祝福の地に殉ずる者
その場所は、まさに白一色だった。巨大な建物を支える柱からは圧力を感じるほどの力強さがあり、天井からぶら下がる数十のシャンデリアには、そのすべてに無数のろうそくが光りあたりを照らしている。天井、壁、床そのすべてが互いに遠く離れた場所にあり、刻まれた装飾はこの場に漂う、厳かでありながらも神秘的な雰囲気を生み出す要因の一つだった。
これらすべては一切の穢れのない純白で染めあげられており、その白の美しさに従うようにこの空間の床には汚れという汚れは一切ない。それは多少なりとも窮屈さを生む椅子でさえ、例外なく取り除かれていた。
人々はみな同じ白いローブを身にまとい、頭には背の高い帽子を被る。中心に一本道を作るように立ち並んでいた。彼らにとってその道には何やら特別な意味があるように見える。道に足を踏み入れる者もいなければ視線を向ける者さえいない。
彼らはしきりに何かを呟き、そこに共通しているのは――その呟きが何か一つのものに対して行われているということであった。道はその存在のために用意されている。
「静粛に……」
空間に満ちていた呟きがまるで霧に溶けるように一瞬のうちに消えた。天を仰ぐように向けられていた顔は中心に作られた一本道に向かう。すべての視線は道に繋がるようにしてある一つの扉に向けられていた。
何者も声を発することが許されない中……重みのある扉がゆっくりと開かれる鈍い音が響いた。
等しく同じローブを身にまとった者たちが初めにこの空間に足を踏み入れる。彼らは手まですっぽりと隠れてしまうローブの袖を合わせ恭しく頭を下げる。最初の二人が頭を下げから道の横に逸れると、また新たな二人が前に出て頭を下げる。それが数回続いた後……彼らによって見えていなかったものが明らかになる。
背丈が16、17ほどのその少女は、ほかの人々と同じく白を基調としたローブを身にまとっているが、その風貌はかなりほかの者たちと異なる。
顔以外の一切の肌の露出はなく、その顔ですら薄いベールによって隠され素顔ははっきりとは見えない。
少女はその長いローブの袖をゆっくりと重ね合わせると、一言も言葉を発することなく作られた道を歩き始めた。周囲の視線は少女に等しく注がれ、その姿を見る彼らの瞳は一筋の穢れすら感じさせず――まさにこの少女が神聖たるものであることを証明していた。
「敬愛なる我らが唯一神フィアー様。今日までの我らの繁栄を心から感謝申し上げます」
「我らが敬虔たる信徒である限り、我らの貴方様への祈りをお許しください。我らが敬虔たる信徒である限り、我らの悠久の刻の刻みをお許しください」
少女は純白のローブの裾を深く地面に落とし、顔のベールが地面につくとも思えるほどに頭を深く下げた。地に膝を突き、手を合わせ祈る様子は神聖ものではあれど、決して憐れみを受けるようなものではない。汚れが一つとない白の床に擦れる純白の衣は、まるで溶け合う水のようであった。
「貴方様の敬虔たる使徒――フィン=クロロ・テシア。意に従い、心を同じくする我らが信徒たちに祝福を……」
少女は深く下げた頭を上げ、合わせていた手を離す。天を仰ぐように掲げられた二つの手から伸びる二本の腕が、まくれた袖によって露わとなる。どこか夢心地な少女の双眸が見つめる視線の先には巨大な像が佇んでいた。
黄金――そう言い表すほかにない。美しい金の髪を持つ少女の姿をした像がこの場の全てを見下ろしていた。少女の跪く様子を見て周囲の者たちは顔色一つ変えない。その様子から彼らの思うところを察するのは困難ではあるが、少なくとも少女に対して負の感情を抱いている者はいないように思えた。
少女の祈りを受け、像には仄かな光が灯り始める。火の灯す光とは違う――だからと言って冷たい光ではない。どこか神聖さすら感じる光が像を伝い……空間全体へと広がっていく。見ればその光は、今もなお像に祈りを捧げる少女から生じているようだった。周囲を覆いつくす聖なる光を浴び、それに感謝するかのように手を合わせ、祈りを捧げる。
永遠にも思える濃密な時の流れ。時が止まったように像の前で祈りを捧げていた少女がゆっくりと、その天に掲げられた掌を下ろした。少女が恭しく立ち上がろうとすると同時、多くの者と同様白いローブを身にまとった一人の人物が少女の傍らに立った。目前に差し出された手を見て、少女は何の躊躇もなくその手を取った。
「貴女らに神の御加護があらんことを」
二人の前に現れたのは一人の老人。身にまとう白いローブのそのほとんどは他の多くの者たちと同じようだったが、ローブに描かれた模様や身にまとう装飾がより豪華なものであった。
ここでは少女とこの老人――二人にのみ言葉を発することが許されており、他の者たちには沈黙、あるいは祈りの言葉である呟きのみが許されていた。空間に沈黙をもたらした言葉。そして少女とその傍らの人物に対する祝福の言葉のみが彼の発した言葉であった。
彼らの神聖なる集会は終わりへと向かいつつあった。老人の小さな合図とともに、彼らは再び祈りを始める。それは彼らの間で幾度と交わされたものであり、そこに気持ちの齟齬というものは介在していなかった。
この空間の中、少女とその手をとった人物のみが扉へ向けて歩き出した。二人を止める存在はいない。二人とともにこの場へやってきた者たちは彼らに対し順々に頭を下げ、彼らもそれに応えていく。
重い扉が再び開かれる。それは一度目とは異なり、人一人がやっと入れる程度のものであった。外界と隔絶された神聖なるこの空間。その空気を少しでも逃さないようにといったところだろう。実際、二人のみが通るこの扉にそれ以上の隙間は必要ない。
二人の間には交わされる言葉もなければ、体が触れ合うこともない。少女の隠された表情には安堵の気持ちが浮かんでいた。それは自身の祈りを捧げ、それを受けた多くの信者たちの祈りを今度は自身が受ける。その神聖なる儀式の中では得られなかったものだ。
押し込められた空間から解放され、少女は外の空気を全身に受けた。全くその機能を停止していた彼女の口から深い息が漏れ、ゆっくりと言葉を発した。
「終わったね」
少女は前を向いたまま呟いた。それに対する返事のようなものはない。少女は隣にいる人物の視線を感じる。二人の視線が合う。
「今日であなたも……」
その問いかけに返ってきたのは言葉ではなく、無言の肯定。少女の中から先ほど感じた安堵はもはや消え去っていた。彼女の身にまとう特別な衣装が、先ほど多くの人間の心を震わせた存在であることを証明していた。
「……」
周囲に広がる景色はやはり目立った汚れの見えない純白の通路。いまだわずかに耳に届く聖職者たちの祈りの声がこの無機質な空間を満たす。二人の間には冷たい沈黙が流れていた。
「聖女様、こちらへ」
「……いつもありがとう」
少女は小さな笑みを浮かべると、案内された部屋の中へ慣れた様子で向かう。先ほどの場所からそう遠くない、同じ建物の中にあるこの部屋はこの無機質な白い通路の突き当りにあった。周囲にも部屋はあるようだが使われている様子はない。だからと言って汚れているわけでもなく、ただこの部屋のある通路には彼女ら二人以外に人っ子一人いないというだけだった。
部屋の中には一通りの調度品。大量の本が敷き詰められた本棚と屋根のついたベッドがスペースの多くを占領していた。部屋の壁はやはり白――しかし、この部屋のものの多くはそうではなかった。彼女にとっては久しぶりに見た多彩な色のある空間だろう。
部屋には小さな窓が一つあり、昼間の今は照明をつける必要がない程度の光が部屋に注ぎ込まれている。
少女とともにここまでやってきた彼女は外の様子を一度窺い、静かにその扉を閉めた。まるで何か聞かれてはいけないことでもこれから話すのかという様子だ。扉の前に立ちふさがる彼女を後目に少女は頭にかぶったベールのついた帽子を脱ぎ、傍らにあったテーブルにそれを置いた。そして彼女自身はベッドの上に腰を掛け……重く、長いため息をついた。
次の瞬間――少女はベッドの上に倒れこんでいた。
「……」
「……フィン様、人が来たらどうするのですか? 聖教国の聖女様ともあろう方が……」
「……アニアはいつもそればっかり。息抜きだって時には必要だよ……」
少女にアニアと呼ばれた彼女は、ベッドにだらしなく横になるそれを見てあからさまに大きなため息をついた。
「フィン様はいつもそれではありませんか? 今は私とフィン様、二人とはいえ……」
アニアの語気によってこの先の展開を察したのか、フィンはおもむろにベッドに横になったまま手を伸ばしていた。
「……おみず」
「は?」
一瞬何を言われたのか理解できなかったアニアは思わず呆けた声を漏らした。
「お水……ちょうだい」
やがて、自分の聞き取った言葉とその意味が思った通りのものであったこと――そして同時にまったくそれが理にかなわないものであることを実感する。アニアは再び大きく息を吐き、力が抜けたように背中を丸めた。
「それくらいご自分でやられてはどうでしょうか? 魔法ならば私などより聖女様――あなた様の方がお上手でしょう?」
「集会で神聖力……結構使っちゃったから疲れちゃった。だからアニアお願い……」
「神聖力は神様から授かった祝福……魔力とは別ではありませんか」
「でも無理、精神的な疲れが……アニアお願い……」
もはや何を言おうと無駄であることを経験から理解していたアニアは、ベッドに伏せたままこちらと目を合わせようともしない彼女を後目に、部屋に取り付けられた小さな戸棚を開ける。そこに仕舞われた丸みを帯びたガラスのコップを一つ取り出す。
アニアはコップの中に指を向けると短く小さな言葉を呟いた。青白い光とともに指の先から出現した魔法の水には一点の濁りも見られない。その様子を見て、ようやくフィンはベッドから体を起こした。
「全く……私はフィン様のお母さんではありません、ただの御付きに過ぎませんから。それも今日まで……」
どこか哀愁を漂わせるアニアの言い回しに、受け取った水のひんやりとした感覚を楽しんでいたフィンの表情が固まる。
「新しい御付きの方にも今の態度でいらっしゃるつもりですか? 私はフィン様が小さいころから御付きだったからとはいえ……」
アニアの口ぶりは小言じみたものではなく、フィンのことを心から心配しての言葉であった。それを知ってか否か……フィンの表情はみるみる感情を含んだものになる。
「……大神官様に泣きつけば、御付きを変えないでもらえるかな……」
その言葉を聞いてアニアの顔は一変する。
「やめてください! ただですら忙しいお方だというのに……フィン様のわがままにお付き合わせになるのは」
「だって……今更変えるってどういうこと? 私とアニアはもう17年以上一緒なのに……」
もはやフィンの顔は今にも泣き出しそうな顔をしていた。アニアもやはり彼女の感情が理解できたのか、これ以上あまり強くは言えないように見えた。
「次の御付きの方は神官様だそうです。私など一介の聖祭などの代わりなどもったいないくらいです」
「……そんなの関係ないよ」
意気消沈した様子で俯くフィンはアニアと目を合わせようとしなかった。まるで小さな子供を慰めるように言う。
フィンの幼いころから接してきたアニアには、少なくとももっと他にましな慰めの言葉があっただろう。しかしそれには彼女の立場というものが邪魔をしていた。結局、アニアの言葉はかえって逆効果のようだった。
アニアをして今のフィンを治める手段は思いつかなかった。彼女が今のように取り乱すことなど今までに何度も経験し、そのうえで今以上の悲しみに囚われている彼女の姿をアニアは知らない。
「その神官様はどうやらまだ12歳だそうです」
「12歳……それで神官様なの?」
意を決して出した言葉は多少なりともフィンの興味を引いた。
「はい、どうやら唯一神フィアー様から直接神託を受けた方であられるよう……神聖力は聖女であるフィン様にも匹敵する様子……」
「そんな……」
すでに不安定であったフィンの心がさらに脅かされる。自分以外の強い神聖力を持つ存在は聖教国にとって良いものに思えど、聖女である彼女にとっては不安要素でしかない。
実際、それは聖教国にとって大きな利益となるものだろう。強い力を持つものが増えることはよいことだ。しかし神聖力は魔力とは違う。唯一神であるフィアー神より与えられた祝福。より多くの神聖力を授かった者たちは聖女などと呼ばれ、国の象徴となる。
象徴たる彼らは神聖なものであり……特別でなければならない。もしもそれが複数存在するともなれば、敬虔たる信者である民衆たちは選択をしなければならないだろう。どちらを象徴とすべきか――
「ですが少なくともフィン様のご心配には及びません。かのお方はどうやら神託により聖女様をお守りするようにと……」
彼女の口から話すことのできることはそう多くない。できることならば、少しでも多くのことを伝えフィンを安心させたい……というのが彼女の理想であった。ただこれは国の機密事項であり、聖女の御付きという立場から何とか得られた情報はこれが限界だった。
「そういうこと……それでアニアが……」
「お別れはつらいですが……何も一生の別れというわけではありません」
フィンは無言でうなずいた。彼女も子供ではない。自分が騒いだところで結果は何も変わらないことは理解していた……頭ではそう理解していた。
「私はここで働いております、顔を合わせることもあるでしょう……本来、私のような聖祭はフィン様の顔すら知らないのですが……」
アニアは最後に暗い言葉を付け加えた。フィンを慰めようと並べた言葉も、事実全く意味を為さないさえずりに過ぎない。アニアの言葉はすなわち、彼らの永遠の別れを意味していた。もしも顔を合わせることが仮にあったとしても……そこにはもはや立場の違いというものが存在する。お互い立場に縛られ言葉を交わすことは許されない。
「ですがそれは通常であれば、の話です……私はこうしてフィン様の御付きとして長い間働かせていただきました。お願いをすれば……顔くらいは合わせていただけるはずです……」
果たして……そんなことがあり得るのだろうか。一介の聖祭に過ぎないアニアがいくら過去御付きであったとはいえ、聖女である彼女と会おうなどと……
もしもその願いがフィンからのものであったならば、それは可能かもしれない。しかし、彼女の立場からそんな願いをすることは許されない。
二人が今と同じように接することができるのはこれが最後……それを察したフィンはゆっくりとベッドから立ち上がると、よろよろとアニアに歩み寄った。
「フィン……様!?」
生まれたばかりの雛鳥が親鳥を求めるように、フィンはアニアの足元に抱き着いた。それはとても弱弱しいもので、その気であれば簡単に振り払うことができてしまうものであった。
普段の彼女であればこのような状況を黙って受け入れることはなかっただろう。しかし彼女も同様にこれが最後であることを察していた。小さな子供のように自分を求める少女をアニアは黙って抱きしめた。
「フィン様……」
その瞬間、フィンはこのアニアの言葉に到底今の状況にはふさわしくない……何か不穏なものを感じた。
「……どうしたの?」
「いえ……もしも……ですが。あなたが望むなら……」
別れの悲しみを思わず忘れる程に圧縮された空気の中……アニアが続く言葉を紡ぐ……
幸か不幸か――それは第三者の介入によって妨げられた。
なんの合図もなしにドアノブの回される音が響く。蝶番の軋む音が二人の間を瞬間、通り抜ける。
「あ……」
開け放たれた扉を見てフィンが最初に思ったのは、決して見られてはならないものを見られてしまったこと。聖女である自分とアニアの立場を考えれば、このような状況は許されない。今後のアニアの立場が脅かされる可能性もある。
そして次に感じたのは、一種の羞恥心だった。自分には今まで聖女として築き上げてきたイメージがある。それがまるで小さな子供のように自分の御付きに泣きついているのを他の者に見られなどしたら、果たしてどう思われるだろう。
「今はよろしかったでしょうか? 入ってから言うのも何ですが……」
「いえ、構いません。しかし一言声をかけてくれればもっとよかったのですが」
「申し訳ありません。田舎育ちなものですから」
フィンの心境とは裏腹に、アニアは随分落ち着いた様子だった。まさか視界に入っていないとは言うまい。アニアの問いかけに答える声はフィンからしても幼いと思えるものであった。この部屋までやってくる者にフィン以上に幼いものはいない。
フィンは恐る恐るアニアの影からこっそりと扉の方を窺う。そこにいた人物とは、やはりその幼い声に似つかわしく、また非常にこの場には似つかわしくないものであった。アニアと相対するその幼い少女は、少し見上げるような形で先のやり取りを繰り広げた。そこには年齢の懸隔による不自然さなどは一切感じさせず、まるで大人びていた。
ふと影からこそこそと窺っていたフィンと少女の目が合う。そこで自身の醜態を再確認したフィンは脱兎のごとくアニアの元を離れた。その様子を目にした少女は口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「ご安心を……フィン様のことは伺っております。とても明るい御方だと……」
少女はからかうように言った。自分よりも何歳も年下であるはずの少女の言葉にフィンは恥ずかしさのあまり逃げ出したくなった。と同時におそらく少女に余計なことを伝えたであろうアニアに非難の意を目線で送った。アニアはフィンのその視線に気づいていたようだったが、何も言わずにため息をついていた。
その間も少女はフィンとアニアを交互に見つめその様子に笑みを浮かべていたが、何かを感じ取ったのか……急に表情を変えた。
「しかし……お邪魔をしたようです。まだ時間もありますので、私は一度外に出ますが……」
少女はさも申し訳なさそうな表情を浮かべ頭を下げていた。
「いえ、そんな必要は! もう充分ですから……」
アニアはかなり慌てた様子だった。フィンはなぜこんな幼い少女相手にアニアがこんな様子なのか理解できなかった。対して少女は依然として落ち着いた様子だった。
「そうですか……私に気を使う必要はありませんよ?」
「……これ以上ここにいては、私も離れられなくなりそうですから……」
そういってアニアはちらりとフィンの方を見た。フィンは一度断ち切ったはずの感情が再び湧き上がってくるのを感じた。
少女とアニアはそんなフィンの方へ目をやり、何か視線で合図をしているようだった。まるでお互い既に知り合いであるかのような二人の様子にフィンは違和感を覚えた。同時に、少女の正体に対する疑問が再び湧き上がってくるのを感じた。
そんなフィンの疑問に答えるかのように、少女は一人フィンの前に立った――
「申し遅れました……私、我らが唯一神フィアー様より聖女様と同じ『クロロ』の名を賜りました、セータ=クロロ・エリアと申します。教会のご意向により神官の位を託され、この度アニア様に代わってフィン様の御付きを務めさせて頂くことになりました」
そういって少女――セータは静かに頭を下げた。そこには年相応の子供らしさなどは一切感じられない。
フィンは少女が自身と同じ『クロロ』の名を持っていること。教会から神官の位を授かっていること。そして今日から自身の御付きを務めるということを聞き、少女の正体が嫌というほど鮮明になるのを感じた。彼女は自分と同じ、唯一神から神託を受けた、神の代行者だ――
「それでは、フィン様をどうかよろしくお願いします」
アニアの一言に、分かっていたはずなのに――フィンは胸の奥で温度がさっと引くのを感じた。
「お任せください。先任のアニア様の顔に泥を塗らぬよう、フィン様を誠心誠意お守りいたします」
セータはそう言って再び頭をアニアに、今度は深々と下げた。いよいよ迫りくる別れの時にフィンの頭にはまるで濁流のように様々な思考が飛び交っていた。どうすればアニアを引き留めることができる――いや、もはや教会の決定を覆すことはできない。ならば、一秒でも長く、アニアと言葉を交わすにはどうすれば……
そしてフィンの頭は結論を導き出した。この状況でなければ、危うく聞き流していたようなアニアの言葉――
「あ……アニア。さっきの続きは……」
あの時、確かにアニアは自分に何かを言おうとしていた。自分が望むこと? そんなものとうに決まっている。
フィンはアニアのその言葉の先を何としても聞きたかった。自分に何かを求めていたというならば、どんな些細なことであってもすべて聞きたかった。しかし――
「いえ……なんでもありません。忘れてください」
アニアの口から飛び出た言葉はフィンの望んでいたものではなかった。フィンは全身の力が抜けるのを感じた。それでもフィンがその場に立ち続けることができたのは、惰性的なもの。そこに強い意志などは存在し得なかった。
「それでは……お元気で……」
「……うん」
扉は再び低い軋みを奏で、一人の人間が姿を消した。フィンにとって人生における大きな出来事であったはずなのにも関わらず、そこに漂う気配は憎らしいほどに日常的なものであった。同時にフィンの心には悲しみにも勝る空虚が広がっていた。
ちょうどその丈に似合わぬ純潔のローブを背負った少女は、言葉を押し込め沈黙を貫いていた。再び彼女が口を開いたのは、全てが済んだ後のことであった。
「ここで言うのも心苦しいのですが……本日のご予定は」
「うん……分かってる」
空気すらこの場に漂う重圧に悲鳴を上げていた。この場に限っては、まるで年齢というものが意味を成していなかった。年端もいかぬ少女はこの状況でも自身の感情よりも与えられた使命を優先していた。フィン――彼女にはその余裕はなかった。
「やはり……私ではご不満ですか?」
「……え?」
「アニア様の代わりになれる……などとは決して思うことはありませんが……せめてフィン様のお力になりたいと考えています」
波一つ立たない水面に一筋の水滴が波動を奏でる。フィンの頭を静かな衝撃が駆け抜けた。少女の言葉はフィンの頭を飛び交っていた靄を打ち払った。
目の前に立つこの幼い少女が――確かに自分を励ましてくれたのだ。それも自分のことを気遣って、不快にさせないようにと配慮まで加えて……
その瞬間――決して収まることのない、収まらせる気もなかったフィンの悲しみが……ふっと和らいだ気がした。一時の自身の感情……それよりも優先すべきはより多くの他の幸せ。聖女としてかつて与えられ、そして殉ずると誓った使命を思い出したのだ。
「ありがとう……いつまでもこうしている訳にもいかないね」




