縦穴の戦い
風の流れがより鮮明に見え始める。肌に感じるひんやりとした感覚とともに、視界に移る流れが私の頬を撫でる。目覚めてより、私を導き続けていたこの流れの正体は、やはり風の流れであったようだ。洞窟の外からやってきた風は洞窟の奥深く、私の眠っていた場所にまで辿り着き私を導いていた。
「……っ」
ふと右目に痺れるような痛みを感じる。体は痛みが生じた際の対処法を知っているようで、考えるよりも早く私の手は痛みの生じる右目に伸びていた。
これによって何かが変わることはない……それは私も分かっていた。ただ反射的に体が動いてしまっただけだ。右目を覆うように押さえた私の手――そこには暗闇が広がっていた。
――おかしい
私の頭に浮かんだ最初の言葉はそれだった。右目を通して映し出される光景は変わることはない。たとえそこに、瞼という壁があろうとなかろうと。
次に目を開けたとき……そこには今までとは違う景色が広がっていた。特段変わったものなどではない……普通の景色。私からすれば――左目と同じ視界が広がっていた。
突然立ち止まった私を変に思ったのか、前を進んでいたはずの蝙蝠たちの赤い目の光がこぞってこちらを見つめていた。そこに言葉は存在しないが、彼らが私のことを心配してくれていることは分かる。
同じく私を見つめる白い蝙蝠に関しては、恐らくそのような厚意はないだろう。もっと不愛想なものだ。
彼らの案内は、ちょうど私が道としていた風の流れに沿ったものであった。この洞窟での長い時間を通して、私と彼らの間の関係性はかなり深まった。言葉を交わすことのできない私が彼らの感情を読み解くことができたように。
しかしその中でも、白い蝙蝠だけは私にとって謎の多いままだった。最初に出会い、本来であれば最も信頼を寄せるべき相手であるはずなのだが、この白い蝙蝠には軽々しく気を許せない。しかしどこか安心感を覚える節もある。
私と彼ら――蝙蝠たちの間には何か他の繋がりを感じる。時を共にして育んだだけとは考え難い……私には彼らの心情が読めすぎている。
風の流れをより肌で感じるようになる。いまや風の流れを目に見ることは出来ないが、それでもはっきりと風が吹き込んで来ているのが分かる。外が近い証拠だ。
そして洞窟の雰囲気は一変した。淡い青を放っていた洞窟の岩肌はすっかり光を失い、苔むした岩の壁へと変化した。
岩壁の放つ光を失い、より深い暗闇が辺りを包んでいた。幻想的な雰囲気は失ったが、代わりに冷え冷えとした洞窟の色は温かな――生き物の気配を感じるものへと姿を変えていた。
長く一直線に続いていた道を進んでいくと、少し開けた場所に出た。そこは巨大な縦穴だった。高さはかなりのもので容易に上に登れるものではない。
肌を撫でる風は相変わらずであったが、同時に頭上から吹きかけられる感覚を覚える。風によって自分の長い髪が揺さぶられるのを感じた。見上げれば、暗闇の中にわずかに差し込む日の光が見えた。空のコップに針の先ほどの大きさの穴から注がれた温かな陽光は、底に小さな陽だまりを作っていた。
両目に差し込んだ光は妙に眩しく感じ、正面から受ける風も相まって私の眼にわずかな痛みを生じさせた。
この縦穴を上まで登ることが出来れば、めでたく私は外に出ることができる。それが出来れば、の話だが――
翼があるのにも関わらず飛ぶことのできない私が外に出るためには、この壁をよじ登るしか方法はない。幸い壁にはごつごつとした凹凸があり、よじ登ることは可能だ。しかし外に通じているであるだろう穴は、あの光を見る限りかなり小さい。その理由はどうやら、縦穴にはちょうど蓋をするように巨大な岩が覆いかぶさっているためであるらしかった。
わずかな隙間はせいぜい蝙蝠が一匹通れるか否かといったところ。私が通れるはずはない。とはいっても、その点に関しては私の魔法で岩を溶かしてしまえばいい。問題は上まで登ることだ。
縦穴の壁に近づいた私は、岩壁の凹凸に手をかける。思った以上に岩壁は柔らかかった。少し力を入れて押し込んだ私の指は簡単に壁にめり込んでいく。力を入れすぎて壁が崩れることを警戒しつつ、私は少しずつ上へ向かって壁を登って行った。
それからしばらく、壁を半分ほど登った時だった。いよいよゴールも見え始め、壁に対する指の力加減にも慣れる。張り詰めた気持ちを解き、気が緩み始めるには十分な時間だ。ふと何かが動くような音を聞いた。
周囲には壁を上る私を囲むように蝙蝠たちが飛び交っている。彼らの羽ばたきの音は常に私の耳に入ってきていたが、それとは別――地面の下を進むような低く鈍い音。自分の立つ場所より下を地面というならば、それは今や私の遥か下にある。しかし、ここは地下深くから繋がる洞窟。この壁も含めた……私の周囲すべてが地面そのものだ。
手をかけた壁から振動が伝わってくる。岩壁を突き抜ける音、それとともに私は自身の手首に触れた感触に気が付いた。
「……ツタ?」
手首に感じた感触というのは、植物のツタのようなものが絡まった感触だった。ツタは太く表面がザラザラしており容易に抜けることはできない。無理して抜けようとして腕に傷を負うのは構わないが、それによって壁が崩れればまた振り出しに戻ってしまう。
そうこうしているうちにも、ツタはあちこちから壁を突き抜けて現れ私を拘束する。両手首に両足。胴体までもが現れたツタによって押さえられ、もはや体を動かすことはできない。
やがて壁中に穴を開けたツタとともに、巨大な何かが姿を現した。
「クシュルルルルルル!」
頭の奥にまで響き渡るほどの、耳障りな甲高い音。やがてそれが現れた存在から発せられていることを理解した。赤い花弁を大きく外に広げた美しい花。しかしその赤い花は本来の花の姿とは異なり花弁の内部に穴が開いていた。穴の奥は先が見えず、鋭い棘のようなものが穴を縁取るようにして付いていた。その外見は植物が持っているはずのないもの……口によく似ていた。
周囲を見渡せば、私を拘束しているこの魔物の同種と思われるものが複数。こちらの様子を窺うように花弁の内側をこちらに向けている。
壁から生えたツタが私を拘束していたのは、もしかすると幸いであったのかもしれない。そのおかげで、動けないと同時に壁から滑り落ちることもない。
私はかろうじて動かすことのできる片方の手首を動かし、指先を魔物へと向ける。指先に集中させた魔力とともに現れた魔法陣からは、どす黒い赤い液体が流れ出した。以前使った魔法と同じものだ。
流れ出した液体はまるで重力を無視した様子で私の周囲に球体を描きながら渦を巻いていく。徐々にその大きさを増していく球体は私の周囲を守るように、岩壁を抉りながら広がっていく。周囲にまき散らされる液体を見て、いち早く自らに迫る危機を察した蝙蝠たちは群れを為して縦穴の底まで避難をしている。一方、私を掴んでいた植物の魔物は苦しみに悶え、先ほどよりも更に耳障りな甲高い声で喚いた。そして自らの苦しみの元凶である私に空虚な穴を向けたかと思うと、そのまま私を投げ捨てるように宙に放り投げた。
私の周囲を囲うようにして広がっていた球状の魔法は、その壁にぶつかる寸前にその形を失い空に四散した。魔法の力を失った赤い液体はまもなく気体となって消えていったが、それでも間に合わなかったものが水滴として私の肌に触れた。その多くが私の肌をわずかに溶かし消え、翼に若干の痛みを生じさせるものもあったが、そのいずれもが一瞬のうちに元通りになっていた。
結局、ふりだしに戻ってしまった。上を見上げるとそこには私の魔法を受けた魔物たちがいまだ苦しみ悶えている姿が見えた。同時にそこには見慣れていながらも、驚きを覚える光景が広がっていた。
苦しみ悶える魔物たちの体が若干ではあるが再生し始めていた。溶けてなくなったツタからは、その断面から急速に植物が成長するように先端が伸びていく。一部の溶けてしまった花弁は一瞬のうちにその鮮やかな色を失い土色に変わる――と思うと、花の中心から小さな花弁が現れそれが急速に成長を始める。やがて新しい花弁と入れ替わるようにして、土色の古い花弁はひらひらと宙を舞い落ちた。
魔物たちから感じられる魔力はさして強大なものではない。しかしなんの偶然か……彼らは再生能力を持っているようだった。それは私に比べれば随分と穏やかなものではあるが厄介極まりことには変わりない。
経験上、再生よりも早く体全てを消滅させてしまえばよい。しかしあの魔物たちは体の大半を縦穴の岩壁の中に潜めているようで、その全貌が分からない。以前のようにはいかないだろう。あれをどうにかしなければ、再び苦労して壁を上っても無駄になってしまう。
「一体どうすれば……」
意識せずに発した言葉がきっかけであったのか……それから時間のあまりたたないうちに、ふと周囲の魔力の流れに気になるものを感じた。それは特に、正体の分からない存在として私が特段目を向けていたためでもあるだろう。
見慣れた魔力に惹かれ目を向けた先には、全身に青白い靄を纏った白い蝙蝠がいた。普通に飛んでいるように見えるが、時折加速をしている。白い蝙蝠に纏わりついた青白い靄は活発に流れを見せ、それはまるで一つの生き物のようであった。
白い蝙蝠の姿に注意を向けている間、異様な感覚を私は覚えていた。それは次の瞬間に確信へと変わった。頭上から吹き付けられた風ともに、私の片方の視界は白に包まれた。
右目の視界がいつの間にか変化していた。再び視界には青白い靄――魔力が現れ、先ほど私の視界を覆いつくしたのは外から縦穴に流れ込んできた風だろう。
何故、一度元に戻った視界が再び変化したのかは分からない。しかし、結果的に私はここを抜け出す方法を思いついた。
白い蝙蝠の様子を観察する限り、どうやらあの不自然な加速は魔力によるもののようだ。魔力を全身に纏い、勢いよく空に放出することで加速する。同じ魔力を扱うことが出来る私であれば同じことが可能かもしれない……
白い蝙蝠は私にこのことを気づかせるために、わざわざあのような不自然な動きをして見せたのだろう。
体の中心あたりに力強いエネルギーを感じる。山の奥深くから湧き出た小さな水の流れが、やがて大河となるように――静かに流れだした私の中の魔力は全身を伝って巨大な流れへと変貌していく。
背中を包み込む力強い流れを感じ、魔力は翼へと帰着する。枯れ果てた植物が水を得て本来の姿を取り戻す――即ち私の翼は、翼としての役割を取り返した。
力強く踏み込みとともに地面に打ち出した魔力は大地に亀裂を刻み、縦穴の底に巨大な窪みを作り出した。宙を飛ぶ私には地面に繋ぎとめようとする力さえ意味を為さず、ただ上昇を続けていた。横目に一瞬目に入った光景には先ほど戦った魔物の姿もあり、彼らの無数のツタが私に手を伸ばし――そのどれもがむなしく空を切っていた。
全身に纏わせた魔力を維持するとともに、手元へと集中させていく。まもなく魔法によって縦穴を塞ぐあの巨大な岩を溶かし、私は外に出ることができる。
不思議と心が弾みだした自分を見た。見たことのない世界ではない。外にどのような世界が広がっているかなど、多くを知らない私でさえ十分に理解している。にもかかわらずこのような感情を抱くのは、やはり多少の期待のようなものがあるのか……
「……?」
何か不吉な予感が私の頭をよぎった。ここまで全てが想定通り。白い蝙蝠の不自然な動きの正体は私の右目によって判明、こうして縦穴を脱出し、私は洞窟の外に出ることが出来る……
少々浮かれた自身を諫めるための忠告だったのか。だとしたら気を張り直さなければならない。この先、想定外の事態が起こっても平気なように……
私の考えは間違っていなかった。確かにこれは忠告。浮かれた私を諫めるため――そしてもう一つは、理解の及ばない私に対して。私に絡みついて離れない、課せられた耐え難い呪い。再びそれを呼び起こしてしまうことに対する、私の記憶が発した最後の忠告だったのかもしれない……
収まる気配のない急激な景色の変化に空気を押しのける感覚。予測ではこの辺りで減速を始め、魔法を使う余裕があるはずだった。
「(……止まらない!?)」
目前にまで迫った巨大な壁に対し、魔法を発動させる余裕などはない。もはや私には立ち塞がる巨大な岩に身を以てぶつかる他はなかった。