げると、ナナシは嫌なものを見る目で、
「あんた、性格悪いな」
と言ったのだった。
その後広場に戻ると、涙目になった手下たちが駆け寄ってきた。
「よ、よかったぁ。もう戻ってこないかと思った」
「大丈夫? アニキなんかされてない?」
「あー、押し倒されたわ」
周りの人はぎょっと私を振り向く。
私は可愛らしく頬を膨らませて、
「もうっ、誤解を招くような言動は謹んでちょうだい。それに……あなたの方からあんなに触れてきたじゃない……わ、わたしを膝に乗せて……」
そう言いながらモジモジと足を擦り合わせると、手下は戦慄したように
「あにき……まさか、こんな人だったなんて……」
「すげえや、さすがあにき……」
「こ、このクソあまぁ……」
この手の勝負で私に勝とうなんて、百年早いのよ。
「さっきは王都を案内しなくてもいいと言ったけど、やっぱり本屋にだけ案内してくれない? 学園に近いところでいいわ」
そう言って、私はまさに帝国学園の校門前までやってきた。
帝国学園、だなんて言うだけあってうちのお屋敷よりも大きい。真ん中に大きな広場があって、職人の施工が凝らされたガーデンが広がっている。そこで食事をとっている生徒や、昼寝をしている生徒もいる。
その三面に厳かな黒を基調とした巨大な校舎がそびえ立っている。真ん中の庭はとても素敵なのに、それを囲む重苦しい黒のせいでまるで監獄のような印象を受けた。
これがお姉さまや私が三年通う校舎なのね。
「うーわ。ゼッテー入りたくねぇな……」
「あら、そんなことを言うのね」
「いいえ、冗談ですヨご主人様」
道すがらの会話で一貫して私に敬語を使うナナシを、手下たちは奇妙なものを見る目で眺める。
校門は高い槍状の柵で作られており、侵入者が辿る悲惨な運命を予想させた。
「そう思うとなんだか親近感が湧くわね、ナナシ」
「いや、全然わかないでス」
「どうにかして入れないかしら」
「やめてくダさい」
ナナシってば、慣れない敬語のせいで回答がつまらなくなってしまったわ。仕方ないわ。学園の偵察なんてする気が無かったし、なんだか強そうな兵隊さんも立っているし。
本来の目的は本屋だものね。予想外にナナシを拾っただけで。
辿り着いた本来の目的地は、つい先刻入った古着屋なんかよりもよっぽど立派で大きな建物だった。
「まあ……こんなに大きいの。本なんてそんなに存在しているものなの?」
「そうなんじゃないか……ですか。俺は入った事ないですケド」
「じゃあ入ってみる?」
学園に一番近いーーつまり、この王都の中心地に位置するこの本屋の扉は全く音を立てず、滑らかに作動した。
「ナナシ! すごいわ。ドアが自動で開いた」
「ああ、最近増えてるみたいですネ。『自動ドア』。話ではエルフ族の技術を取り入れてるとか……ほら、あの連中って森に住んでるだろ」
「ええ。森の神さまを信仰していらっしゃるから滅多に森の外に出ないのでしょう? それが何か関係あるの?」
「サァ……この国はどんどん、人間以外が増えている。獣人みてェにこっちに害なさなきゃ構わねえんだけど」
店に入ると、お姉さまが纏っている匂いに似通ったものが吹き付けてくる。本の香りだ。
上から下まで本がぎっしり詰まった本棚がいくつも並んでいる。それは壮観な眺めだった。
「そういえば、どうしてあの時あの子を殴っていたの? そんなに靴が欲しかった?」
聞かれてナナシは気まずそうに目をそらした。
「あの獣は前からそりが合わないんだ。何年スラムにいると思ってやがんだ。いつまで経ってもスラムの決まりを守ろうとしねえ」
「スラムにも決まりがあるのね」
「まあ、暗黙のってやつだけどな。一つ、他人のもんは奪わねえ。二つ、他人の事情に首を突っ込まねえ。ってやつ。結局俺らは奪われてばかりデスけどね」
「それは決まりを破っているのじゃなくて?」
「当たり前でス。でも決まりってのは罰を与えるやつがいて初めて成り立つんだ。子供だけでいる俺らを庇護してくれる慈善家なんぞあのゴミだめにはいやしないんです。あの獣も元は俺らの輪の中にいた」
「どうして追い出してしまったの?」
手下が本に手を伸ばそうとしていたので「それはお前が触っていいものではないわ」と手をぺしりと叩く。他にも物珍しげにキョロキョロしている手下(3だか4だかわからない)がはぐれないようナナシと手を繋がせる。
「おう。すいません。だからあいつは頭が悪いもんで、俺たちの飯まで食おうとするんだよ。みんな腹は減ってるんだけど、それでも我慢してんだよ。テメェより小せえガキもいるっつーのに」
「まあ、それはいけないわ。それで鬱憤を晴らすためにみんなで殴ったり蹴ったりしていたのね」
「言い方を考えてくだサい。あれは俺らのグループを追い出したのにしつこく飯をたかりに来てたから、つい」
「そういう理由で殴るのは良くないわ。それで何か利益があるのならともかく、憂さ晴らしでするものはただの暴力だもの」
「後悔はしてるけどな。反省はしてない。あいつがバカなのが悪いんだろ?」
「さぁ。お前たちの事情なんてわからないわ」
そのバカを連れているお姉さまは大丈夫かしら……お姉さまに想いを馳せていると、ナナシが興味深げに積まれている本を見ているので、
「何冊か買ってあげましょうか?」
「いや、買ってもらっても読めねえし」
「え」
「は?」
私はあることを思い出し、青ざめた。
「ナナシ、お前字は書けるの?」
「え、いや。ちょっと読めるけど、書けないです」
「このおばかさん! いい、これから一ヶ月以内に字が書けるようになりなさい。じゃないと私に近況報告できないじゃない!」
「はい。頑張るまス」
「それから、その中途半端な敬語も!」
「ハイ……」
「はァ……これは私の住所だから、そこに手紙を書きなさい。私の名前はちゃんと覚えている?」
「じゃ、ジャクリーン」
「様をつけなさい」
「ジャクリーン様」
間抜けな顔で復唱するナナシ。
「それと、ちゃんとした身分の方でないと私の家になんてとても手紙を出せないわ。これはとある子爵位の家紋印だから、手紙を出すときはこれを使って」
あの人は今でも時々私に手紙を出すし、バレないでしょう。私の部屋に落ちていたこれを捨てなくてよかったわ。どうしても汚いと思ってしまうけど。
「あ? 家紋印とかなんとか、一体なんの話なんでスか」
「お前は常識がないものね……」
頭がいたい。先が思いやられてしまうわ。
ナナシはムッとした顔で「だってお貴族様の常識とか知らねーし……」とぶつくさ言っている。
「あと、私からも手紙を出すのだからこれから一年間はすむ場所を変えないで。学園の近くがいいわ」
「はいはい、わかりましたよ。ご主人様」
外を見ると、すでに夕暮れ時だった。
「そろそろ日が暮れるわ。私は【オーエン】の店に戻るから、お前たちはうまくやりなさい。手紙で宿の場所を知らせてちょうだいね」
お姉さまもそろそろ獣人の子の処理を終えたはずだわ。もう戻っていたらどうしましょう。なんとかごまかすしかないわ……。
「待てよ……ください。場所はわかるのでスか?」
そう言われ、きょとんと首をかしげる。
「そういえばわからないわ。案内して」
「ハア……あんた、賢いのかバカなのか、わかんねーですな」
「あら、私はお馬鹿さんよ。決まっているじゃない」
そう言うとナナシは納得しかねるといった面持ちとなった。
つい数時間前のことなのに、なぜだかとても久しぶりな気がするわ。
本日二回目となる美しいモノトーンの装飾を撫ぜて、感慨に耽った。
もっと何回も来るつもりだったのに、まさか一度めで忠実なしもべを手に入れるとは思わなかった。これもお姉さまのご利益かしら。だって私だけで来たら、きっと獣人が殴られているのなんて気にも留めなかったわ。
「今日はいい日だったわ。ナナシ、頑張ってね」
「ああ。あんたも、何がしてーのかしらねぇけど、頑張ってくだサい」
「ええ、裏切っちゃダメよ? ナナシ」
「さあ、わかんねーです。もしかしたらあんたより金払いのいいやつが現れたら、コロッと鞍替えするかもでスな」
思わず笑ってしまった。賢く見えるのに、やっぱり子供なんだわ。
「ねえ、ナナシ。そんなことを言ったけれど、私はお前が裏切るだなんて微塵も思っていないわ。どうしてかわかる?」
「はぁ? 知らねー。寝返るかもしれないだろ」
「こんな愚かな私は、武器をたった二つ持っている。一つはお父様の財力」
言いながら、金貨を十枚取り出し、ナナシのポケットに滑り込ませる。
「もう一つは、生まれ持った美貌」
ふわり、とナナシの方に腕をかける。まつげとまつげが触れ合うくらいの距離で見つめ合うと、その瞳がふるふると頼りなく揺れ動くのがはっきりわかる。私の吐息がナナシの唇にかかった。
「ねえ、ナナシ。お前は裏切らないわ。だって大嫌いな貴族である私が、お前は大好きなのよ」
「っ……!」
コツン、とおでこを軽く触れ合わせると、ナナシは限界に達したようだった。顔を真っ赤にしたナナシは私の肩を掴んで、体から引き剥がした。しかし触れたのは一瞬で、ナナシはまるでやけどしてしまうかのように俊敏な動きで私から離れた。
「あら、傷つくわ」
「ほいほい俺みたいなやつにくっつくんじゃねーよ……!」
「照れなくてもいいのに」
「照れてねー! とにかく心臓に悪いんだよ!」
「お前風情の心臓が止まっても、誰も困らないでしょう?」
「あんた、散々甘言囁いといてここで突き落とすのかよ」
ナナシは疲れたように肩を落とし、深いため息をついた。
「きっとこれから一生、私ほど愛らしくて美しい女の子は現れないわ。だから大人しく私のために命をかければいいのよ」
お姉さまがいらっしゃるけれど。でも、お姉さまのためにかけるのも私のためにかけるのも変わらないでしょう。どうせ私の命はお姉さまのためにあるもの。
「あーあ、俺、きっとあんたに一生こき使われるんだろうなァ……そんな予感がするぜ」
「うれしいでしょ?」
「ああ、全く、光栄なことだね」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
お姉さまは手を組んで、祈るように言った。
「お願い。ジャクリーン。この子を家に連れて行って」
無理に決まっているじゃない。
私はお姉さまのあまりの無茶振りに、思わず天を仰いだ。
そもそも獣人なんか助けるべきではなかったのよ。
私はさっき思っていたことなんか全部吹き飛んで、あの時あの場所で目立つことをしていたナナシを恨んだ。
お姉さまが頭に黒い耳が立った子供を連れて【オーエン】に入ってきたのは、私があらかた店の商品を吟味し終えて、新作を購入しようとしていたところだった。
「あら、お姉さま。ずいぶん遅かったのね」
「ごめんなさい、ジャクリーン……この子を着替えさせるのに手間取ってしまって」
「こ、この子?」
不吉な予感に悪寒が走ったとき、お姉さまのスカートの後ろからひょっこり顔を出した女の子を見て。私は無意識のうちに大きくよろめいたようだった。
「本当にごめんね」
「いえ、お姉さまが謝ることではないわ。それで……その子が、何?」
「ええ。名前がなかったようだったから、『エル』と名ずけたのだけど」
「そう。いいお名前ね」
「ええ、私の名前から名ずけたの。それで、行くところがないみたいだからうちに連れて行こうと思うのだけど」
「なんでっ?」
素っ頓狂な声を出してしまった。いけないわ。淑女にあるまじき姿。
「とりあえず、店の外に出ましょ」
頭に耳が生えた少女はやはり目立つのか、チラチラと見られている。獣人だとそろそろ追い出されるかもしれないわ。
お姉さまはいつも私に想像のつかないことをする。慎重そうに見えて、困った人がいると真っ先に飛び出すのはいつもお姉さまなの。
この「エル」という少女ーーええ、少女だったの。鳥の巣のようだった髪はきれいに整えられ、眉と肩のあたりで切り揃えられていた。お姉さまとお揃いの黒髪は天使の輪がかかり、大きな黒い目はくりくりとしていて可愛らしい。
ゴシックのワンピースを着て、頭の上にはぴょこんと三角の耳、スカートの裾から細長い尻尾が見えがくれしている。
「この子は猫さん?」
「ええ。黒猫ね。可愛らしいでしょう」
「そうね」
黒猫のエルは私を見ながら、尻尾を落ち着きなく左右に揺れ動かした。
どういう感情?
「それでお姉さま、うちに連れて帰りたいって……一体どういうことかしら?」
「ええ。それが……」
お姉さまがいうには、エルを悪ガキ(ナナシとその手下たちね!)たちから助けた後、まずはお風呂に入れ、服を買ったそうだ。
「まあ……お風呂なんてあったのね」
「ええ。公衆浴場があったの」
危なかったわ。ちょうどお姉さまが出た後に私たちが入ったのね。
その後、孤児院の受け入れ先を探したが、高速な経済成長を遂げている王都から孤児院はどんどん少なくなり、その少ない孤児院からも断られてしまったのだ。
「獣人というだけで差別を受けるなんて……」
「だってみんな、獣人が危険ってことを知ってるわ」
「獣人は危険なんかじゃないわ。感性や考え方、生態が私たちと違うだけよ。もっとそれがみんなに理解されたらいいのに」
だってそんな暇があったら、他の人間の子供を助けたいと思うのが人情じゃなくって?
「その後は、下働きでいいから雇ってくれるところを探したんだけど……」
断られてしまったのね。それもわかるわ。獣人が使えないってみんな知ってるもの。
「だからうちで働かせられないかと思ったの」
「その……事情はわかるわ。でも、貴族のお家で獣人を雇っているなんて聞いたこともないわ」
「それがおかしいのよ。だって獣人はすでに私たちの民なのよ。それを嫌って雇わないなんておかしいでしょう」
「うう……」
お姉さまの言っていることが間違っていないことはわかるわ。でも貴族なんて人一倍面子を気にするものじゃない。百年前の慣習を続けているのや、馬鹿みたいな迷信を信じている人は沢山いるの。
「お願い……」
お姉さまは涙ぐんで、頭を深々とーー体の底から激情が湧き立った。
「やめて!」
悲鳴のような声を上げると、お姉さまはびくりと体を震わせた。
「やめてよ……私に頭なんか下げないで……」
「でも、」
わかっている。
お姉さまだって好んで、妹なんかに頭を下げたくないわ。でもあの家で、私だけ、私だけ発言を許されているのだ。
それは私の責任なのだ。
「わかったわ……一緒にお父様にお願いしましょ」
笑顔を取り繕うと、お姉さまは弱々と頷いた。
感想ありがとうございます。嬉しいです!
タイトルのつけ方を変えました。