嵐の後の静けさ
ピロー大森林……
その広大な森には大小さまざまな木々が生い茂り、魔物も多く生息している。その外観は――表面上は穏やかそのものだ。
しかし、森の一角……そこには、明らかに他では見られない異常な光景が広がっていた。周囲の木々は多くがなぎ倒され、そのほとんどの幹には、巨大な爪跡が刻まれている。緑の生い茂る地面は掘り返され、草の下の黒い土が露わになっている。
大きな爪痕の残るその場所を更に彩るのは赤い血飛沫。そこら中に転がる魔物の死体は、もはや原型をとどめないほどに切り刻まれ、飛び散った赤い血液がさらに緑を赤く染め上げた。
壮絶な戦いの痕跡の刻まれたこの場所……生き物の気配がしない中、かろうじて息をしている存在がいた。穴ぼこだらけになった地面に横たわるその黒い物体は、悲惨なこの光景に反して、吹き抜ける……穏やかな森の風に反応して、ピクリとその体を震わせた。
黒い翼を生やした一つの影が、森の上空を風のように飛んでいく。
「(反応が……ないですね。すぐに連絡するように言ったつもりでしたが……。)」
森の中の少し開けた場所に降り立つと……それは巨大な一対の翼を覆い隠すように黒い外套を羽織った。
ちょうど日が昇り始めた頃……忌まわしき光の眩しさに顔を手で覆いながら、シャナクはうんざりしたようにため息をついた。
大小さまざまな木々から伸びる枝は、まるで網のように頭上に張り巡らされており、そこから生える緑色の葉がさらに頭上から降り注ぐ光を遮る。薄暗い森にちらほら見られる細い光の柱は、森の中を飛び回る微小な生き物の姿をわずかに見せる。光の柱の周りに集まるその姿は、この森の幻想的な一面を見せた。
シャナクは明らかに嫌なものを見るような目をその光の柱に向けると、それを避けるようにして薄暗い森の中をすすんで行く。実際には、彼女がこんなことをわざわざする必要はない。日の光を苦手としているのは、吸血鬼……彼女の主だけだ。
暗い場所を好み、人間の血肉を好んで食す……という点では、吸血鬼や吸血蝙蝠、そして彼女の種族である人蜘蛛は似ているが、吸血鬼のように日の下で体が崩れる……ということはない。
ここで彼女がこのような行動をとったことには、少なからず……彼女の主の影響を受けていることも理由してあるだろう。
その後もシャナクは森をゆっくりとした歩みで進んで行く。そうしているうちに、次第に森の様子が変化し始める。
草木の匂いの中にわずかに何かが腐ったような不快な匂いが混じり始める。木々が生い茂り光もわずかしか通さなかった森の景色は、多くの光を通すようになり始める。根元から折れた倒木が地面に横たわり、平坦で穏やかな雰囲気を漂わせていた森の様子を一変させる。
地面に広がる木の残骸は、もはや足の踏みどころがないほどに地面を埋め尽くしており、シャナクが歩みを進めるたびに、足元ではバキバキと木の枝が折れる音が鳴り響く。シャナクは足元ほどまであるスカートの裾を少しだけ持ち上げると、地面を埋め尽くす木々の残骸の上をそろそろと歩いていく。そうして進んで行くうちに、木々の中に何だか分からない……何か赤黒い物体が姿を見せるようになる。
まるで原型をとどめていない……その成れの果てを見つめてシャナクは――表情ひとつ変えずに、ふっと息を吐いた。
「(魔狼の習性を利用したつもりでしたが……どうやら、上手くいったようですね。)」
魔狼……
ピロー大森林に多数生息する夜行性の魔物であり、その獰猛さでもよく知られている。彼ら魔狼は、群れでの行動を主としており、少なくても三匹以上で固まって行動している。そのため、単体であれば低位の冒険者でも十分に対応できるものの、群れの規模によって大きく危険度が変化する。同じく集団行動を行う吸血蝙蝠に並んで冒険者たちには危険視されている魔物である。
そして、彼らの習性としてもう一つ……それは、仲間意識の強さである。周囲にいる仲間が殺されるようなことがあれば、他の群れがやってくる……というように、彼らは仲間の死に敏感だ。
加えて、群れのリーダー格が一匹殺されるようなことがあれば……群れの緊張は一層高まることとなる。
偶然にも、以前にアクセリアが夜の森で出会い、そして殺した魔物のうち……それに、群れのリーダー格の一匹が含まれていたのだ。
魔狼の中でも大きな力を持つものは、その体を黒く染める。その二匹いた強い力を持った魔狼が、それぞれ別の群れのリーダーであったのか……それとも、互いにリーダーをめぐり争っていたところなのか……。どちらにしろ、彼女の行動により、仲間意識の強い魔狼……その群れの緊張が高まったのは確かだ。
彼女の知識を受け継いだシャナクは、それを利用し、今回の行動に出た。そもそもの原因を引き起こした当人は、そのことを事前に予測していた……わけもなく、単なる偶然に過ぎなかったのだが……。結果的に、それは優秀な眷属によって有効活用されることになった。
魔狼の血肉がそこら中に散らばる中……シャナクは、よろよろと体を起き上がらせようとしている黒い何かを見た。全身を黒い毛で覆い、その体は彼女の体とは比べ物にならない大きさだ。体中を爪のようなもので切られたような跡で刻まれている。すぐにでも死ぬ……ということはないだろうが、少なくとも戦うことは出来ないだろう。
黒い狼は近くにいるシャナクの姿を見つけると、片目だけ残った赤い瞳でシャナクを鋭く睨みつけた。シャナクは自身に向けられた視線に返すように、黒い狼を一瞥したが、まるで何事もなかったようにその目線を黒い狼から外した。
「……特に期待はしていませんでしたが。やはり下等生物は所詮この程度でしたか。これでは、わざわざ力をお与えになったアクセリア様も、さぞ期待外れでしょう……」
緑が覆う地面は掘り返され、黒い土が露わになっている。その上で、ぼろきれのように転がっている獣人の少女の姿を見て蔑むように呟いた。
「……いるんでしょう?いつまで隠れているつもりですか……?」
さらにシャナクは言葉を続ける。たしかに目線は地面に横たわる獣人の少女を見つめてはいるが……言葉を投げかける相手は、明らかに他の何かに対してであった。
「……はいよ、全く、シャナク様には逆らえないな。」
「まさか、眷属が主に逆らうつもりがあったと? そもそも眷属というものは主に絶対服従ですが?」
シャナクは若干苛立ったような表情を浮かべながら、声の主へ言葉を投げかける。声の主は、その問いかけに対して何も答えない。しかし、威圧するようなシャナクの視線に、観念したのかその姿を見せた。
獣人の少女ーーカルムの体から姿を現したのは、小さな蜘蛛だった。
「だからこうして従ってるじゃないか。こんな奴の世話なんて誰も進んでやろうとは思わないぜ?」
「……無駄口は不要です。なぜこちらへ連絡をしなかったのですか? 私と私の眷属は互いに離れた場所からも意思疎通を取ることが出来ます。それをあなたが知らないはずはありませんが?」
冷たい口調で言い放つと、シャナクは小さな蜘蛛を睨みつけながら続けた。
「全く、死んだなら早く死んだと言えばいいものを……」
「それは違うな……シャナク様」
小さな蜘蛛は、シャナクの言葉を遮るようにして答えた。それを聞いたシャナクは、怪訝そうな表情を浮かべながら小さな蜘蛛へ問いかけた。
「……どういうことですか?」
「なぁに、そのままだ。こいつは生きてる。」
そんな小さな蜘蛛の言葉に、シャナクは懐疑の視線を蜘蛛に向けた。そして、その視線をカルムへと向けた。その体からは魔力の流れは感じられない。魔力の流れが感じられない……というのは、その者が死んでいるか、あるいは感じられないほどに小さな魔力しか発していないかのどちらかだ。
その瞬間……シャナクは、ぼろきれのように転がっているカルムの小さな指が、ピクリと動くのを見た。
「……なるほど、これは予想外でした。今までと違って、良い意味で……ですが」
その獣人の少女が、確かに生きている……ということを確認したシャナクはそう呟くと、うっすらと笑みを浮かべた。
「(なるほど……あの魔狼にあそこまでの深手を負わせるとは。正直なところ、私は何もできずに喰い殺されるだけ、と思っていましたが……)」
そう言って、シャナクは先ほどからこちらを睨みつけている黒い狼へと視線を向けた。片目は完全に潰されており、使い物にならないだろう。しかし、もう一つの赤い瞳は依然としてギラギラと輝いており、今も忽然と現れたシャナクに対して、殺気を込めた視線を向け続けている。
そんな黒い狼に対し……シャナクは冷たい瞳を向けた。
「獣風情が……」
次の瞬間、周囲に冷たい風が吹いた。
正確には、殺気ーーシャナクから放たれた凄まじい殺気は、周囲の木々を震わせるほどの波動となって森を支配した。周囲一帯を覆いつくす殺気の波動は、物陰に身をひそめていた小動物たちへ対しても恐怖を植え付けた。
地面近くの草木の影……背の高い木々から伸びる葉の影からも次々と何かが逃げるように飛び出してくる音が聞こえてくる。
そんな恐怖の権化を目の当たりにした黒い狼は、確かな恐怖を感じていた。自身とは別次元の強大な存在。魔狼のリーダーとして今まで強者としてその力を振るっていたが、強力な魔物の溢れるピロー大森林において、彼よりも強い魔物もいないわけではない。
しかし、それとは別の、どうあがいても叶うことのない存在に、黒い狼は弱者として、ただ恐れおののいていた。
「グ……ゥ……」
一歩二歩とその体を後ろへと後退させ……そして最後には背中を見せて逃げ出した。無防備に背中を見せる……その危険性など黒い狼がカルムにしたことからも明らか。しかし、そんなことを考える余裕など黒い狼にはなかった。ただあるのは、この場からすぐにでも逃げ出したい……という感情のみだ。
シャナクは、森の奥へと消えていくその黒い狼を見つめていたが、追うつもりは毛頭ないようだった。彼女の中では、あの魔物の存在はこれ以上気に留める必要もない……その程度の認識であった。
そんなシャナクの殺気など気にも留めていない存在が一匹……小さな蜘蛛は依然としてカルムの背中の上でくつろいでいる様子であった。
シャナクはそれを見て、呆れたようにため息をつくと、羽織っていた黒の外套の袖を少しだけまくった。露わになった白い肌はすぐに黒い何かによって覆いつくされた。薄い毛におおわれたそれは、カサカサと音を立てながら外へ這い出して来る。
一体、体のどこに隠れていたのか……その巨大な蜘蛛はシャナクの体にその八本の脚で器用に絡みついていた。その大きさは、彼女の体半分を覆いつくすほどの大きさであった。
やがて、ビキビキという音とともに、蜘蛛の体には亀裂が入り始める。毛の生えた硬い背甲はぱっくりと二つに割れ、その背中からは一対の黒い翼が現れた。それは翼というにはあまりに異形の姿をしており、厚く……でこぼこした表面に、体同様に短い毛がびっしりと生えていた。
その巨大な蜘蛛は、のそのそとシャナクの体を伝い地面へ達すると、そのままゆっくりとした動きで倒れたカルムの下へ歩みより……そして立ち止まった。赤い八つの瞳がじっと何かを見つめていた。
「……ちっ、堅物が」
言葉は介していないが、何かの意思疎通をしたのか……しばらくの後、小さな蜘蛛が吐き捨てるようにして呟いた。
体格に大きな差のある二匹の蜘蛛は、お互いそれ以上のコミュニケーションを取ることはなかった。小さな蜘蛛は再び服の中に隠れたのか……姿が見えなくなってしまった。大して、巨大な蜘蛛は言葉一つ発することはなく、その巨大な脚を覆いかぶさるようにしてカルムの体に絡みつかせた。
この森へやってくる際と同じ光景ではあるが、唯一違うのは、カルムが少しの抵抗も見せなかったことだ。
シャナクは巨大な蜘蛛に視線を向けると、それに応えるように巨大な蜘蛛は頷いた。ゆっくりと反対方向へ体を反転させると、異形の翼をはためかせ、空高く舞い上がった。やがて、その姿は小さくなり……まだ朝日が昇り切っておらず、広い空に赤色が残る中。黒い点となって空を飛んでいくそれは一際目立って見えた。
「(唯一言葉を話せる眷属があれとは……もう少し考えるべきだったかしら)」
すっかり静まり返った森の中……シャナクは一人頭を抱えていた。自身の種族である人蜘蛛……それと同系統の蜘蛛の魔物とは波長が合い、眷属とするには一番合っている。例えば、吸血鬼であれば、蝙蝠と相性が良い、といったように……
シャナクはアクセリアにより生み出されて以来、自身の眷属を増やし続けた。全ては、主であるアクセリアの命令を完遂するため……
しかし、一言に蜘蛛の魔物と言っても、様々な者がいる。あの巨大な蜘蛛のように、一度主となった相手に対しては文句ひとつ言わずについてくる者もいれば、小さな蜘蛛のように、軽口を叩く者もいる。
自身に対する敬意の欠如は、すなわちその主である彼女への敬意の欠如に直結する。自身の敬愛する主を軽く見られているように感じ、シャナクは自身の眷属である、あの小さな蜘蛛への苛立ちをわずかに募らせていた。
そして、頭によぎるのは一匹の蝙蝠の姿。蝙蝠としては似つかわしくない白い体をしたそれは、自身が生み出されるよりも前に、敬愛する主とともに行動をしていた。しかし、不思議なことにその正体はよく分かっていない。
何しろ、生み出されたばかりのシャナクの大部分を形作っている、主であるアクセリアの知識。半分だけ受け継いだその知識の中に、その正体を示すものはなかった。そして、そのほとんどの知識を記憶とともに失ってしまっている彼女もそのことを知っているはずはない……
ただ、今の時点で分かっている事。それは、あの白い蝙蝠が小さな蜘蛛同様、主に軽い態度を取っているということ。そして、どうも掴みどころがない――ということ。
次々と頭に浮かび上がるモヤモヤに、すっきりとしない気持ちを胸の中に抑えながら、敬愛する主の命令を完遂するため……シャナクは再び空へと飛び立った。




