外へ
岩に激突したと思った瞬間、私の視界は白一色に塗りつぶされていた。いや、あまりのまぶしさにそう見えただけなのだろう。
頭上から降り注いでいるのは、洞窟内では一切感じることのできなかったもの……外の光である。暗闇に目が慣れすぎていたためだろう。すでに日が落ち始めており、特別光が多いというわけではなかった。
周囲を見渡しながら、私は自分自身の体が空に浮かんでいることを認識した。そして穴の外に出た今もなお、上昇を続けている。
空を飛べるという確信……あれだけ必死に体を浮かせようと奮闘していたのにもかかわらず、私の体は浮かぶことすらしなかった。しかし今の私は、まるで自分が空に浮かぶ雲になったのかと錯覚するほど、体に重さを感じなかった。ぷかぷかと私の体は上昇を続け、全く高度を落とす気配が無い。
そこに来て、ようやく私の頭が追い付いたのか、自分の今すべきことに気づいた。とにかく今は地面に足を付けなくては……
私は宙を足で蹴る。私の体は一切体重を感じさせない動作でゆっくりと回転した。まるで水中を漂うような非現実的な感覚を覚える。そして体が逆さまになったところで、再び宙を蹴った。その際、意識的に魔力を足先から放出させた。空気よりももっと重い何かを押しのけたような感覚を覚える。かすかな魔力の流れが自分自身を包みこむのを感じると、私の体は上昇を止め、空中で静止した。
全身に微量の魔力を纏わせることで、安定して空中に浮遊することができている。おそらく、蝙蝠たちも微量ながら常に魔力を纏っているのだろう。翼だけで空を飛ぼうとしていたのは無謀だったのか……そもそも私の翼は魔力なしで空を飛ぶことはできないといえる。
やがて白一色の視界は薄れ、徐々に世界の輪郭をとらえ始める。眼下に広がるのは新緑の木々。吹き抜ける風に乗って、木々の手足が波打つ姿が目に入る。一本一本の樹形までは見えないが、全体としてみれば森が呼吸をしているようだった。木々の隙間には幾重にも分かれた小川のきらめきが見えた。
私の周囲には相変わらずのように、大量の蝙蝠たちが飛び交っていた。眩しさに目を手で覆い隠す私を窺うように、彼らは私の事を見つめている。
ふと、蝙蝠たちとは違う魔力の流れが感じられることに気が付いた。すぐ近くの岩陰に……三つほど。どれも洞窟内の魔物よりもはるかに小さいが、間違いなく生き物ではあるだろう。三つの魔力のうち、二つは同じくらい、もう一つは他よりも大きい。洞窟内の魔物のようにこちらに敵意があれば、攻撃を仕掛けてくる前に殺してしまおうと思ったが、一向に動く気配がない。
三つの魔力以外にもここには多数の魔力を持つ生き物の存在が感じられた。冷え冷えとした洞窟内の雰囲気と比べ、この森は豊かな緑と生き物にあふれていた。そんな温かな雰囲気に私の気分も自然に温かくなったのか、体の表面が熱くなってくる。
私は軽く移動をするために軽く宙を蹴り、森の上空を滑るように飛んだ。軽く蹴ったつもりだったが、思った以上に勢いよく私の体は飛んだ。景色が流れるように変化していくが、視界は依然として緑が広がっているだけだった。
軽く見ただけでもかなり広い森のようだった。見える範囲はほとんどすべてが木々で埋め尽くされている。ある方向だけは、木々が一切見られない緑の平原が広がっている。魔物
も多く生息しているようだった。
森をしばらく進むと、木々の密度が薄い場所にたどり着いた。木々の間をかき分けるように、流れの穏やかな小川が通っている。水深は浅く、底の石が透き通って見える。歩いて渡ることも可能だろう。
この透き通った水は、この森の緑の豊かさを体現しているともいえる。自然に私の喉も鳴っていた。相変わらず喉の渇きは消えず、不味い魔物の血の余韻がいまだ喉に残っている。ここらでその気持ち悪さを洗い流すのもよいだろう。そんな自分自身の感情にしたがって、私は川に静かに降り立った。
私の飛んだ空をたどるように、蝙蝠たちが必死に私を追いかけてくる。ここまでの案内を終えた彼らが私をついて回る理由などないはずだが……
相変わらず、似つかわしくない色を浮かべた白い蝙蝠が私の視線の先を遮った。蝙蝠たちを率いるように先頭を飛んできたようだ。私は不規則に飛び舞う白い蝙蝠をにらみつけた。その顔にはなぜか自信に満ち溢れているような様子が窺えた。
見ているだけで気分の悪くなる白い蝙蝠を無視して、私は川沿いを歩く。そのうちに川幅が広がり、水深が深くなってくる。
川沿いにかがみ、川の水を手ですくった。透き通った水は一片の濁りもなく、私の掌をそのまま映し出していた。もはや喉の渇きに心配することはない。私は深い安堵と、水の味わいへの期待とともに、喉に水を流し込んだ。
ひんやりとした水の温度が唇を伝い、喉の奥へと流れ込んでいく。私は何の疑いもなく、やがてやってくる幸福感に身をゆだねようとしていた。
「……」
そう考えていた……
「……ッ!?」
喉の奥に水が触れた瞬間、感じたのは清らかな水の味わいではなく……焼けるような喉の灼熱感。そして今まで感じたことのないような激痛だった。喉から生じた痛みは稲妻のように全身に広がり、私の体を貫いた。
「あ“……ゲほッ……!」
思わず私は水を吐き出した。吐き出してもなお、喉元に残ったわずかな潤いがじわじわと、火であぶるように私を苦しめた。
これが空腹感のないことへの代償か――私の頭には真っ先にこんな思考がよぎった。もしかすると、私は喉を潤すために、あの魔物の不味い血を飲み続けるしかないのだろうか。自身の不死身にも等しい体に対する代償としては、当然と言えば当然だが……それでも認めたくはなかった。
私がうなだれていると、白い蝙蝠が私の顔を覗き込んできた。白い蝙蝠は、私を心配するでもなく、どこか笑みを浮かべているように見えた。まるで私の窮状を嘲笑うように。
その無遠慮な態度に私は鬱陶しさを禁じ得なかった。白い蝙蝠に目もむけずに手を振り払った。手に白い蝙蝠の体が当たった感触を覚える。バサバサと羽ばたく音は消え、耳に入るのは小川の流れる音だけになった。
私は先ほどまで白い蝙蝠がいた場所に目を向ける。そこには予想していた通り、白い蝙蝠の姿はなかった。白い蝙蝠はというと、小川を隔てた向こう側の木の枝に止まっていた。いや、あれは止まっているというよりも……引っかかっている?
何事かと思った私は、小川を飛び越えて対岸に降り立った。白い蝙蝠が引っかかっている木の元へ向かい、軽くその幹に手を触れた。高さは他の木々と大して変わらない。特別高くもないが低くもない。
このまま放置をしてもいいが、外に案内をしてくれた相手でもある。一応恩を返すために、私は少しだけ浮かんで、木の枝に引っかかっている白い蝙蝠を助けようとした。
その瞬間、手に触れていた木の幹から違和感を覚えた。何かが軋むような音が木肌から沸き起こる。ゆっくりとしたペースで木幹が曲がり始める。幹が少しずつ湾曲し、同時に周りの木々に引っかかった木枝がパラパラと落ち散っていく。ほんの少し幹に手を置いただけのはずのこの小さな木は、あっけなく根元からパッキリと折れ、地面に叩きつけられた。
確か洞窟で出会った巨大な蜘蛛といい、牛の頭をした魔物。体格は私よりもずっと大きかったが、大した強さではなかった。簡単に私の手で破壊することができた。しかし、私は少し勘違いをしていたのかもしれない。単に魔物が貧弱なだけだと思っていたのだが……
私はどうやら力の制御が出来ていないようだ。空を飛んだ際にも、ほんの少し力を入れただけで、思った以上に速度が出てしまったように
そしてもう一つ、私が自覚していなかったことがある。私は目覚めたときから今に至るまで、ずっと魔力を垂れ流した状態でいたのだ。周りばかり気にしていて、自分の状態を気にすることができていなかった。改めて自分の体を意識してみれば、まるで魔力の嵐が吹き荒れるように、絶えず魔力が体外に放出され続けていた。このままではあっという間に魔力が枯れ果ててしまうだろう。
この問題は一刻も早く解決をしなければならない。そう認識をしたところで、私はたった今起きている、私自身の肌の違和感を自覚できなかった。