ある冷えた夜の煌めき
「……あなたは、確か『不死鴉』の……」
「ニーナです。敬語は止めてください……アスベルちゃんじゃありませんけど、リオルさんが私に敬語を使う必要はないと思います……」
そう話すニーナの口調は心なしか柔らかい。アスベルと冒険者時代からの知り合いだというリオルのことを少なからず信頼しているのだろう。
「そうか、なら言葉に甘えるが……一体どうした? 今頃お前さんは宿で休んでいるころだと思ったが……」
「はい、三人は今頃宿にいると思います」
「ほう? それならどうして……」
執務室に置かれたソファーの周りを歩きながらリオルは尋ねる。ニーナは膝の上で丸めた手を見つめ俯いている。その様子は何かを思い悩んでいるといった感じだった。
「……少し、リオルさんに聞いてもらいたいことがあって……迷惑かもしれませんが」
その言葉は小さいながらも芯のある力強いものだった。昼間彼女を初めて見た時から何かしらの問題を抱えているであろうことをリオルは何となく理解していた。それが彼女自身によるものなのかあるいは彼女の属する宗教によるものなのか。いずれにしろ、この場所にいる時点で彼女にはどこまでも毒がついて回る……
「今日、一人の貧民街の少年を助けました……」
それだけでリオルには事の流れが何となく察せられた。
「私はいつでも人を助けることが正しいと思ってきました。そうすれば、フィアー様も手を差し伸べてくださるはずだから。あの子にも私はそう教えてあげました……」
彼女の語尾はわずかに震えていた。先ほどよりも膝の上で握るこぶしが強くなっている。自然と話を聞くリオルの視線もより真剣なものへと変わる。
「どうやらこの考えは……私の独りよがりだったみたいです。私はただ、あの子に希望を与えただけ……考えを押し付けただけ……何も知らないあの子は私の考えを信じるしかないのに……」
刃のように彼女の言葉は彼女自身の心を突き刺しているようだった。自身を責める彼女の姿はとても弱弱しい。それはこれまでの積み重ねによるものだろう。危険を冒してでも仲間と外の世界に出向くことを選んだ彼女でさえ、自身を蝕む毒にはそう易々と打ち勝つことはできないということだろう。リオルの脳裏には彼の冒険者時代の友人の姿が浮かんでいた。きっと彼女のような……ある意味で強い人間は珍しいのだろう。
「なるほど……つまり、お前さんは信じるものに自信が持てなくなったということか? アルピスの聖職者は特に信心深いと聞いていたが……」
「っ! いえ、そんなことは決してありません! 私はほかの誰よりも、フィアー様を信じ、敬愛している自信があります!」
今までの様子とは一変して、そう強く言い放ったニーナの姿を見てリオルは自分が考えていた線の一つが消えたことを感じた。すなわち――彼女は今なお敬虔なフィアー教の信徒である。おそらくその事実は変わらない。
「そうか……俺はてっきり、お前さんが聖職者としての制約に耐えかねて冒険者になったのかと思ったんだが……冒険者になりたがる奴は、そう……自由を求めているのが多いからな」
そしてリオルは確認の意を込めて再びニーナに問いかける。ニーナは先ほどとはまた反対に静かに……しかしはっきりとした意思を持って答える。
「間違ってはおりません……確かに、私は自由を求めて冒険者になりました。しかし、それは聖職者であることを辞めたわけではありません」
ニーナの体の強張りが緩んだのがリオルの目からは分かった。執務室の窓から見える深い夜を見つめる彼女の瞳には、ここではないどこか遠くの景色が浮かんでいた。
「聖職者として、教会に勤めていた時……私は多くの方々に手を差し伸べ、祈りを捧げてきました。しかし、気づいたんです……それでは救えない人たちがいることに」
始終冷静そのものであった彼女の息に感情が含まれはじめる。
「教会に来る方々はたくさんいます。しかし、来ることのできない方々だっているんです。貧しくて教会に来ることもできない方々……それに、フィアー様を知らない方々もいます。その人たちは、助けを必要としているのに……」
まるで彼女は自分のことであるかの如く感傷的に言葉を紡ぐ。なるほど、神に仕える聖職者とはここまで自分たちとは異なるものかとリオルは理解した。
「そんな人たちにも……私は助けを差し伸べたいと思ったんです」
ニーナの願いは至極単純、幼稚な考えに思える。彼女の言っていることはすなわちすべての人間の救済そのもの。それが不可能であるということ、人は大人になる段階で自然に悟るものだ。
しかし、ニーナの願いが単に幼稚であるとも言い切れない。彼女はそれを悟った先を語っている可能性があるのだから。不可能であることを理解してなおそれを追い求めることに妥協はない。
真の意味でこの瞬間、リオルは彼女という存在を理解したに違いない。そしてリオルの出る幕は既にないようだ。
「……俺は宗教のことはよく分からんが……少なくとも、お前さんが助けを差し伸べることを目的としているなら、何を思い悩むことがある?」
「……え?」
「お前さんはその貧民街の子供を一人救ったわけだ。もちろん、考えを押し付けただけかもしれないが……生きるチャンスを与えたとも言える。実際、お前さんがその貧民街の子供を助けなかったら……その子供はどうなっていた?」
リオルはニーナの潤った瞳をのぞき込む。彼女の眼にはリオルには見えないものが見えているようだ。
「すべてを助けるなんてできやしない。それはまさに神の御業ってもんだ。ただ、少しでも救える人間を増やすってことはできる。お前さんが今日やったようにな……」
リオルの言葉によってニーナの何かが変わったということは恐らくないだろう。リオルが口を挟む猶予などもともとなかったのだ。ニーナは若いが、彼女の心には既に子供のような柔軟性はない。というよりも彼女の念はすでに完成されている。
思うにそれは彼女が幼少の頃より宗教という強い念に当てられ続けていたことが原因ではあろうが、単にそれだけではないように思えた。少なくとも、リオルの目にはニーナが教会に籠った聖職者と同じとは到底思えなかった。
リオルと話をしたことで胸にのしかかっていた悩みが晴れたのか、ニーナはやがて随分と落ち着いた様子になった。いささか放心状態にも近い。
「明日はいつ出るつもりだ?」
リオルがそう問いかけるとニーナはまだ心の準備が整っていなかったのか、ビクリと体を震わせた。
「え? あ、はい……できるだけ早いほうが良いと三人とも言ってました……」
「そうか、なら早く休んでおけ。ただですら、あいつらの世話は疲れるだろう?」
「ナンは無口ですけどまともですよ。セルベスとアスベルちゃんは……ちょっと変わってますけど、頼りになります」
ニーナは別に嘘はついていないように思えた。リオルも完全にそれを否定するわけではないが、多少ニーナによる着色を受けているものだろうと思った。
ニーナはゆっくりと手をつきながら座っていたソファーから腰を上げた。話している最中、緊張に相当力が入っていたためかニーナの立ち上がる動作は少しおぼつかなかった。
そんなニーナの体を支えるようにリオルは自然な流れで軽く自分の手を彼女の肩に添えた。ニーナが知り合って間もないことに加え女性であること。年齢差もかなりあることから多少抵抗はあっただろうが、流石リオルは慣れた様子であった。ニーナもまたリオルを気にするような反応は全く見せず、軽い笑みとともに彼に感謝の意を示すばかりだった。
「ちなみに、リオルさんは……お酒は飲みますか?」
ふとニーナはそんなことを言葉に出した。あまりに唐突であったためリオルも訳が分からないという様子だったが、それに答えることに特に抵抗はなかった。
「酒か……まあ時々な。冒険者時代は毎日のように飲んでいたが……そういえばお前さんは、酒は飲めないのか」
「はい。飲めない、というと少し語弊がありますけど、ここの皆さんが随分と楽しそうに飲んでいるものですから……」
そう言ってニーナは軽い笑みを浮かべた。その目はリオルではなくどこか別の場所を向いており、また完全に笑ってもいない。それを見てリオルは外で騒ぐ連中と何かあったのだろうと察した。
「どうした、もしや羨ましくでもなったのか?」
「お酒自体に……というわけではありませんが。でも、多くの方々が感じていられる楽しさ
を共有できないというのは……少し、寂しさを感じてしまいました」
ニーナの表情はひどく切なさを感じさせるものだった。しかしリオルがそれに対し寄り添ったりすることができないことも事実。彼もまた彼女側の立場の人間ではないのだから。
「酒の事ならアスベルがよく話してくれるだろう。あいつは冒険者時代の俺以上に酒が大好きだったからな。そして大して酒に強くもないうえに酒癖が悪いというところもたちが悪い。まぁ、あいつに関しては酒を飲んでいても飲んでいなくても大して変わらないがな」
「はい……よく知ってます……」
そうしてニーナは苦笑いを浮かべる。根本的な解決の手助けにはならなくともリオルの言葉は多少彼女の心を温めることができたようだ。
「まあ、そこまで気に病むことでもないだろう。酒なぞ飲まなくとも楽しむことはできる。俺に言わせれば、酒に任せて大暴れする馬鹿するここの連中やお前さんのところの馬鹿に比べればよっぽどましといったところだ」
「は……ははは……」
直接的に言葉には出していないがリオルが多少の苛立ちとともに話していることは明白。今この場にいない自身の仲間の姿を思い浮かべながら、どうかその現場に彼らが立ち会わせないことをニーナは祈るばかりだった。
「こんなところまで見送りをしてくださるなんて……」
「一応、お前さんを含めたパーティーはうちからしてみれば救世主のようなものだからな、当然だ。それと再三言うようだが、宿についたらすぐに休むことだ。まぁ、あの馬鹿二人もそこは理解しているだろうから今頃寝ているころだと思うが……」
「そうですね、わざわざ気にかけてくださってありがとうございます」
そういってニーナはリオルに恭しく頭を下げる。こうしてみるとリオルには不思議でたまらなかった。よくもこのような人間が冒険者の中でも高位にあたるミスリル級、そしてあのような連中とともにやっていけているものだと。
「(とはいえ……アスベルのような女の弟があれだということを考えると……今に始まった話ではないな)」
がさつで適当な姉に対して神経質で生真面目な弟……どんな人生を歩んだらあそこまで性格が隔離してしまうのか、現状リオルの抱える件の王国の事件にも匹敵する、解明の兆しの見えない問題の一つだった。
「あの……最後にお願いがあるのですが……」
その瞬間――あたりの空気がまるで意志を持ったかの如く静まり返る。崇めるべき高貴なる存在がこの場に降臨したように――そしてニーナの体がぼんやりと美しい白い光に包まれるのが分かった。
なるほどこれが神聖力というものかとリオルは感心した。肌に触れるのはまるで、かつて彼が受けた母親のぬくもりそのもの。こんな素晴らしい力の恩恵を幼少より受けていたと考えるのならば……それも納得、宗教とやらに呑まれる人々の気持ちも分からなくない。
恐らく一生に一度お目にかかれるかという目の前の光景にリオルはそんなことを思わず考えていた。そんな聖なる力を纏いながら――ニーナが話し始めた内容はまたもや唐突極まりないものであった。
「……もしも私が誰かと結ばれて……私の中に小さな命が芽生えさせることができたら……その時は最初にリオルさんに伝えてもいいですか?」
「……急に何の話だ?」
「すみません、少し聞いてみたかったんです」
ニーナは照れ隠しの笑いを見せる。リオルは彼女が他人のために殉ずるような人間であると考えていたためこれはまた不意を突かれた気分だった。やはり人であり女であるのならばその願望はあるのだろう。
「……まぁ、それぐらいなら構わないさ。後輩がそうやって家庭を築くことができて、無事冒険者業から退くことができたというのなら……それを祝わない手はないだろうな」
「冒険者をやめることをリオルさんは望んでいるんですか?」
「冒険者は常に死と隣り合わせだからな。高位の冒険者となればその危険度はさらに跳ね上がる。何も俺は知り合いが死んだ知らせなど聞きたいわけではない」
わざわざ安全な場から冒険者という死の匂い漂う世界に足を踏み入れたニーナからすればリオルの今の言葉は少々辛いものがあるだろう。
リオルの言葉を最後まで聞いたニーナの顔からはいつの間にか表情が抜け落ちていた。彼女の人当りの良さからか、リオルに笑いかけてはいたがその笑みはひどく干からびたものだった。
「確かにそうですね。まぁ……そもそもこの話はあり得ないことです。こんなことは許されませんから……」
「それはどうだかな」
「え?」
リオルの一切の間が空かない返答に流石にニーナも意表を突かれたのか、一瞬時が止まったかのようになった。
「お前さんにとってのパートナーはつまり……人に何か言われて諦められる程度の存在ということか? もちろん、そういうわけではないだろう?」
その日は月のない真っ暗闇の夜だった。まるでその間の時が飛ばされてしまったがのように、気づけばリオルは一人で冒険者組合の前に佇んでいた。ニーナの姿はすでに見えない。自身の借りる宿に帰ったのだろう。
夜の瘴気に当てられてリオルは妙に物寂しい感情に襲われた。
「まるで別れの挨拶でもしたようじゃないか。まったく……俺も嫌なことを考える……」
ギルドマスターである彼の為すべきことはこんな真夜中であってもなくならない。雄心を捨て自由を手に入れた者たち。その濁声を聞きながらリオルは一瞬でも彼らに憧れを抱いた。




