神の代行者
この世の穢れという穢れをすべて浄めたかのような純白。純白という色を背負った美しき大聖堂。唯一神フィアーへ祈りを捧げるため、アルピスに存在する数多くの教会の中心たるこの大聖堂・永劫はその名の冠する意味通り、永劫の時を歩むべく……このアルピスという国が誕生した時から存在している。まさに時と空間を司る神を祀るに相応しき国の象徴である。
重要な場所であるゆえに、ここに立ち入ることは誰にでも許されるものではない。聖祭以上の限られた信徒たち……最上層の【時の間】には神官ですら立ち入ることは許されず、その神聖な場に足を踏み入れることを許されるのはこの国で大神官と聖女――たった二人のみである。
少女は祈りを捧げている。彼女が手を合わせる先にあるのは唯一神フィアーを模した像。少女の姿をしたそれは、やはり神として崇められるに等しき――神聖さを漂わせていた。
顔を覆う薄いベールを少女は今身に着けておらず、肌こそ依然として純白の衣装に包まれ隠れているが顔だけは――その美しい肌をさらけ出していた。日の光を全く浴びずに生きる少女の肌は彼女の身に着ける純白のローブに匹敵するほどに白く、浅瀬を進む水のように流れる金の髪は、彼女の容姿をより白く――穢れのないものとして映し出していた。
ふと何かを思い立ったように少女は合わせていた手を静かに自身の膝の上へと移した。長い髪をふわりとなびかせ、振り向いた先に彼女は穏やかな表情を送った。
「セータちゃん、お帰り」
「申し訳ありません。本当ならば常にフィン様の元におりたいのですが……」
そう言ってセータは恭しく頭を下げる。そこでフィンは彼女が大事そうに抱えている数冊の本が目に入った。数冊とはいえどれも厚みがあり幼い少女が抱えるには少々重たいものだ。
「それは……?」
フィンの問いかけにセータは小さく微笑みながら答えた。
「はい。私は神官という立場ではありますが一聖職者として神に仕えるにはまだまだ未熟。知識も経験も足りていませんから」
「それで……私の世話までしてくれてるってこと?」
「その通りです。今はこうして座学の際には別々になってしまいますが、じきに一緒に受けるようになるでしょう。そのために私も努力してまいりますので……」
「それって……」
セータは何でもないというように言うが、フィンには彼女が言っていることがいかに大変なことか理解していた。といってもフィン自身、それこそ老年の神官に比べれば知識も経験も劣るだろう。しかし今のセータよりもずっと幼い頃からこの大聖堂のもと聖女としての教育を受けてきたフィンに今から追いつくのは並大抵のことではないだろう。
それに恐らく――彼女は神官としての教育など一切受けたことはない。フィンにはそれが彼女の容姿から察せられた。
「セータちゃんの髪の色はこの辺りじゃ見かけないけど……もしかしてアルピスの外から来たの?」
自身の金髪に対し、彼女は他に一切の交じりのない黒髪。それを左右で二本の三つ編みにしている。フィンの髪色はこの国では大して珍しくもないありふれたものだがセータは違う。
今までのセータの言動から、フィンは勝手に彼女がアルピスの人間であり聖職者としての教育をしっかり受けているものであると勘違いしてしまっていた。しかし改めて考えればそれが間違っているということは明らかであったのだ。
そして、そのことに気付いてからもフィンがすぐにはこの話を切り出さなかった理由。フィンの懸念通り、セータはどこか迷いのある表情を浮かべた。しかしそんな彼女の感情が垣間見えたのもほんの一瞬のことで――次の瞬間にはいつも通りの穏やかな笑みが浮かんでいた。
「はい、フィン様のおっしゃる通りです。アルピス辺境の高原、名もなき村から参りました。当然、神官になるための教育などは受ける機会も、価値もない村娘として生きてきました」
フィンはそんなセータの口ぶりに若干の毒気を感じた。おそらくは聖教国の高位の聖職者、それこそ神官などにとっては想像もできない、小さな村で貧しい暮らしをしてきたであろう少女の自分たち聖職者への黒い感情……
かと思えば、フィンにはセータの表情から悪意などは一切感じ取ることができなかった。
「ですが、こんな私などに祝福を与えてくださったフィアー様には感謝をしなくてはなりませんね。こうして神官として、そして聖女様の御付きとして……フィン様とのかけがえのない出会いを与えてくださったのですから」
セータの言葉には一切の淀みが見られなかった。彼女は本心からそう言っている……少なくともフィンにとってはそれが真実であった。だとすれば、この少女はあまりに自分のことを卑下しすぎている。フィンにはそれが不思議で仕方なかった。
小さな村で生まれた少女が突如祝福というものによって――どこからともなく現れた豪華な衣装を身に着けた者たちに連れていかれる。そうしてくれと頼んだわけでもない。彼女には家族だっていたはずだ。少なくとも彼女は何事もなければ家族とともに……貧しくとも幸せに暮らしていただろう。以前の彼女にとっては、それが世界のすべてだったのだから。
なぜ、彼女は……セータはこんなにも冷静でいられるのか。自分の人生を一変させてしまった神に、教会に感謝などができるのか。フィンは無意識のうちにセータと自身を重ねていた。
「村を離れるのは嫌じゃなかったの……? 家族もいるんじゃないの?」
フィンの言葉には、まるで自分が経験したことでもあるかのような調子があった。
「ええ、みんな喜んでくれましたよ。自分の娘がなんて大層なものになるんだと……」
「……え?」
思わずフィンの口から間抜けな声が漏れた。そんなフィンの様子にセータは不思議そうな表情を浮かべる。当然だ。彼女にとっては何でもない、ただ事実を述べただけなのだから。しかしフィンにとっては、信じられず……信じたくもない事実であった。
「どうかしましたか?」
そして目の前に立つ少女の純粋無垢な問いにフィンは我に返った。
「あ……いや、何でもないよ! よかったね……みんな喜んで、くれたんだね……」
フィンの表情に若干の陰りがさした。とはいえ少なくとも目の前のこの少女は……ここで自分の前に立つまでに何か大切なものを失ったということはないようだ。その事実がフィンを安堵させた。
そんなフィンの様子を見て何かを察したのか……しばらくの沈黙があたりを満たした。セータは口を開いた。
「まだここにいらっしゃるおつもりですか?」
「うん……もうちょっと。ごめんね、わがまま言っちゃって……」
「とんでもございません。フィン様の意のままに……私はあなた様の御付きでございます」
一見自然なやり取りに思えたが、これまでセータと短いながらも濃い時間を過ごしたフィンは、多少なりとも彼女の人となりを理解していたつもりだった。
この後は特に予定が詰まっていることはない。急ぐ必要などないはずだ。彼女ならば当然そのことは理解しているはず……
フィンは今のセータのまるでこちらを急かすような言い回しに違和感を覚えた。そんな彼女の予想通り、セータが何か言いたげにもじもじしていることにフィンは気付いた。
「どうしたの?」
「い、いえ……ちょっと……」
今までと照らし合わせると明らかに不自然な彼女の言動。少しの思考の後……フィンはそれが自分のあるときと同じことに気づいた。
「あ……ごめんね、ちょっと気が回らなかったかも……もしかしてトイレ?」
「えぇ……まぁ、そんなところです……」
セータがさも気まずそうに顔をそむけるのを見てフィンはそれが肯定であると理解した。年齢の割に大人びたセータの振る舞い。自身の感情すら押し込めたように見える彼女から覗いた人間らしい一面に、少しだけフィンはホッとした。
「そうだよね、セータちゃんもやっぱり苦労するよね。私も聖女なんてやってるとね……そんな時間も取ってもらえないから……」
フィン自身、そのような状況には幾度とも遭遇してきたため、同じような状況を共有できたという喜びもあったのだろう。
「大丈夫、場所わかる?」
「ご心配していただきありがとうございます。しかし、ここの構造は理解しておりますので心配ご無用です」
セータはフィンに頭を下げると一切の迷いを見せずに上階へ通じる階段へと歩いていく。フィンはそれを目で見送ると、再び自分以外誰の姿もなくなった空間を見つめる。フィンの脳内には再び先ほどの会話が呼び起こされる。
「(私の考えすぎかな……家族が喜んでくれるって、そんなことだってきっとあるはずだもん)」
セータの話したその事実。フィンはそれを完全に納得することはできなかった。しかしセータの言葉が嘘だとは思わない。今日、彼女と知り合ったばかりのフィンにはセータのことなど詳しくは知らない。しかしあれが嘘だとして……この世界のどこにあんな嘘を平然とつける人間がいるのだろうか?
時間とともに……フィンのそんな疑惑は霧に溶けるように消え去っていた。
「(それにしても、トイレに行きたいってことぐらい早く言えばいいのに……ちょっと可愛かったかも。あの子も苦労してるんだよね……)」
フィンは込み上げてきた小さな笑いに手で口を押えることで堪える。それでもなお口から漏れた音がくすくすと音を立てた。
フィンの視界にはセータが階段を上り上階へと向かう姿が映る。そしてフィンはふと思った。
「(あれ、トイレってそっちだったっけ? 確か、逆の階段だった気が……勘違いかな)」
白一色の長い廊下を進むのは一人の人物。彼女もまた大勢の者たちがそうであるように白を基調としたローブに体を包む。彼女の周囲に余人はいない。永劫の最上層にも程近いこの場所に立ち入ることができるのは神官と一部の聖教のみ。彼女が身に着けるローブには、彼女が神官であることを示す特別な模様が刻まれていた。
ふと彼女の正面から現れたのは一人の男。決して少年といえるような顔つきではないが老いているわけでもない。他の神官たちと比べれば彼はまだ若い。ほぼ同時期にアルピスの聖職者となり、そして近頃神官となった彼ら二人は数少ない同年代ということもあり以前から懇意にしていた。幸運にも神の祝福を受けた彼らは、これまた幸運にも他の者たちよりも多くの神聖力を授かった。
結局のところ、神官に求められるのは素質であり有する神聖力の絶対量。最近幼い少女が神官という立場を与えられたというのがよい例だ。
「エキナ様、今しがた別れたばかりですが……再びこうして出会えたのも神の思し召しでしょうか」
手を小さく掲げるような形で大げさに言い放つ彼を前に、エキナはくすりと笑いをこぼした。
「御冗談をレイト様……あなた様が自分からこちらへいらしたのでしょう?」
エキナの問いかけにレイトは目線で肯定を示した。やがて警戒した様子で周囲を見渡した後、レイトはエキナに静かにささやいた。
「隠し事はやはり叶いませんか……他の神官の目のある所ではあまりできる話ではないもので……」
二人の間で大した会話が行われることはなく、ただ視線を互いに送るだけだった。先ほどとは打って変わって深刻なレイトの表情、それに従うようにエキナの表情も暗澹としたものへと変わる。
「やはり……レイト様も本当は反対ということでしょうか?」
「ええ、やはり聖女様を他の国へ向かわせるなど……しかし、大神官様がああおっしゃっているので仕方なく……」
「大神官様のおっしゃることは分かりますが……本当にその必要はあるのでしょうか? この国は今でも十分に栄えているはずです。それに今やアルピスに手を出す国などそうありません。他国の人間のために聖女様のお力を使うなど……」
そこでエキナの言葉は止まった。多少二人が感情的になっており注意が散漫していたこともあるだろうが、それでも二人がその足音に気づくのは遅すぎた。二人の会話が聞かれてしまう可能性が生まれる程度には……
長い通路の向こうから現れたのは年端もいかない少女。ここが街の教会であれば珍しくもない、神への祈りを捧げるためやってきた一人の信徒に過ぎないが、少なくともここでは違う。何より少女の姿を見れば答えは明らかだ。身を飾る衣装は自分たちと同じもの。彼女のことを挙げれば、自分たちが若くして神官になったなどとは口が裂けても言えないだろう。
唯一神フィアーから寵愛を受ける者のみが名乗ることを許される『クロロ』の名を持った少女。歴史を見れば聖女のみが名乗ることを許されていたが故の比を見ない存在。当然彼ら二人も存在を認知していたが、実際に姿を目にするのは初めてだった。
「これは……お会いできて光栄です。セータ=クロロ様」
彼女が近づいてきたことを見てエキナは丁寧に頭を下げる。レイトもエキナに続いて頭を下げる。そこには先ほど浮かんでいた暗い表情などは一切なかった。
「私もお二人にこうして顔を合わせることができて光栄です。エキナ=セイン様……それに、レイト=セイン様」
セータは一瞬の淀みも見せずに二人の名前を口にする。
「顔を合わせるのは初めてだというのに……名前を知って下さっているなんて、嬉しいです」
「当然でございます。神官であるお二人ならばこの程度……当たり前のようにこなしておられるのでしょうから」
それは正しい。神官とはそう多くいるわけでもない。全員の顔と名前を覚えておくことはそうすべきであり、特段難しいことでもない。しかしまさか、このような少女からそんな言葉が出るとは二人も想定していなかっただろう。
「ところで、先ほどは何を?」
セータは探るような視線をエキナに向けた。
「これは失礼いたしました……単なる戯言でございます」
「もしや……大神官様、加えて神官全員が集まり行われるという……聖国会議でしょうか? 聖女様は自身の役割に集中するため出席はなさらないということですが……御付きの神官も同様でしょうか?」
セータの表情には一切の変化が見られず冷静そのものだった。しかし若干棘のある彼女の言葉に二人は表情を曇らせた。
「申し訳ありません……セータ様は御付きの仕事に加え、神官としての勉学にも励んでいらっしゃる様子。聖女様同様、余計な負担をかけるまいとのことから……」
若干の焦りすら感じ取れるエキナの調子に気づいてか否か、セータの目が心なしか鋭いものとなる。
「……なるほど、私のことを気遣って下さったようで……大神官様及び神官様方には感謝を申し上げなければなりませんね。しかし、会議があるということぐらいは伝えてくださってもよろしいのではないのでしょうか? てっきり私にだけ情報を伝えまいとしているのかと……勘違いしてしまいます」
図星を突かれたことに思わずセータから視線をそらしてしまうエキナ。ちょうどレイトと視線が合った。
彼女の言葉は大方正しい。詳しい理由は明らかではないが、少なくとも大神官と一部の神官……彼らによって、そう事態が進んだのは確かだ。まるでこちらの心が見透かされるような彼女の視線に、二人はこの幼い少女に一種の不気味さを感じていた。
「先ほど私の問いに正確な答えをおっしゃらなかったのも……私を不快な気分にさせないためでしょうか?」
「申し訳ありません! 余計な気遣いのせいで、セータ様にご不快な気分を……」
もはや言い訳は無駄であると理解したエキナは言葉よりも先に深々と頭を下げた。同じ結論に達したレイトも同様だった。
その後、セータからかけられた言葉は先ほどまでとは打って変わって、優しく柔らかなものだった。
「構いません、頭を上げてくださいエキナ様、それにレイト様も……我々、同じフィアー教の信徒ならば……敬虔たる信徒同士、いがみ合うことなど相応しくありません」
「セータ様……」
エキナとレイトの二人にはもはや彼女が幼い少女であることなど二の次であった。少なくとも、先ほどまでの自分たちの無礼を許せるだけの寛容な心を持った存在。二人はセータに最大限の尊敬と感謝の意を伝えた。
「我らが神聖たる聖女様、あの方のお言葉を思い出してください。私たちが敬虔たる信徒である限り……フィアー様に祈りを捧げ、この地で生きることを許されるのです」
「まさにその通りです」
セータの緩やかな声の調子に引き込まれるように二人は肯定する。セータは視線をぐるりと白い通路に行き渡らせ、光の注ぐガラス窓に目を向けた。どこか夢心地な少女の姿に二人は思わず目を奪われた。
やがて、少女の視線は二人に戻る。そして――
「ええ、ですから無論――敬虔たる信徒でない者に……生きることは許されません、そうでしょう?」
ぞわっと二人の背筋に冷たいものが走った。こちらに微笑みかける少女の姿に、一瞬何か恐ろしいものを感じたのだ。しかし、意図の分からない彼女の言葉にひとまず二人は同意を示した。
「……確かにそうかもしれませんが……この地でフィアー様の加護を受ける者たちの中にそんな輩は……」
答えを求めるようにセータに視線を飛ばすレイト。そんな彼を視界にも入れず彼女は――
「フィアー様の加護を受けながら……彼女への愛も忘れ、自身には不相応なものを受け続ける。フィアー様の代弁者たる聖女様を侮辱する愚劣なる害虫……」
まるで何かに取り憑かれたかのように彼女は一定の調子で言葉を紡ぐ。そこに怒りとも違う何かどす黒い感情が含まれていることを二人は感じた。あふれだしたそれがなぜかこちらへ向けられていることも。
「エキナ様、レイト様――お二人は先ほど、『聖女様を他国へ連れ、その神聖力を行使させる』といった類のことをおっしゃっていましたが……それは神官方々の総意でしょうか?」
セータは氷のように冷たく問いかける。そこには何の感情も含まれていない。しかし身を鋭く突きさすような圧が二人を飲み込んだ。
「そ……その通りです。セリオン王国における聖騎士団……その騎士団長を務める者が賊の手により治療困難な怪我を負ったと……その者は王国内では重要人物であるようで、この聖教国に対し聖女様の力を借りたいと……それ相応の謝礼も払うと」
「なるほど……聖女様を他国に金で売り渡すと」
「そ……そんなことは!」
「何が違うのでしょうか? 神聖たる聖女様の力を他国へ流そうなどと……それ自体が絶対的な悪なのです。それもフィアー教の信徒でもない者たちに……金で?」
セータは一切こちらの言葉に耳を傾けず、彼女が何をするつもりなのかは嫌でも理解できる。隠す気も無い殺意が二人を包み込んでいた。
どす黒い神聖力が白い廊下を黒く染め上げる。聖女の姿を、そしてその強大な神聖力をその身に浴びた経験のある彼らは、聖女と同等の神聖力を持つ彼女に戦って勝てる可能性は万に一つもないことを理解していた。邪悪を払う神から授かりし力――それとはまるで正反対なこのどす黒い力が神聖力であることを認識できるのは他ならない、その力が圧倒的神聖さに満ちていたためだ。神聖な光が喰らうは邪悪な闇のみ……この場における邪悪は自分たちのほうであった。
「ご理解ください、セータ様! 敬虔たる信徒である国民を守るためにはこの国はまだ不安定が過ぎるのです! ここで他国に恩を売るため、聖女様の協力が不可けつ――」
エキナが言い終わるよりも先にセータの神聖なる炎によりエキナの体が白く包まれる。
「エ……エキナさまあぁぁぁ!?」
「それは国民の同士たる信徒の役目です。害虫の手は必要ありません」
大聖堂に白に溶け込むこの聖なる炎は無垢な笑いを浮かべながらエキナの体を容赦なく焼き尽くす。かつての同僚が焼き殺される姿を見て、レイトの頭に最初に浮かんだのは共にここまで歩んできた友人の死に対する憂いではなく、次は自分がああなることへの恐怖だった。
揺らぐ炎の中でエキナのシルエットがボロボロと崩れ去るのが見える。それでもなお勢いを失うことを知らないこの白い炎は、悪を払う巨大な正義そのものにすら見えた。すぐさっきまで自分と言葉を交わした人間を容赦なく殺した少女はこの様子を見ても表情一つ崩さない。
「ぅ……うあああぁぁぁ!」
頭で勝てないことなどとうに理解していたが、それでも動かずにはいられなかったレイトの放った一撃。本来攻撃手段として使うことはない神聖力だが決して不可能というわけではない。実際、目の前のこの少女はその神聖力を以てして人間一人殺して見せたのだから……
そして、レイトの必死の一撃はあっけなくセータにはじかれた。
「なんて下卑た神聖力の使い方でしょうか……神聖力とはその名の通り神聖なもの……決して何かを傷つけるためのものではありません。穢れの浄化は別ですが……」
そう言ってセータはまるでゴミでも見るかのような目でレイトを睨みつけた。セータの放つ神聖力がまるで羽衣のように彼女の体を包み込む。この強大な正義の前にレイトの力はあまりに無力だった。
「た、たすけ……」
セータを包み込む黒い神聖力が霧となって場に溶け込んでいく。と同時にレイトの四肢が白い光で覆われる。やがてそれは白い炎となって彼の体を優しく包み込んでいく。まもなく通路には彼の断末魔が響き渡ったが、それは十秒に満たなかった。
やがてセータが軽く手を振ると、一切衰えることなく燃え盛っていた炎は一瞬のうちに掻き消える。後には焦げ跡すら残らなかった。今この場で起きた変化といえば、二人の人間が跡形もなく消えてしまったということだけだろう。
「……信じられません、まさか神官の中にこのような穢れが混じっているとは……」
そういってセータはある一点を見つめる。それはたった今自分が殺した人間たちとは関係のない、通路の曲がり角だった。
「大神官様……あなたは知っておられたのですか?」
セータの問いかけに応えるように、一人の老人が姿を現した。唯一神フィアーの敬虔たる信徒であることを示す白いローブを身にまとっていることは、この大聖堂の多くの人間と同様。他とわずかに異なる点は、彼の身に着けるローブに多少豪華な装飾がされていることだ。このような飾り気が許されるのはこの大聖堂……およびこのアルピスにおいてたった一人――大神官のみ。
「おや、気づかれていましたか」
大神官たる目の前の老人は少しおどけた様子で言う。セータは珍しく苛立った様子を見せた。
「……質問にお答えいただけますか?」
セータは鋭い視線を大神官に向ける。そこには身がひりつくほどの殺意が含まれていることを彼は瞬時に理解した。
「気をお静めくださいセータ様、あなたにそんな気はお似合いになりません」
これほどの殺意を向けられてなお大神官は余裕のある様子で言った。そんな大神官の様子に自分がいささか冷静さを欠いていたと理解したのか、セータの鋭い視線が若干緩んだ。
「ええ、恥ずかしながら……あの二人は少々困らせられてきまして、今回の会議でもほかの神官たちが反対の中……国のためだなどと言ってあのような戯言を……」
「彼ら二人はそれが神官方々の総意であると言っていましたが?」
「まさか……害虫の言うことに意味などありませんよ。セータ様も本気で信じているわけでもないでしょう?」
「……」
大神官の言葉にセータは不満げな表情を浮かべた。そんなセータの表情の変化に気づいてか否か、大神官は笑みを浮かべながら言う。
「それにしても流石の神聖力です。聖女様に匹敵するとは聞いておりましたが……」
「信じてはいなかったと?」
「一応ということです……万が一のこともありますから。決してセータ様のお力を疑っていたというわけではありません。それを疑うことは神託、すなわちフィアー様を疑うことも同じ……」
大神官の言葉に淀みはない。少なくともセータはこの老人は嘘をついてはいないと判断した。セータが大神官に当初から浴びせていた懐疑的な視線が消える。
「なるほど、理解いたしました。ですが今後は私も会議に参加させていただければと」
「そうですか、やはり余計なお世話でしたか……」
「ええ、今回のように害虫が紛れ込んでいてはいけませんので……何事も、私自身の目で確かめさせていただきたいと思います」
そう言ってセータは優しく微笑んだ。年相応のものでもないが敵意などは含まれていない。とにもかくにもこの場に限っては、神の代行者たるこの少女の目に大神官は処するべき存在とは判断されなかったということだ。
「それでは……私は聖女様のもとへ戻らなければなりませんので」
そういって少女は恭しく頭を下げる。浮かべた優しい表情には敵意こそ感じないが油断できるものではない。終始余裕な態度を崩さず、頬の上に笑みを浮かべていた彼も当然油断などをしていたわけではない。
年端もいかぬ少女の後ろ姿を顔面に張り付けた笑みで見送る一人の老人。少女が彼の視界から消え、階段を下りる音がしてようやく……大神官はその顔につけた面を外した。そこには先ほどまでの優しげな老人の姿はない。
やがて一人の神官が通路の向こうから現れる。偶然現れたはずの彼らの間に会話は起こらない。彼らの話題は共通しているようであった。そしてそれはどうやら芳しくないようだ。
「大神官様……」
「今すぐほかの神官たちに伝えなさい……会議の決議は変更すると」
「はい……」
「決してばれることなく行いなさい。でなければどうなるか……」
「理解しております」
老人の鋭い視線に初老の神官は淡々とした様子で答える。彼は何かを小さな声で唱え、大神官に会釈を送る。彼らはその後一言も言葉を交わすことなく別れた。特に焦った様子もなくゆっくり歩きながらこの場を去る初老の神官の姿を見つめながら、大神官は深いため息をつく。
「所詮は年端もいかぬ少女と高をくくっていましたが……神とやらの気まぐれとはなんとも忌まわしい。貴重な魔道具まで使ってようやく氷蓮樹を見つけ出したというのに、厄介ごとがまた一つ増えてしまいましたか……」
視線は自然と先ほど事が行われたはずの場所へと向かう。そこには不自然なほど綺麗な白い床が広がっていた。
「セータ=クロロ・エリア……単に唯一神から直接神託を受けたというわけではありませんね……油断はできませんか」
彼の独り言に答えるものは誰もない。永劫の名を冠するこの大聖堂に再び静寂が訪れた。




