変化の訪れ
「やはり……」
私と村長とサビ様。三人の前で広がるのは、カワドに連れられた一人の猫人が恐る恐る結界の薄い膜のような壁に触れ……通り抜ける光景だった。
やがてそれに続くように残りの猫人たちも結界を通り抜けていく。彼らの表情にはもはや私たちへの警戒はなかった。
私の推測通り、サビ様と村長と会話をした猫人たちはこうして結界を通り抜けることができた。彼らには共通点があった。むしろここでは、私たち――即ち狼人に対する警戒が解けた者たちが結界を通り抜けることができた……と言うべきだろう。
人間たちによって植え付けられた恐怖。それに従うように生まれた私たちへの警戒心が解けるのにそう時間はかからなかった。彼らの恐怖の体験は私たちへの警戒心を生み、皮肉にも弱った彼らを救った私たちへの信頼をより強固とすることとなった。
そしてそれは起こった。私たちが最後に残った数人の猫人を結界内に招き入れようと彼らの手を取った時。一人の少年が脇から姿を現した。
「あんたがこの集落の長か?」
少年は私に向けてそれを言った。私は少年の姿が明らかに他の猫人たちと異なることに気づいた。彼の毛色は鮮やかな青をしていた。種族は一緒であるはずなのにも関わらずここまでの違い……そして数少ない猫人の子供の一人。少年は猫人たちの中でも比較的外傷が少なかった。
彼の瞳にはこちらへの警戒心は窺えない。ただそこには強い意志が宿っていた。
「悪いけど……俺はここでゆっくりしてる暇はないんだ。怪我を直してもらったらすぐにここを出るつもりだ」
少年の言葉に彼の父親だろうか……一人の猫人が強い語気で言った。
「フィース! お前まだそんなこと言って――」
「そんなことって……なんだよ! 母さんもカルムも……人間に連れていかれたんだぞ! 今すぐにでも助けに行って当然だろ!」
その言葉を聞いてなんとなくその少年の境遇が理解できた。そして少年に強い言葉をかけるこの猫人。彼も……恐らく父親ではない。彼には妻と娘を奪われたことに対する憤怒も愁傷も感じられない。
彼からはこの少年には何としてでも無事であってほしいという感情を強く感じる。それは同じ仲間としてその子供を守りたい……あくまで他人の想いであって父親のものではない。
既に結界の内へ行った猫人たちも騒ぎを聞きつけたのかこちらへ戻ってくる。そしてこの現状を見た彼らの表情はどれも暗いものだった。
「すぐにでも向かえばまだ助けられる! あいつらだって平原を移動するのは時間がかかるはずだ……なっ何するんだよ! 離せよ!」
駆け付けた猫人たちに少年の意見に同意するものはなかった。無言で少年を抑える彼らには抑えきれない感情が溢れ出していた。
人間たちへの怒り、仲間を失ったことへの悲しみ、そして何もできないことへの無力感……
「みんな……仲間をあんなに奪われて何も思わないのかって……」
刹那――空気が変化するのを感じた。今の言葉は……彼らにとってあまりに強すぎるものだ……
「思わないわけないだろう!」
最初に少年と一緒にいた彼が悲痛な叫び声を上げた。予想もしていなかった反応だったのか、先ほどまでいきり立っていたはずの少年はただ呆然としているだけだった。
「俺たちに失っていい仲間なんていたか……いるわけがないだろう。助けられるものならすぐにでも助けに行く。フィース、お前の家族を助けられるっていうなら、俺は迷わず自分の命を差し出す覚悟だってあるつもりだ」
猫人たちの様子は驚くほどに共通していた。彼らには揃って人間たちへの怒りとともに、自分たちの命を賭けられるほどの強い意志を感じた。しかし同時に同じくらい自分たちの無力さを痛感していた。
叫ぶ猫人の姿。それは私の心の奥に焼き付けられたものに重なった。彼らと会話をした折、感じたものはやはり勘違いなどではなかったのだ。種族は違えど、彼らは私たちと同じ……
「行きたければ行けばいいだろう。口で言って止められるようなものではない」
私の言葉を聞いた彼らの表情は大方一致していた。先の悲痛な叫びを受けてもなお、彼の硬い意思は変わることはないようだ――
感謝するでもなくただ私を一瞥した少年は、無言でその足を私の方向――すなわち集落の外へ向け歩き出した。少年を引き留めようとしていた猫人たちは驚きとともに、わずかな怒りを私に向けていた。
私のすぐ横を通り過ぎようとする少年。視線の先に私の存在はない。それを遮るように……私は少年の前に立ちふさがった。
「なんだよ……あんた、俺を止めるつもりはないんじゃないか?」
「あぁ、行けばいいさ。ただしここを通ることができるのなら、だが」
困惑の色を見せた少年の腕をつかむ。狼人の体格は同じ亜人の中でもなかなかのものだ。対して相手は亜人の中でも戦闘があまり得意ではない猫人……そのうえ子供だ。
胸の辺りにきりきりとした痛みが突き刺さる。いやでもヴォンの顔がちらつく……子供に手を出すのは気が引ける……。湧き上がる感情を押し殺し、私は少年の小さな体を無理やり持ち上げる。少年の抵抗は予想以上に強く私を止めようとする。しかし私の体は止まらない。
宙に放り出された少年の体はそのまま地面に叩きつけられ引きずられるように思えた。飛ばされる少年は一瞬の回転とともに体勢を立て直し、力強く地面をその足で踏みつけた。
「ちっ……俺はこんなことしてる場合じゃ!」
ゆっくりと膝を伸ばし立ち上がった少年には多少土埃による汚れはあるものの、傷というものは見当たらなかった。
「なら私を倒していけばいいだけだ。晴れて君を阻む者は誰もいなくなるぞ?」
余裕を装いながらも、私の頭の中はこの少年に対する驚きで埋め尽くされていた。先ほどの抵抗も私を押しとどめるには足りなかったとはいえ、子供の出せるものとは思えなかった。
少年は私への負の感情を隠そうともせず、軽い舌打ちとともに私をにらみつける。お互いが戦闘態勢に入るべく軽く構えると、周囲の猫人たちにはなぜか不安な表情が浮かんでいた。
もはや話し合いなどでは解決しないということは明らか……少年のことを心配しているのだろう。狼人の力では下手すれば殺してしまうかもしれない。もちろん手加減はするつもりだ。他種族とはいえ子供を殺せるほど私は冷酷ではない。
一つ気がかりであったのは、少年には確固とした自信があるように見えることだ。力が多少あるとはいえ……狼人の力を知らないのだろうか。種族間の力の差は簡単に覆せるものでは決してない……
「……後悔すんなよ」
少年が不敵な笑みを浮かべた。その瞬間――私の背筋に何か恐ろしく冷たいものが這い上ってきたのは断じて勘違いなどではない。
次の瞬間――私の視界に入ってきたのは、私を打ち倒すべく振り出された鋭い少年の拳。そして、それを止める私の二本の腕だった。
「!?」
少年は不満げな表情を一瞬浮かべるが、そこから一切の気の迷いはなかった。最初の一撃は私の頭が追いつくよりも早く……その後打ち出された拳の数々はまるで獰猛な魔獣の猛攻を受けているかのようだった。
「ぐっ……」
少年は確かに強かった。あの確固たる自信もやはり虚勢などではなく、この強さに基づいたものだったのだろう。そしてあの猫人の意味するものとは、少年への心配などではなく、それと対峙する私に対するもの。この強さであれば集落の狼人たちにも決して劣らない。
だからこそ私が彼と対峙したのは間違いではなかった。少年は確かに強い……その通りだ。事実こうして私は防戦一方。彼の拳を防いだ私の腕にも痛みが残っている。
「なんだよ、あんた……結構強いのかよ……」
少年は落胆の表情を見せた。悔しさでも恐怖でもなく――落胆。少年から再び繰り出された拳を私は片手で受け止めた。
最初の一撃に対して私には無意識の内に生じた油断というものがあった。油断はなく少年の攻撃にも慣れた私にとって、もはや少年の拳は私には届かない。
「君の父親は強かったのか?」
「はぁっ!? いきなりなんだって……強いに決まってるだろ!」
これもまた少年には確固たる自信があるようだった。
「それは君よりもか?」
「当たり前だろ! くそっ……余裕見せやがって!」-
気の迷いは一切なく私を倒すことだけが頭にある少年がわずかに動揺を見せた。あの猫人たちの中で少年は一人だった。母と妹は人間にさらわれたようだ。近くにいた猫人も彼の父親ではない。先の理由もそうだが、少年の外見とその能力を見てもそうだ。彼の身体的特徴は種族的なものではなく――おそらく彼の血縁に関係するものだ。
「余裕なんてことはないさ……私は強くなんてない。少なくとも君のお父さんの方がよっぽど強かっただろう」
私の視線は脇で一連の出来事を見ていた猫人たちへと向かう。少年の言うことが間違っていないのならば、彼の信頼する父親は猫人の集落でも重要な存在だったのだろう。
「少なくとも、彼らを最初見た時の様子……頼りとしていたものを失って、まるで心の支えをなくしていた。それほど失ったものは大きく……信じられないものだったのだろう」
ここにはいない彼の父親の姿が私の脳裏に浮かび……その姿が血に濡れる。
「そんな君のお父さんを殺したのは?」
「人間だ! そいつらに俺の母さんも妹も……カルムもさらわれた。これ以上あいつらに何かを奪われてたまるものか!」
「それで君が行って何ができる?」
空虚な風が辺りを吹き抜けた。少年は何も答えることはなかった。猫人たちも――私の問いに対する答えは彼らの間で既に明らかになっているようだった。
「君のお父さんを殺せるような相手だ。並大抵の力では餌にされるだけだ、少なくとも……私に勝てない君では」
唇をかみしめ必死に湧き上がる感情を押さえつけていた少年も、とうとう憎しみを込めた目で私をにらみつけた。
「君のような子供を無駄死にさせるくらいならば、私が行く方がましだろう」
「おとなしく待ってろってか!?」
「私を倒せればいいだけだ」
私は自分の中の優しさを一切捨て、冷たく少年に言った。気弱な私には馴れないことだ。家族を失った少年に対してこんなことを言うのは……
「なら、あんたが行って助けてくれよ! 強いあんたならできるだろ!」
少年の声は懇願に近いものだった。彼の中の自信が崩れ、それでも家族をこのまま見捨てるという選択肢は彼の中にはない。そして自分をこうしてここに留めようとする私に対して向けられる感情には怒りも含まれていた。
しかしその願いを受けるわけにはいかないことを私は理解していた。
「悪いが、ましだと言っただけだ。さらわれた者たちがどこへ行ったのか……君は知っているのか?」
少年は何も答えなかった。彼自身……どこかで自分の行動が無謀であるということは理解できていたのだろう。でなければ思い悩むこともない、闇雲にでも平原を走り回りさらわれた者たちを探すだろう。
しかし、我々というのはそんな単純な存在ではない。そんな決断を容易にしてしまえるほど少年は冷酷ではない。集落が人間に襲われ、彼らは死に物狂いでここまで逃げてきた。頼りとしていた者も失い……
「亜人は高く取引をされる。主に労働力としてだが……猫人にはそれは無理だろう。人間たちにとっての猫人は愛玩物として……それが良いものとは限らないが。少なくとも当分殺されることはないだろう。傷つければ値が下がる。殺されるとすれば、買われていった先での話だろうが」
私の言葉を聞いた後、彼らの様子はどこか釈然としないといった様子だった。なぜそんな話をしたのか、私が一体何を言わんとしているのか……
そうして絶望に満ちた重い空気を打ち払うかのように……緊張で張り詰めた胸を抑えつけるほどに強い意志に満ちた私の言葉が場に響き渡った
「つまり、私たちには時間が残されている。単に無駄死にをしないための準備の時間が」
彼らの視線はすべて等しく私に向いていた。
「仲間を集め、情報を集める。そのためには私たちは外を見なければならない」
なぜ私はこのような行動に出たのだろう。大して力もなく……せいぜい家族を守ることで精一杯である私の中に渦巻く強い感情。亜人の未来を……後に生まれる子供たちのため……そんなささやかな優しさが、弱い私を上回ったのだろう。
間違いなく……今この場の中心は私だった。サビ様や村長、猫人の代表であるカワドを差し置いて……一介の住民に過ぎない私が、この場のすべてを沈黙させていた。
この沈黙はしばらくの間続き、その間彼らの視線は一切逸れることはなかった。やがて私の隣に来るような形で大勢の視線の中にやってきたのはサビ様だった。
「異論はありません、ヴェルド。皆気づいていたはずです、今のままではいけないと。そして、今回の彼らの訪問が一つのきっかけとなった」
再び風が辺りを吹き抜ける。それは先ほどまでの空虚なものではなく……未来を映ししてくれるような温かな風だった。
「あなたの言う通り……外を見ることにしましょう。変化の一歩を踏み出す時がやってきたのです」
サビ様の言葉には思わず不自然に感じてしまうほど躊躇いがなく、まるでこの瞬間を待ちわびていたとでも言っているかのようだった。おそらく……サビ様も考えが全くなかったわけではないのだろう。いや……サビ様だけでなく、集落の狼人全員が、どこか心の中で……
赤みの一切ない鮮やかな青に私たちは照らされ、視線の先には一列に並んだ黒い影が映し出されていた。地面に横たわる私たちは……確かに同じ方向を向いていた。
「にしても、ヴェルド。あの子供……子供だというのになんて強さなんだか……まるで化け物じゃないか。なんてな、これは言い過ぎか」
「いいや」
ウェンが疑問を張り付けた顔をこちらに向ける。
「同じ化け物である私とあそこまでやりあったんだ。間違ってはいないかもな……」
「おい、面白い冗談じゃないか。お前が化け物なんて、どこにお前みたいな善良な化け物がいるっていうんだ。化け物だらけになっちまうぞ」
ウェンは笑いながら言う。私が冗談を言っていると思っているのだろう、当然だ。そう理解していた私は、服の袖をまくり自身の太い腕を露わにする。腕には先ほどの少年との戦闘の残り香が漂っていた。私は腰に差した小さな石のナイフを手に取ると、ウェンにも見えるように腕に赤い切り込みを入れた。ウェンは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに私の意図に気づいたようだった。
「化け物かどうか……これでそうじゃないとどうやって言うんだ? 俺はただの狼人だったはずだ」
腕に刻まれた赤い糸のような筋からは、確かな粘度をもって私の肌を這う。流れる血はその一滴が地面に落ちるよりも先に赤黒い固形物となる。先ほどまで確かにそこに刻まれていた赤い筋は、まるで何事もなかったかのように塞がっていた。
「彼女からの餞別だ。まったく、とんでもないものを残してくれたものだ……」
「……一体いつからだ?」
「ヴォンと最初に森から帰ってきたとき……彼女が集落にやってきたときからだ。気づいたのはもっと後だがな。彼女から直々に聞かされたよ」
ウェンの表情は複雑なものだった。私に何と声をかけるべきか悩んでいるのか、そんな気遣いなど私には必要ないというのに……
「気にするな、結果として俺は変わらずここにいる。得られたものは力……守るための力。失ったものといえば、狼人としての姿か……」
「ヴェルド……」
「そんな顔をするなって……ただでこんな便利な体をくれたんだ。むしろ感謝をしてもいいくらいじゃないか?」
私はウェンにそう言って笑いかけたが、ウェンは決してその硬い表情を崩すことはなかった。
ウェンにはああ言ったが……はたして本当にそれだけなのだろうか。
『自分の血を分け与えることで吸血鬼は相手を自分の眷属にすることができる』彼女は確かにそう言っていた。それによって私が得たものは、彼女のような吸血鬼の持つ再生能力。そして圧倒的な身体能力……
これだけでは、まるで吸血鬼が相手を眷属にする意味などないように思える。単に相手に力を与えるだけのことに意味はあるのか。思えば彼女の眷属であるという蝙蝠はみな彼女に従順に従っていたが……
「村長……」
ウェンと別れてすぐ……私の前に現れたのは村長だった。相変わらずどこか不機嫌そうな表情を浮かべているが別に怒っているわけではないだろう。
こちらを窺うような目線を村長は向けてくる。私は恐る恐る聞いた。
「いつから聞いていたんですか?」
「最初からだ……近頃のお前の変化を見て、何かあの吸血鬼と関係があるのではないかと思いはしていたが……」
その言葉を聞いて、私は思わずしまったと感じた。村長は彼女のことをひどく嫌っていた――というよりも、吸血鬼自体が信用ならないのだろう。そんな彼女としばらく共に行動したのみならず、こうして眷属として深い関係性を持ってしまったともなれば……
「村長……私は……」
「……中身は何も変わっていないようで幸いだ……しかし、私とサビ様がせっかく渡した血を置いていくとは……人の心配をなんだと思っているのやら」
私の心配が杞憂であったことに安心――その反面、想定していなかった言葉に思わず驚きが零れた。
「……気づいていたんですか?」
「ウバラ様もサビ様も随分とあの吸血鬼を信用なされていたが……まさか何もなかったわけでもあるまい。ことにおいては、あの吸血鬼とはいえ理性的に済ませてくれるとは思えん。それが原因でお前が変わってしまったのだというのならば……」
村長の考えはやはり、一切変わっていないようだった。彼の頑固さには、以前までの私は辟易していた。しかし今考えると、彼の言葉は本質を突いていたのだろう。一瞬でも彼女が吸血鬼であるということを忘れていた自分に何度後悔させられたことか……
「原因が全くないとは言えません。しかし、ウェンも言っていた通り……変わってしまったというのは、私を信じる者たちにも失礼でしょう。結果として、私は仲間たちを守る力を手に入れることができた」
それ以上、村長もこのことについて言及することはなかった。ただ黙って私を見つめた後……彼は意を決したように言った。
「先の件だが……私は反対しない」
一瞬、周囲の音が消えたように感じた。
「集落の……亜人の未来を思うのならば、お前の選択は正しいのだろう。私たちは全力でサポートするだけだ」
今この瞬間……村長の姿が初めてそれに値するものに見えた気がした。そう――感じてしまったということは、やはり私もどこかで村長の非を認めていたのだろう。集落の村長としては――少々頼りないものだと。
しかし今の彼には、普段浮かべているような不安も迷いもなく……ただ強い意志を感じた。
「集落の……いや、亜人の長にはお前がなれ、ヴェルド」
「村長!?」
「その呼び方はよせ。ウバラ様を失い……頼るものを失った者はなんと脆いものだよ。まるで心の支えをなくしてしまった」
彼の自分を卑下する様子を見て私は何か声を掛けてやりたかった。しかし、励ましの言葉の一つさえ……私の脳内に浮かぶことはなかった。
「もともと狼人を……亜人を率いるべきは、私のような死に後れではない。若く力もあるお前が適正だ」
しかし――彼の言葉には不思議と力がこもっていた。
「今日からお前がこの小さな国の長だ、ヴェルド」
集落中に溢れる狼人たちの歓談する声すら聞こえずに――私の耳に届くのは村長の力ある言葉だけだった。
小さな国――国と呼ぶには小さすぎて、日々を生き抜くことに一生懸命な、疎むべき私たちの小さな箱庭。それが今に限っては、かけがえのない友人に思えた。
あぁ……なるほど。不完全な私の言葉が、集落の狼人たちや猫人たちを変えられればと思っていたが……彼にも私の気持ちが届いたようだ。
「そういえば、あの猫人の少年の父親……集落の長だったと聞いた」
「そうでしたか……もしやとは思いましたが」
「お前のことをこの集落の長と間違えていたな……」
村長は気にしていないようだったが、私にとっては苦笑いをするしかない。村長は私の肩に軽く手を置き、小さく頷いた。何かを意図するように――
それに応えるように私も小さく頷いた。彼の言いたいことは、もう今より前に十分伝えられた。ならば私はそれに応えるだけだ……
「さて、私のような頑固な老いぼれは早いとこ表舞台から引くとしよう。お前の歩く道を明るく照らさなければな……」
それからサビ様と顔を合わせたのは数時間後のことであった。日は落ち始めていたが、まだ暗くなるには早い。空を徐々に覆い始めた雲によるものだ。日の終わりの暗さとはまた違う――日の陰りが生み出す、どこか不安にさせるような陰気さが辺りを支配していた。
「……遅れてしまって申し訳ありません。村長は……すでに行ってしまいましたか」
「引き留めておけばよかったのですが……サビ様が来るとは知らず」
猫人の中には傷を負っているものも少なからずいた。彼らの治療を最初に提案であり、途中からはすべてサビ様に任せてしまっていた。そのことでこうして遅れてしまったサビ様を責めることはできない。
「いえ、問題ありません。結界のことでしょう? しかし……すでに答えは出ているはずです。ここ最近集落に関わったなかで、あれほどの規模の結界を作ることが可能であるのはただ一人……」
そのことは私を含め、今回の事を知っている者であれば誰しもが最初に考えることであろう。しかし、ただそうと言い切るには……彼女にはあまりにその動機が考えられない。
「どう思いますか?」
「……それはどういう……」
「ヴェルド、一番長い時間を共にしたあなたから見て……彼女が何を思ってこんなことをしたのか……」
一巡りの思考の後、私の頭の中には一つの仮説が現れた。
「借りを……返すためでしょうか。あの方は……義理堅い方ですから……」
そう言ってから私は自分の言葉を反芻し、それが間違っているように思えた。彼女は……私に対して恩などを感じたのだろうか。感謝などしていたのだろうか。本当にそれに報いるための行動だったのだろうか……
私の知っている彼女はそんな温かい人物ではない。彼女は私に借りを残したくなかっただけ、すべての借りを無に帰しきっぱりと私との繋がりを断ち切りたかっただけ。でも……それも本当に正しいのだろうか。
「……本当にそうなのですか? どうも私には……あなたが今の自分自身の発言に疑問を持っているように感じる」
サビ様の言う通りだ。これは単なる仮説……それも私のしょうもない浅慮によるもの。
「そう……でしょうね。そんな難しいものでもないでしょう、彼女の行動の理由は」
再び私は思考を巡らせる……
思えば私が彼女から与えられたものと、彼女に与えたもの。その二つはどう考えても釣り合わない……私の与えたものなど、私が彼女から受け取ったものからすれば取るに足りないものだ。そのことを理解していないほど、彼女は愚かではない。
「単なる……気まぐれではないでしょうか?」
「気まぐれ……ですか」
サビ様は微妙な表情を浮かべていた。私もサビ様の望んでいたような十分な答えを提示できたとは思えない。しかし、実際今の私にはこれぐらいしか想像がつかない――これが事実だ。
サビ様はしばらく思案する様子を見せたと思うと、次には私に穏やかな笑みを見せた。
「実にはっきりとしない……しかし納得のできる話ですね」
サビ様の笑顔は、先ほどの私の答えが十分なものであった……そう言っているように思えた。
「残念ながら……私がこれ以上力になることは……」
「いえ……とりあえずはそういうことにしておきましょう。この場に村長がいなくてよかったですね……彼がこんな結論を認めるわけはありませんから。ところで……村長とは何を?」
私は先ほどの村長とのやり取りのすべてを話した。村長らしくない言動のためか、サビ様は時折驚いたような表情を見せたが、それと同時に安堵した様子も見せた。
「そうですか……彼の結論はそれですか」
サビ様の言葉には村長の変化に喜ぶとともに、ようやく決心がついたかとほっとしているような……そんな調子が含まれているように思えた。
「村長……とは、もう呼ぶのはおかしいですね。バルト――そう呼ぶことにしましょう」
彼は自身の抱える重りから解放されたのだろう。村長という重りから……
サビ様は、今はほかの場所にいる村長をからかうようにそう言って再び笑みを浮かべた。らしくもないサビ様の様子に、私は彼女のことをあまりよく知らなかったことに気が付いた。と同時にどこか距離を置いていた、彼女の新たな一面が見えた気がした。
変わったのは……サビ様も同じだ。
「では村長、こうしている場合ではありません。すぐにでも行動をしなければ……そうでしょう?」
サビ様はここぞと村長という言葉を強調した。いまだ実感が湧かない……本当に私などに務まるのだろうか?
……私自身はどうあれ、周囲は私を認めているのだろう。実際サビ様は亜人の国の成立を目指すという私の発言のことを言っている。本気で目指すつもりなのだ……サビ様は。いや――おそらく多くの者たちがそれを了解している。であれば、私がいつまでも迷っているわけにはいかない。
「まずはバルトを呼び戻すとしましょう。老いぼれは早く身を引くべきなどと……バルトにもたくさん働いてもらわなければならないというのに……」
サビ様が小さなため息を漏らすと同時、私は苦笑いを浮かべて言った。
「そうですね……全く、やる前から気が滅入ってしまいますよ。やるべきことはいくらでも……」
こうして、なんの偶然か……私はこの小さな集落の長となった。後悔はない……心の中でいつだって集落の未来を憂いていた。そんな未来を良い方向へと進められる……そしてそれが私自身の手で行うことができる、その力があるというのならば……
私は後悔しない……




